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執政室ときどきティールーム  作者: 槌乃こはく
一 その騎士肖像は微笑む
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第3話 虫除け契約

 レンゼル王都コルンの一等地、雑木林が取り囲む(かん)(せい)な高級住宅街、小高い丘の上。国内最大規模を誇るコルン港から馬車で半刻の距離に、クラウゼン男爵家の屋敷はある。周囲に建ち並ぶのは百年以上を経た歴史ある屋敷たちだが、クラウゼン邸はその半分の時しか過ごしていない。


 愛馬グラディウスを(なみ)(あし)にさせて御用馬車に伴走していたデュランは、到着したクラウゼン邸の豪奢さにぱちりと瞬きした。職人に手入れされた薔薇の庭園。人工池と噴水。屋敷の外観は壮麗と表現するほかない。愛馬を(うまや)においてから屋内へ足を踏み入れる。


 女中ソーミャがアニスロッテとデュラン、二人分の紅茶を手早く淹れて、後はゆっくりと言わんばかりに自室へと引き取っていった。


「さて、あなたを旦那様として雇用いたします」


 紅茶香る午後の応接間。アニスロッテはかねてより考えていた計画を打ち明かした。テーブル上のティーカップからはほのかに湯気が揺れる。穏やかな空気の中で放たれたその言葉は、場違いなほどの衝撃を伴って響いた。


「……旦那様?」


 対面の革張りソファに腰掛けたデュランは碧眼をすっと細めた。警戒というより、「理解はしたが得心はしていない」という反応だ。感情を大きく表さないが、その肩のかすかな震えからは戸惑いが見える。その指先が、カップの取っ手に触れようとして、やめた。


「簡単に言えば……あなたには、私の“虫除け”になっていただきます」


 アニスロッテは白磁そっくりのすらりとした指先で銀のティースプーンを弄びながら、まるで日常の話題のように言葉を重ねる。硝子ティーポットの中で茶葉が静かに上下した気配すら鮮烈に感じ取れるような緊張がその場に走る。

 

「虫除け?」


「ええ。戦後ですもの。貴族階級の“婚姻市場”はにわかに活性化しております。我がクラウゼン家の資産目当てに、ありとあらゆる縁談話が私のもとに舞い込んでくるのです。真面目に菜園も刺繍もできないわ」


 呆れたように息を吐いたアニスロッテが肩をすくめる。ふと窓の外の庭園に目をやれば、春の終わりを告げる薔薇の(つぼみ)が綻び始めていた。


 デュランはほっそりとした顎に手を当てて考え込む素振りを見せた。視線はどこか遠く、アニスロッテの顔ではなく、紅茶の湯気の向こうにある空虚を見ているようだった。


「それで? おれが夫のふりをすれば、東方の(ことわざ)のごとし、(タデ)食う虫が来なくなる……と」


 虫除け。アニスロッテの夫のふりをして彼女の求婚者を追い払うという、簡単でいて複雑な仕事。


「誰が蓼ですか。まあいい。察しがよろしいことで(ちょう)(じょう)です。そう、表に出るときだけでよいのです。祝宴の席とか、お茶会とか、舞踏会とか。そういう場面で、あなたには“契約上の(はん)(りょ)”として振る舞っていただきます」


 その声音は、まるで仕事の契約条件を読み上げるようだ。だがその裏側に不安や葛藤を押し込める気配を、デュランの耳は聞き逃さなかった。


「おれに断る選択肢は?」


 デュランは、自分が迷惑だからという自己優先より、アニスロッテが嫌々提案しているのではないかという危惧をしているらしい。


「あります、と言えば私が困りますので。その代わり、相応の謝礼、つまり給料はお支払いします。軍からの退役褒賞を奪われ、所持金も少なく、住まう家も職もないあなたに、これ以上ない住まいと収入、そして“穏やかな社会的立場”を提供する。それが条件となります」


