【短編】貴方様に「ごめんなさい」を言いたくて。
☆氷雨そら先生主催「愛が重いヒーロー企画」参加作品です☆
婚約者のジルベール様と、いつものお茶の時間。
紫色の長い髪に、白い肌、彫刻のように整った顔立ち、碧色の宝石のような瞳は間違いなく物語に出てくる王子、あるいは騎士王子そのものだ。長身で細身だけれど、若くして銀鷹騎士団長を担っている──ジャルディノ侯爵の三男。
屋敷の玄関口で出迎えると、少し嬉しそうに口元が綻ぶのが好きだった。
花束と両手に抱えるほどのプレゼントで、オシャレなドレスや、シンプルなアクセサリーなどを贈ってくれる。
「まあ、またこんなに!? ありがとうございます! あ。嬉しいけれど、ジルベール様、無理はしせませんか?」
「……」
首を横に振って否定する。ちょっとあわあわしているのが可愛らしい。もっとも長身で、威圧感があるらしいのだけど、私には可愛く見えるのだ。
「アリシア……」
「はい」
小さく囁くような声で名前を呼ばれて、ドキリとする。
客間かガゼボでお茶をするのだけれど、一緒に向かいまでは必ず手を繋ぐのが日課だ。
ジルベール様は口数が少ない──というかほとんど話さない。それでもちょっとした機微でなんとなくはわかる。
私が喋るばかりで、ジルベール様はいつも聞き役。スイーツが大好きで、もぐもぐ食べる姿が可愛らしい。会話はないけれど、たまにジッと見て、目が合うと固まってしまって、数分後に起動する。その繰り返し。
(そんなに私の亜麻色の髪って、珍しいかしら?)
オレール領地は辺境の地にあり、リンデンの樹木や様々な薬草の宝庫だ。そんな我が屋敷の庭園にもリンデンの樹木がある。
白いガゼボは年期が入っていて簡素だけれど気に入っているし、今回のパウンドケーキも美味しくできた。紅茶はジルベール様の疲労回復も考えて、飲みやすいハーブティーを用意してみた。
「……!」
(あ。飲みやすかったのか、ぐいぐい飲んでる。ふふっ、今回のブレンドもうまくいったみたい)
「お代わりを用意しましょうか?」
ジルベール様はちょっと嬉しそうに、コクンと頷いた。
嬉しい。ジルベール様のささやかな表情の変化に、胸がいっぱいになる。とても幸せなのに、ふと違和感を覚えた。
言いようのない不安。恐れ。胸がざわめく。
(…………?)
美しく、有能な騎士団長様が私の婚約者のジルベール様は、曾祖父の遺言によるものだが、八年間一緒に過ごした幼なじみでもある。穏やかで、言葉数は少ないけれど、ジルベール様との時間は好き。
それなのに、今日はなぜか落ち着かない。
『今日こそジルベール様に婚約解消を申し出なさい。良いこと? これは決定事項で、速やかに行われるべきことなの! 本当は私のジルベール様なのに、お前が、私から奪ったの! 速やかに返却すべきなのよ!』
キィイイン──。
頭の中で声が何度も繰り返される。声の主は。ジルベール様の従妹キャリー男爵令嬢で、お二人は相思相愛だという。私とは、一時的な婚約をしているだけ。
(そんなことないのに、否定ができないのは、どうして?)
少し考えればおかしいことだと分かるのに、キャリーの言葉が頭から離れない。そうしないことが誤りで、おかしい。そう何度も繰り返す。
「ジルベール様が好きなのに、どうして……?」
「──っ!」
苦しい。
痛い。痛い。痛い。
頭を抱える私にジルベール様は何かを察して、私に駆け寄る。心配してくれて嬉しいのに、胸が苦しい。頭が痛くて「早く、早く」と急かす声がより大きな声で重なり合う。
まるで不協和音の大合唱だ。
「ジルベール様……私たち……婚約解消を……いたしましょう……」
「………………っ!」
息を呑むのが聞こえた。
怒っただろうか。でも私の口は、私の意思とは関係なく言葉を紡ぐ。
「キャリー様の言うとおり、……私にはジルベール様とは…………釣り合いが取れていません。……どうぞ、心から愛する方と…………幸せになって…………ください……」
「…………アリシア」
掠れた声。顔を上げると碧色の瞳が大きく揺らいだ。
ああ、そんな顔をしてほしくないのに。大好きなのに、どうしてジルベール様を傷つけるような言葉を、口にしてしまったのだろう。
違うと言いたいのに、頭が割れるように痛い。
「ちがっ……ジルベール様……私は……」
「アリシア……。泣かないで。君の今の状態は──」
(今なんて?)
