第4話 香辛料のごとく刺激的
アニスロッテがデュランに契約書の署名を求めていたとき、屋敷の外から馬蹄の響きが届いてきた。呼び鈴が鳴らされるも、自室に控えていたソーミャが応対する暇もなく、合鍵を使って屋敷の応接間に入ってきた者が一人。
やはりね、とアニスロッテは短く呆れの嘆息をした。
「やはりな」
開口一番、アニスロッテと同じ台詞を口にしたのはクラウゼン家の新当主、セレスタン・クラウゼンだ。
「……兄様、いかがなさいました?」
妹と同じ菫色をしたセレスタンの瞳が怒気に満ちている。
「いかがも何もあるか。絶対におまえは僕の言いつけを聞かないだろうと見当をつけていた。その通り本邸に来てみれば曲者が!」
「おれか」
なお、曲者当人は悪びれた様子もなく冷めきった紅茶のカップを傾ける。そして飲み干し、何事もなかったかのようにソーサーへと戻した。
「曲者とは、実に風流な呼ばれ方だ。二つ目の異名ができたな。ミストニアの敵どもには血染め卿としか呼ばれなかったから、少し新鮮だ」
「貴様、笑っていられる立場か! この妹を誰だと思っている! 貴族の──」
デュランはセレスタンの怒声を冷静に遮った。
「クラウゼン男爵家の令嬢だろう。承知している」
デュランは顔を上げると、にわかに昂ったセレスタンの視線を真正面から受け止めた。碧と菫の対照的な色が応接間の空気を張り詰めさせる。
「今し方、三つ目の異名が増えるところだ。貴殿の妹御からの大変ありがたい進呈なのだが、“名誉旦那様”という名目で雇用契約の提示を受けている。後は、おれの署名を待つばかりだ」
「な……!」
セレスタンの声が一段と低くなる。怒りのあまりか声帯を震わした。
「おまえは妹を、アニスロッテを、玩具か何かのように……っ!」
「それは違います。正しくはこうです──私を政略結婚という遊戯の駒にしているのは兄様でしょう」
アニスロッテがぴしゃりと割り込んだ。椅子を立ち、ひらりとスカートを翻しながら二人の間に立つ。
「兄様。進んで私自らが雇用夫となる契約を申し込んだのです。彼は、それを受けただけ」
「だとしても! そんな道化のような関係──」
「道化で構いませんわ」
アニスロッテは、はっきりと応じた。
「私が望むのは安寧と平穏、そして虫除け。兄様が送ってくる縁談の釣書を毎週のように処理するのは、正直言って、繊細な刺繍細工を相手にするより疲れますの」
「……っ」
セレスタンが歯噛みした瞬間、奥から現れたソーミャが頃合いを計ったように湯気を立てるティーポットを載せた銀盆を手にして現れた。
「セレスタン様も一杯いかがですか? 喉が渇いていらっしゃるでしょう」
「お、おまえな……」
「まさか、セレスタン様がお嬢様の要求を鵜呑みになさるような毒は入っていません。きっと」
ソーミャの小さな冗談にアニスロッテが微笑を返し、デュランは紅茶のおかわりを求めてそっとカップを差し出した。空気がやや和らぐ。
「兄様。父様……先代当主の遺言に従い、私はこの方の庇護者になります」
「それが、父の望みだったとしても……」
セレスタンは目を伏せ、ようやく怒りの芯を手放し始めた。
「本当に大丈夫なのか、アニスロッテ。こいつは血染め卿だぞ」
「ええ。それは知っています。でも、今のところは……」
アニスロッテはちらりとデュランの方を見やる。
「思っていたより、ずっと理性的ですわ」
デュランが絵筆で描いたような眉を跳ね上げた。
「それは賛辞と受け取っていいのか?」
「この場においては、これ以上ないほどの。それとも、“裁縫上手”の方がよかったです?」
言うまでもなく、デュランが腹の傷を自身で縫っていたことへの皮肉である。
