第1話 遺言書
──『血染め卿の身元引受人になれ』。
それが父のたった一つの遺言だった。
王都軍務局の地下牢で、初対面の騎士は自分の腹を針で縫っていた。
「見てわかるだろう、裁縫だ」
こちらは騎士に淡々と契約書を差し出した。
『契約は半年。仕事は虫除け。禁止事項は恋愛。』
悪名高い騎士が、少しだけはにかんだ。
「人殺しが、仮初め夫か」
こうして始まった「夫婦ごっこ」は、王女の保護、実家の黒帳簿、王国の真実へと一本の糸で繋がっていたのである。
♢
爽やかな初夏の風が一陣、広大な庭園を通り抜けていった。麗らかな陽射しが、これまた大きなクラウゼン邸の建物を優しく照らす。
庭師に手入れされた季節の花壇。それと並ぶように設けられているのは、こぢんまりとした菜園。こちらは屋敷の住人が手ずから世話しているものだ。植栽は、葉菜、根菜、香草と多岐にわたる。アニスロッテはしゃがみこんで熱心に畝周りの草をむしっている。その指先は白絹のように繊細で透き通るよう。
「もう! 今年の雑草は根深いわね、ソーミャ」
雑草が元気だということは、肥料がよく鋤き込まれている証拠でもある。期待していない成果にアニスロッテが嬉しい悲鳴を上げると、スコップでひたすら草の根を掘り起こす作業に追われていた女中ソーミャが茶目っ気たっぷりに言葉を返す。
「お嬢様の育て方が大変よろしいのでしょう。雑草すら王侯貴族のように堂々たる根を張っておいでですわ。ここが自分の領地だとでも言いたげ」
ソーミャのくすんだ金の髪には薄緑の三角巾が巻かれ、腕まくりした袖口からは、わずかに日焼けした肌が覗いている。飾らない印象だ。
「ふふ、農家の娘に生まれていたら、案外幸せだったかもね。戦争が終わったら、こうして庭を耕して暮らすのが夢だったの。父様も、そんなふうに笑ってたわ」
「はい。旦那様も、奥様も」
「戦争が終わって、もう三月……」
アニスロッテは少し過去に思いを馳せた。このレンゼル王国と隣国ミストニアとの間に勃発した戦役の終結が約三ヶ月前、雪解けの季節だった。両国の講和まで実に七年の歳月を要した。かろうじての勝利の報せは、王都を皮切りとして瞬く間に国内を駆け巡り、人々の歓喜と安堵を誘った。
クラウゼン男爵家は元々、貿易で台頭した新興貴族である。この戦争中もいち早く軍需物資の運輸業に着目し、流通を掌握することで莫大な利益を上げた。その王国への貢献は国内で高く評価され多大なる名声を得ていた。
こうして富と地位を築き上げた傑物の父だが、一ヶ月前に海運事故で妻と共に急死している。妻は、アニスロッテと兄にとっての実母ではなく義母にあたり、すなわち後妻だった。
父は功績を正式に表彰されるはずであったが、代わりに王国からは弔意のこもった謝礼金が贈られた。それは過剰なほどで、優に三世代は食うに困らぬほどの額だった。ただでさえクラウゼン家に富は潤沢だというのに、両親を失ってさらに得たものが富とあっては皮肉なものだ。
それはさておき。
今年で齢十八になるアニスロッテ・クラウゼン男爵令嬢。月光を浴びた滝のような銀髪と、暁の一瞬を切り取った菫色の瞳という清廉とした容姿の持ち主である。兄の嫡男セレスタンが家業で屋敷を留守にするため、男爵家の長女として実家を守る役目を背負っている。裕福な収入があるにもかかわらず、家庭菜園と刺繍という、いたって当たり障りのない趣味を嗜む、静かで穏やかな暮らし。
目下の困りごとといえば、男爵家という家格の低さを気にする兄が、アニスロッテを政略結婚させようと隙あらば持ち込んでくる釣書の数々。言わずもがな、男爵は爵位の中で最下位だ。兄がアニスロッテをより上位の貴族家と結びつけようとするのは当たり前。古くから続く伝統ある貴族家は、クラウゼン家のことを「金で爵位を買った成り上がり貴族」と揶揄し眉をひそめることも少なくない。だがしかし、アニスロッテは兄の劣等感を解消するための道具ではない。
またまたそれはさておき。
「ソーミャ、今日こそあの部屋を開けようと思うの」
「書斎ですか? でも、鍵は……」
父の書斎の片付けは手付かずだ。
「返ってきたのよ。警吏署から、ようやく。父様が宿に忘れていたやつ。事故の後、ずっと警吏が保管していたらしくて」
「お嬢様がよろしければ、私もご一緒しますわ」
埃をかぶったクラウゼン男爵の書斎、鍵付きの引き出し。幸いなことに鍵は男爵が宿に置き忘れていたため無事だった。事故の際に物証として警吏署に保管されており、つい先日に返還されたばかり。屋敷にいたアニスロッテが、警吏から直接、躊躇いがちに受け取った。受け取ってしまえば父の死が確定するようで、胸が痛んだ。
「遺言書が入っているなら、この引き出しでしょう」
静まり返った書斎。壁掛け柱時計のコチ、コチ、という針音だけがやけに響いた。執務机に備えられた引き出しを恐る恐る開けると、鈍い手応えと共に、一枚の茶封筒に入った書類が見つかる。丁寧に男爵家の紋の封蝋が施してあり、表書きには父直筆の署名まである。
「……やっぱり、これが遺言書ね」
ソーミャら使用人が立会いのもと、震える手で開封すると、一枚の紙だけが中身だった。
「セレスタン兄様のいない場所で遺言書を開封してしまったけれど、緊急性があるかもしれないし、使用人たちがいるし……別に良いわよね」
筆まめな父にしては遺す言葉が少ないとわずかに落胆するものの、気を取り直して紙の上の字に目を通していく。筆跡はやや右上がりの父のもので間違いなく、そこに違和は覚えない。そして、内容は実に端的だった。
『デュラン・アルセイル卿が無事に帰還してきたなら、身元引受人になって欲しい。
皆を愛しているよ。
クラウゼン男爵エドリアン』
紙を軽く握るアニスロッテの指先がじんと冷たくなる気がした。思わず力が籠って皺を入れそうになるが、なんとか堪える。
「デュラン・アルセイルって、あの『血染め卿』のこと!?」
──敵からの異称「血染め卿」。
──王国軍准将・戦線騎士部隊副長。
──ミストニア戦役における最高受勲者。
ミストニア戦役で倍の軍勢に奇襲戦で勝利を収めたとか、猛将を馬上から一刀に斬り伏せたとか。そんな危険人物がこの屋敷に来る? アニスロッテの庇護下で?
そう、あの騒動。一介の貴族令嬢であるアニスロッテすら知っている。何を言おう彼は、上官である王国軍中将に反抗して殴る暴力事件を起こし、受勲をたちまち取り下げさせた男として、悪評と伝説と共に巷を賑わせる話題の人物である。
「そんな恐ろしい人の身元引受人だなんて……正気の沙汰じゃない」