「……大丈夫だよ。君を苦しめる者はすぐに片付けるから、大人しく待っていてくれ」
そっと抱き寄せて、私を安心させるように頬にキスをする。
(ジルベール様がいつになく喋っている。それにキスだって、いつも帰り際にしかしないのに……これは夢ね)
「できるだけ早く戻るから、絶対に屋敷からでては駄目だよ」
(どうして、そんな切実な声で頼むのでしょう? どうして屋敷を出てはいけないの?)
そう尋ねたくても、今度は私のほうが言葉を失ってしまう。
***
一週間後。
朝早く目が覚めると、すぐに薬草の状態を確認すべく身支度を調えて温室に向かう。私が婚約解消を言い出してからも、何も変わらない日々が続いていた。
ジャルディノ侯爵は我が領地の隣接しており、代々有能かつ屈強な騎士を輩出する土地で、騎士養成学校まである。その隣にある我がオレール辺境地は、季節の変わり目に魔物が出現することが多く、代々ジャルディノ侯爵、領主には騎士団の派遣を依頼してきた。
オレール領地はリンデンの樹木が多く、珍しい薬草や花、そして精霊の加護も多いので、緑豊かで毎年豊作と領地の運営や、ティエール商会としてもかなり財力がある。
そんな私アリシア・オレールは辺境伯の長女だ。兄のエリオットはティエール商会を立ち上げて今は王都と辺境地を行ったり来たりして忙しい。弟のウォルトは騎士になるため、今年からジャルディノ寮の騎士養成学校に通っている。
私は領地運営と薬草や樹木の研究、薬の調合とおおよそ貴族令嬢らしからぬことばかりしているので、王都に出ることもほとんど無いし必要も感じていない──のだが、どうにも落ち着かない。
あの日、私は気絶してしまったようで、ジルベール様が「王都に向かう」と執事のセバスに言っていたらしく、それを聞いた時は卒倒しそうになった。
気を失う前の記憶は朧気で、頭が痛かったことと「婚約解消したい」などと、冗談でも言ってはいけないことを、口にしてしまったのだ。
(ジルベール様にな、な、なんてことを言ってしまったの!?)
どうして、そんなことを言ってしまったのか。キャリーが定期的に屋敷を訪れては、好き放題言っていたせいなのか、どうにも思い出そうとしても曖昧で記憶が霧散してしまう。
私は幼い頃から、過度なストレスが掛かると、その出来事の前後の記憶が抜け落ちてしまうことが、ままある。
幼い頃は魔物の襲撃も多く、頻繁に記憶が抜け落ちていることがあったらしい。でも、気づけばジルベール様がいつも傍に居て、大怪猫が家に来てからは、慌ただしい日々が落ち着いたと思う。
(小さい頃はジルベール様に引っ付いて、離れなかったっけ……)
あの頃のジルベール様は感情の機微が、今よりも分かりにくかったけれど、でも態度でいっぱい「大丈夫だよ」と示してくれて、すごく安心できた。
今はちょっぴり、寂しい。もっとお話ができて、色んな場所に出かけられたら良いのだけれど。私は薬草の研究やら領地運営で忙しくて、ジルベール様も騎士団のお仕事や魔物討伐、遠征があって、なかなか時間が作れないのだ。
(うう……。ジルベール様のことが気になるけれど、今は回復薬作りに集中しないと!)