 アニスロッテは一切の感情を交えぬ声で、テーブル越しに紙一枚を差し出した。その白磁の手がぶれないことに、デュランは感心したようだ。


 (かっ)(たつ)とした筆跡で記された契約書には、短くこうある。


『契約期間は半年。以後、双方合意の上で更新可能。禁止事項は恋愛。協議の元に条項追加・削除とす。』


「一つの石で二羽の鳥を撃ち落とす。そういうお話です」


 それを聞いてもデュランは紙を取らず、無骨な指の関節で、こつ、こつ、とテーブル板を軽く叩いた。迷いというよりは、過去の記憶を一つずつ紐解くような沈黙。


「おれは……人の心がわからん孤児だ」


 不意に落ちる低い声。その響きには、幾ばくかの疲れと、乾いた諦念が混じっている。

 

「家族ごっこをしろと言われても、そもそも家族がどういうものなのか、さっぱり見当もつかん」


「心配には及びません。私も、家族とは実のところよくわからないままですから」


 アニスロッテはどこか自嘲気味にそう呟くと、滑らかな白磁のカップを傾け、乾き始めた唇を茶で湿した。


「あなたは自由に過ごして構いません。厄介な親類も、面倒な干渉も、クラウゼン家にはありません。ただし、夫としての務めだけはきっちりと果たしていただきます。笑顔で隣に立ち、無礼な求婚者の盾になっていただく。それで充分」


 そしてふっと、銀髪の令嬢が目を細める。


「天下の悪名高き『血染め卿デュラン』へ()(かつ)に手を出して(しん)(さん)を舐めたいという蓼好きは……そうそういないでしょう?」


 その瞬間、デュランはようやく口元を緩ませた。感傷とは程遠い、だがどこか諦めを受け入れたような、皮肉っぽい笑みだった。


「人殺しが、仮初め夫か」


 仮初めでも家庭を持つことに対して著しく自虐心を(おぼ)えた表情だ。


「……いいだろう。雇われ夫、引き受けてやる」


 しばらくの静寂。午後の陽光が薔薇窓を透かして大理石の床に虹色の花々を描き、花瓶の白薔薇すらも淡く染めていた。


「きみ、一つ確認だが」


 ふいにデュランが口を開いた。テーブルに手をついて、ゆったりと身を起こす。


「夫という役割、ただ笑って隣に立つだけでいいとは言うが──」


「ええ、申し上げた通りですけれど?」


「だとしたら、おれを護衛騎士として雇った方が、体裁として筋が通るんじゃなかろうか?」


「それは却下ですわ」


「なぜだ」


 アニスロッテは椅子から立ち上がると、軽やかな足取りで部屋の中央を横切った。勿忘草(ワスレナグサ)色のドレスの裾がふわりと(なび)き、陽射しがその髪を銀糸のように煌めかせる。


「あなたが剣を提げて立っていらしたら周りが怖がるに決まっているでしょう? でも、私の旦那様ということになっていたら、多少ばかり顔が怖くても……恋は盲目、で済むんですのよ?」


 そこでくるりと振り返るとスカートの裾をつまんで、舞踏会の始まりを告げる姫君のように優雅な屈折礼(カーテシー)を披露する。


「それに、仮に誰かがあなたを『騎士のくせに貴族の飾り物か、手にする武器すらも飾りか、そもそも戦わずに逃げるのか』なんて、ねちねち侮辱したとしても……」


 アニスロッテの声色がほんの少しだけ(つや)を帯びる。


「あら、立派な騎士様が兵法書はご存知でない? 東方の故事には──」


 そこまで言って、一拍分のわずかな間を取る。薄桃色の花弁のような唇が、ほんのりと微笑の気配を浮かべた。


「三十六計逃げるに()かず、とありますのよ」


 むろん、東方の諺を引用して「蓼」と揶揄(からか)われたことへの意趣返しである。

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