「ふむ。敵に名乗れと言われたならば、ずいぶんと長い口上になりそうだ。……なに、これから斬られる相手にとっては、長すぎる名乗りは寿命への配慮が足りないと思ってね」
と、デュランが広い肩をすくめて豪語なのか本気の心配なのかよくわからない発言をしたが、この場にいる他の人間は、誰もそれを冗談とは受け取らなかった。
♢
兄セレスタンは、妹アニスロッテの決断に納得はしていない様子だったが、最終的には屋敷を後にした。手綱を握る背中越しに「この話はまだ終わっていない」とだけ言い残し、商会にほど近い別邸へと戻っていった。
そもそも、クラウゼン家の繁栄の礎が王都南端に構える「クラウゼン商会」である。レンゼル王国最大の港、コルン港にほど近い一等地に広がる漆喰と煉瓦造りの社屋は、元は倉庫を改装したものだが、今では高級オイルランプに照らされた輸入品サロンまで併設され、紳商たちの集う場としても名を馳せていた。
クラウゼン商会の主たる取り扱いは、香辛料、織物、染料、医薬品、そして稀少鉱石。中でもレンゼル王国南東、アトラール諸島との取引によりもたらされたスパイス類は、王都貴族たちの食卓に革命をもたらし、セレスタン自身が目利きした胡椒やクローブが「クラウゼンの金塊」と呼ばれて重宝されていた。
セレスタンは幼少より貿易に才覚を見せ、今や社長代理として実務のほとんどを取り仕切っている。武骨で気難しい面もあるが、それもまたクラウゼン家の真面目な血筋ゆえか。
セレスタンの姿が消えてからというもの、屋敷には再び静寂が戻っていた。夕暮れには庭園の白薔薇が金色に染まり、噴水の水音が涼やかに響く。アニスロッテは応接間から自室へ戻り、勿忘草の訪問ドレスから軽いワンピースに着替えた後、ダイニングルームへ向かった。
晩餐の席はアニスロッテとデュランの二人きり。使用人たちは一通りの給仕を終えると気を利かせて退き、クラウゼン邸の食卓には、銀燭台の淡い光と食器の触れ合う音だけが残った。
滑らかな白磁のスープ皿に注がれたのは、菜園で採れたばかりの新玉ねぎをふんだんに使ったスープ。
「玉ねぎを飴色になるまでバターソテーしまして、スープに仕立てましたの。チーズの焦げ目はソーミャの腕前ね」
アニスロッテが銀のスプーンを口元に運ぶと、熱々の玉ねぎとコクのあるチーズが舌の上でまろやかに蕩ける。対面の席に座るデュランも、ゆっくりとスプーンを口に運び、眼差しをわずかに和らげた。
「菜園の恵みですわ。こうして季節を味わえる暮らし、ほんの少しだけ贅沢でしょう?」
「ああ。戦場では決して味わえない贅沢だ」
メインディッシュは仔羊のロースト。骨付きのラムラックに香草とスパイスを贅沢に擦り込み、低温にてオーブンでじっくり焼かれたそれは、外側は香ばしく、内側は薔薇色を保っていた。
仔羊の滋味を引き立てるエキゾチックな香りの核となるのは、クラウゼン商会が扱うアトラール産黒胡椒、クミン、コリアンダー、そして菜園で収穫したタイムにローズマリー。
「甘く香るアニスやシナモン、それにオレンジピールまで使うなんて。ローストが甘味みたいですわ」
食後の一杯には、クラウゼン商会が試験輸入したバニラとカルダモンの香料紅茶。アニスロッテはそっとカップを置き、視線を送って問いかける。
「平穏の味はいかがでしょうか?」
デュランは少しだけ目を細めた。
「平穏の後には大概、荒波が控えている。スパイス交易船を出迎える凪の後の嵐のごとく、な」
「ならば、しばらくは波の音を忘れていなさいな」
夜風がレースカーテンを揺らす。晩餐の香りを運ぶ風が庭園へと駆け抜けていくようだった。