前向きに考えて温室の回復薬を作るための材料、ミントによく似た朝露草、芍薬そっくりの花を咲かせる月明草が必要となる。この領地の土と薬草の相性が良いのか、ぐんぐん繁殖してくれているのは有り難い。
「今度は上級回復薬も作れるようになれば、ジルベール様も喜んでくれるはず!」
「お嬢様、外の水やり終わりました」
「あら、ミルティア。お疲れ様」
彼女は私専属の侍女のミルティアだ。私が八歳の時から侍女をしているのだが、とても明るくて、八年経っても背丈もそのままという年齢不詳でもある。
ピンク色のツインテールの髪はさらさらで、お肌も白く、紫色の瞳と珍しい。年齢は十七歳前後で、すらっとしていて、いつも元気いっぱいだ。
「お嬢様、今日も薬の研究ですか?」
「ええ。魔物の討伐時期までに、上級回復薬ができれば騎士の皆様も役に立つでしょう」
「ふふふ、ジルベール様の役にが一番なのでは?」
「それは……そうだけれど」
「えへへ、お嬢様のそういう優しくて、一生懸命なところ、昔から変わってないですね!」
「そうかしら?」
ミルティアは、ニコニコといつも上機嫌だ。特に──。
「でもでも、たまには息抜きが必要だと思うのです。たとえばお嬢様の菓子作りとか、菓子作りとか! 使用人一同楽しみにしているのですよ。あ、あと兄も!」
「ふふっ。そうなの? それは光栄だわ」
「いつもと違うことをすると気分転換になりますし!」
彼女なりに励ましてくれているのだろう。
「そうね、じゃあ今日はティラミスでも」
「お嬢様――――――!」
「あら、セバス。おはよう」
「おはようございます。──で、はなく大変でございます! 旦那様と奥様、エリオット様が屋敷に戻ってきます!」
「うええ!? これからお嬢様がスイーツを作る気だったのに!」
「あ、私が迂闊にも婚約解消をジルベール様に言ったことで、お父様たちがカンカンに怒っているってことかしら!?」
お父様もお母様も、基本的に私の味方でいてくれるけれど、今回の失言は私が1000パーセント悪い。
(絶対にお叱りを受けるわ!)
両親は、辺境地周辺の視察に出ていることが多い。それを引き戻して、屋敷に戻るとは非常事態だ。それだけのことを私がしたのだと猛省する。
(しばらく何が禁止されるのかしら!? 読書? 薬草作り? それとも──)
「お嬢様のスイーツ……──っ、ぐっ……」
なぜかセバスも私がスイーツ作りを断念することに、非常に躊躇っていた。そんなに深刻にならなくても、言ってくれたら定期的に作るのに。
「婚約関係もあるかと思いますが、スピナ川周辺で魔物の暴走があったと知らせが入ったからです!」
「「魔物の暴走!?」」
私とミルティアの声が重なった。
辺境地周辺では数年に一度、魔物が大量発生することがある。だが今回の時期が早すぎる。それにスピナ川周辺は魔の森がすぐ側にあるものの、珍しい鉱物や魔石があることで、採掘者が何人もいるのだ。
「大変だわ。先触れは?」
「既に先行しておりますが、朝霧によって到着が遅れるかと」
「じゃあ、私も出るわ。戦力にはならないけれど、避難や怪我人に回復薬を届けることぐらいはできるもの!」
「し、しかし! お嬢様は屋敷から出ないようにと──」
「緊急事態よ!」
「なぁー」
「ルアーノ!」
私とセバスの話を遮ったのは、愛くるしい大怪猫だ。普段は普通の黒い猫と変わらないのだが、なんとこの子はグリフォンほどの大きさにもなるし、翼も生えてくるとても有能な子なのだ。
「まあルアーノが乗せてくれるの!?」
「なう!」
ぴょんと、温室を出て行くとあっという間に本来の姿に戻る。亜空間金庫の魔導具の指輪も持っているので、そのままルアーノの背に乗った。
「良い子ね。スピナ川まで全速力で」
「なああ!」
セバスが何やら叫んでいたが、聞き取るまもなくルアーノはすさまじいスピードで、スピナ川へと飛び立った。
***
私は争いが嫌いだ。
剣を見ると、体が金縛りに遭ったように動かなくなる。
騎士姿を見るのは平気だが、全身甲冑姿はどうしても警戒してしまう。どうしてと言われたら分からない。でも体が震えて怖いのだ。
今でも──苦手だったりする。
だから騎士服のジルベール様を前にした時、ちょっぴり緊張したのだ。でもジルベール様はジルベール様で、変わらない。いや騎士として仕事をしている時は、キリリとしているし、しっかりと話している。有能で強い。でもそんなジルベール様の趣味は、スピナの土を使った陶芸だったりする。
騎士見習いで時間が合った日は、一緒にマグカップや皿、花瓶などを作った。お揃いのティーカップは、今もお茶会の時に使っている。
ジルベール様は騎士だけど、怖くない。いつだって私を守ってくれる騎士様だから。
「ジルベール様に会いたいな……」
緊急事態にジルベール様のことを思い出すのは、婚約解消を口にしたことの後悔だ。どうして、あんなことを言ってしまったのか。
いつだって私のことを気遣って、精一杯好いている態度をしてくれていたジルベール様。言葉を交わすことは少ないけれど、それでも一緒にいる時間が特別で、愛おしかったのに。
(以前『騎士団と同行して、後方支援をしたい』と相談した時に、ジルベール様がいい顔をしなかったことや、『騎士団との練習試合を見たい』と言ったのに、頑なに『駄目だ』と言われたことが積もり積もって……あんなこと言ってしまったのかしら?)
ふと何か記憶が浮かび上がる。
『魔物討伐や遠征に着いていくなんて、そんなに私のジルベールと一緒にいたいの?』と言っていたのは、誰だったか。
「なう」
(──ハッ!)
頭を振って気持ちを切り替える。今は避難勧告と、逃げ遅れた人たちの回収と治療だ。もう目の前はスピナ川と黒い木々が生い茂る魔の森が見え、鉱物を拾う人たちが逃げている。魔の森の方角からの地響きで、危険だと察したのだろう。さすがはオレールの領民!
(まだ魔物に襲われていないわ、よかった!)
次いで地響きの方角を見ると、土煙が立っている。魔物の数、種類は──。
黒々とした木々をなぎ払い、突き進む。
(嘘……っ!?)
八つに枝分かれした角に、巨大な鹿の姿に尾は炎の蛇、型には有翼の羽まである。二十メートル前後の大型魔物。
「嘘でしょ、上位魔物。巨大大鹿蛇!?」
「う゛ぉおおおおおおん」
その雄叫びは魂に響くほど、恐ろしい咆哮だった。肌にビリビリとくる。
「十時の方角に巨大大鹿蛇を発見! 領民は速やかに避難魔導具で待避してください!」
「お嬢様!」
「お嬢!」
領民たちは、すぐに魔導具を使って離脱する。けれど先ほどの咆哮で、領民とは別で動けずにいる制服姿が視界に入った。
(制服!? 騎士見習い?)
水場から少し離れていた場所に、キャンプ場が見える。恐怖に囚われた騎士養成学校の生徒たちは、うまく魔導具を取り出せずに固まっていた。
(でもジャルディノ領の騎士養成学校のものとも違う? 黄金の刺繍……まさか王都の学生!?)
魔物の暴走の時期とも外れていて、合宿キャンプの季節的にはちょうど良かったのが仇となった。ふとそこで疑問が浮かぶ。ここ数ヶ月、領に合宿申請は無かったはず。急遽、お父様が許可したのだろうか。
人数は十人弱。
巨大な魔物が迫り来る中、体が硬直して動けないでいるようだ。それでもパニックになって逃げ回れるよマシだった。
(この森に来ているのなら、避難用魔導具は持っているはず。ストックもなんとかあるし──)
「なうう!」
「まあ、ルアーノが敵を引きつけてくれるの?」
「なう!」
「わかった、私はその間に避難をさせるわ。……ルアーノ、貴方は強くても無茶はしたら駄目よ?」
そう頭を撫でると頬にすり寄り、ペロリと舐められた。「わかっている」と、言っているかのよう。
(終わったら、たくさん撫でてあげよう)
私はスピナの川辺に降ろして貰い、避難が遅れている生徒たちの元へと急ぐ。殿で残っていた領民の何人かが生徒に気づいて、転移魔導具を取り出すのを手伝ってくれた。
(生徒たちは帯剣はしているし、騎士見習いなのかもしれないけれど、本物の魔物──特にあんな大型を見るのは初めてだったのね)
多少耐性のある領民の子どもたちでも、大型の魔物を見たら同じ反応だっただろう。
「ふっふっ……ぁあ」
「もう大丈夫。落ち着いて、避難魔導具を展開するわよ」
「う、うん……」
膝をついて言葉をかけると、少しだけ緊張が解けたようだ。
弟と同じくらいだろうか。非常用転移魔導具は、首から下げていることが多い。子どもたちに転移魔導具をしっかりと握らせて、発動させていく。
(よかった。みんな首からちゃんと下げている)
小さな小瓶のようなもので、蓋を開けると自動的に転移術式が発動して、初期設定した場所に移動する。私のストックでは私の屋敷に着いてしまうため、できれば自分たちの持っている物で対処して貰うのが一番良い。
(これで最後──)
「きゃああああああ!」
(え!?)
女性の悲鳴?
しかもどこかで聞いた声だった。
振り返るとキャリーが、腰を抜かして座り込んでいた。舞踏会の帰りかというような真っ赤なドレスに身を包んだ格好が、どうにも場違いに見える。
「な、なに、あの化物!? なんであんなのが呼び寄せられるのよ!? なんで、嘘でしょう!? あり得ないっ」
「キャリー嬢!? 貴女が、なんでここに!?」
駆け寄ろうとしたところで、キャリーが睨み付けてきた。親の敵のような鋭い視線に足が止まる。
「アンタのせいよ! アンタがジルベールに余計なことを吹き込んだから、私が王都で酷い目に遭うことになったんだわ! お父様も、叔父様も、ジルベールも! みんなアンタを庇って──」
「!?」
喚き散らして、何を言っているのか要領を得ない。なによりそんな悲鳴を上げていたら、他の魔物に勘づかれてしまう。
水辺に近かったからか、水棲馬の群れが、キャリーに向かって突進してくる。
(水辺で背に乗せようとする水棲馬が、どうして!?)
しかし今は、それどころではない。このままでは二人とも、水棲馬に轢き殺されてしまう。魔導具を出している余裕も、転移魔導具を展開するだけの時間もない。
駆け出して、キャリーに体当たりする形で水棲馬の突進をすれすれで避けた。
泥だらけになるが、構ってはいられない。すぐさま転移魔導具を取り出すものの、途端に視界が陰る。
「「「グアアアア!」」」
「ひっ!」
(毒大熊の群れ!? なんで、魔の森の深淵にいる魔物が!?)
大きな爪が振り下ろされた瞬間、脳裏にジルベール様の姿が浮かんだ。
最期にもう一度貴方に、会いたかった。
そうしたら、私は貴方に──────?
思いを────────?
雪が降り積もる場所で、最期に願った────?
あれ?
感情が、視界が、記憶が溢れる。
怖い。
痛い。
助けて。
助けて──────────────。
「──っ、ジルベール様」
「呼びましたか、アリシア」
ザン。
赤銅の血しぶきと、紫色の長い髪が視界に入った。白銀の剣を手にした騎士服姿のジルベール様がいた。あっという間に毒大熊を一体倒したかと思えば、次々に屠っていく。まるで閃光だ。
その背中から目が離せない。
(ずっと昔にも、似たようなことがあったような?)
幼い頃、魔物の襲撃があった時よりも、もっとずっと前──。
私が固まっている間に、ジルベール様は魔物を倒してしまった。後からグルフィンに騎乗した騎士団が駆けつけてくれたようだ。
(助かった?)
周りを見渡すと雪山の中でもない。森の中で、見慣れた騎士団の服装は、全身甲冑ではなく、駆動性の特化している。
そもそも紋章が、あの時とは違う。
あの時────?
「ジルベール様ぁあ! 怖かったですぅ」
「きゃっ」
私を押しのけて、キャリーはジルベール様の元に走った。押しのけられたことよりも、キャリーとジルベール様が抱き合う姿を見たくなかった。従兄妹同士だったとしても嫌だなんて、自分はなんて狭量なのだろう。
ううん、私は自分で婚約解消を言ったのだ。呆れられて、離れて行ってもしょうがない。
「アリシア」
「え?」
瞬きの間に、ジルベール様が片膝を突いて現れたのだ。
「アリシア。怪我は、大丈夫ですか!?」
「──っ」
これは夢か、幻か。
ジルベール様は私の頬に触れ、次に私を抱きしめた。何がどうなっているのだろう。後ろでキャリーが喚いているような声が聞こえたが、耳に入らない。
それよりも鉄とウッディの香りに包まれて、心臓が張り裂けそうだ。ジルベール様の鼓動が早い。どうして、戦った後だからだろうか。でも息切れもしてない。
「また失うかと──っ、私が守るとお約束したと言うのに、姫申し訳ありません」
(姫──?)
その言葉が、刃のように突き刺さる。
私の名前を呼んでいたけれど、私は姫なんかじゃない。
誰かと勘違いしているのだ。
(もしかして……。キャリーをいつもそう呼んでいるの?)
この温もりも、震えていた声も、謝罪も──全部私ではない。
(キャリーに言っていたことを私にも? どうして? 周囲の目があるから?)
やっぱり私は、何か大事なことを忘れてしまっているのだろう。例えば婚約解消がすでに済んでいるとか、ジルベール様との関係は終わっているけれど、周囲の目があるから一応ポーズとして心配しているとしれば、辻褄は合う──はず。
ここで気を失えたら、どんなに良かっただろう。でも領主の娘として、それは許されない。
「ジルベール・ジャルディノ様。魔物の襲撃に駆けつけて頂き、ありがとうございました。もう、大丈夫です」
「大丈夫なものですか。後のことは騎士団に──」
「ここはオレール領地、私はその娘です。私も残って現場の報告を父にする義務があります。お気遣いだけは感謝します。……だから、どうか、大切な人の側に居てあげてください」
「……」
立ち上がる私を支えるジルベール様は、私から離れずに手を掴んだままだ。どうしてキャリーの元に行かないのだろう。それとも私と婚約解消した後でキャリーの側に行けば、不義理だと思っているのだろうか。
「私の大切な人は、前世からずっとアリシア──貴女だけです」
「前世……?」
「はい。私はようやく前世の記憶を思い出したのです。そして呪いも──祝福に変わりました」
ハッキリと言い切るジルベール様は碧の瞳が潤み、頬を赤くして微笑んだ。
「誰?」と心の中で思ったのは、言うまでも無い。彼は私の手を掴んだまま、騎士の誓いを立てるかのように跪き、手の甲にキスをした。
「私の命は貴女のものです。この心臓が止まるその瞬間、いえ未来永劫、貴女をお守りし、慈しみ、愛します」
「!??」
婚約解消発言から一週間で、元婚約者は壊れてしまった。これは私のせい──なのだろうか。その事実が受け入れることができず、そこで意識が途切れた。
***
私のピンチに、ジルベール様が颯爽と現れて魔物を退治する。これは騎士としての行動としては、あり得るだろう。でも私の心配をして、手の甲にキスをするのは、どう考えて可笑しい。
そもそも前世のことを思い出したとか、突拍子もない話すぎるのだ。きっと何かの勘違いか、夢だと思った。
目が覚めたら、私はベッドの上で都合の良い夢を見ていたと──。でも現実は私の予想を大きく裏切る。
まず重たげな瞼を開けて目に入ったのは、大怪猫とジルベール様が啀み合い、今にも殺し合いをしそうな雰囲気だったことだ。
(どういう状況!??)
大怪猫のルアーノは豹ほどのサイズで、私の横に控えている。対してジルベール様は、ベッド側の椅子に座って私の手を掴んでいた。
それはまるで私を心から心配する婚約者のよう。
(婚約解消発言して……?? そもそも未婚の令嬢の寝室に殿方がいるってどうなの!?)
目が覚めたけれど、できれば現実逃避してしまいたい。そう思っていたのだが、碧色の美しい瞳と目が合ってしまった。
「アリシア! 目が覚めたのですね」
「ア、ハイ」
そのとびきり甘い笑顔は、どちらさまでしょうか。髪もいつもは一つにまとめていたのに、今は三つ編みにして雰囲気もなんだか柔らかい。やはりどこか頭を打ったのではないだろうか。
「なうう」
「まあ。ルアーノも心配してくれたの。ふふっ、ありがとう」
大怪猫は私が起きたことに気づいて、のっそりと私にすり寄って甘えてくる。いつになく甘えん坊さんだ。撫でようとして、片手をジルベール様が掴んでいることを思い出す。
「あ」
「そんな獣を撫でるよりも、私に触れていただけないのですか?」
「(本当に誰!? ジルベール様がものすごく喋っている!)……あの、本当にジルベール様……なのですか?」
そう告げると碧色の瞳が大きく揺らぎ、泣きそうな顔で微笑んだ。
「ええ、そうです。一週間前、貴女様に婚約解消を言われたショックで、前世の記憶を思い出した──ジルベール・ジャルディノで間違いありません。こうやって貴女様とお話できるようになったのも、前世の記憶を思い出したからこそ」
「え」
「……ジルベールの魂はいつも何かが大きく欠けており、他者に無関心でした。いえ、同じ時を生きていないと言いますか、世界が全て白黒のようで、この世界で生きている実感がなかったのです。けれど、アリシア。貴女様と出会って、その欠けていた何かが満たされていく感覚に、戸惑い、驚き、微かな喜びを見いだしました」
「???」
丁寧な口調で物腰も柔らかい。その姿は彼なのだけれど、彼ではない性格も感じられた。懐かしいとも感じる感じがするのは、看過されているからだろうか。
いやでも、ちょっと待ってほしい。前世というパワーワードを、絶対に聞き流してはいけない気がする。
「(ううん、色々聞きたいことはあるけれど、私のことを好意的……に思っていたようなら)……ではどうして、ご自身のことを話して、くださらなかったのですか?」
「この話は、出会ってから何度も話しています」
「え?」
「それとは別で、普段から無口だったのは……貴女様を前にすると、心が満ちると同時に失いたくない、失っては駄目だという気持ちが先行して、何をどう話せば傷つけないか、嫌われないか──そればかり考えてしまい、気づけば思考が停止してしまっていたのです」
「??」
情報量が多すぎて理解が追いつかない。落ち着け私。
「つまり、ええっと……」
『まずこの男の場合は、魂の喪失により転生しても感情が麻痺した異常状態だったのだろう。だが、それを上回る衝撃を与えたことで、魂の喪失が補填されて、本来の性格と前世の性格が混じり合ったということだ。だからアリシアのせいではない。この馬鹿が生前に約束をすっかり忘れていただけだ』
「「…………」」
今まで「なう」と言っていたルアーノが流暢な人語を話した。私とジルベール様が固まったのは言うまでもない。
『む? どうした? アリシア?』
「る、るるるるるルアーノ! あなたお話ができるの!?」
『むう。話せるぞ。しかしアリシアとは念話でも会話できるので、大差ないだろう?』
こてんと、小首を傾げているルアーノが可愛いすぎる。わしゃわしゃと頭を撫でると、まんざらでもないようで、ごろんとお腹を見せた。
「アリシア。その獣に甘くないですか? 私にも甘えていただきたい。あるいは甘えたい」
「ジルベール様? 本当にジルベール様ですか?」
心配になるほど別人だ。けれど美しい紫色の髪や整った顔立ち、碧の瞳は本人そのものだ。ぐっと顔を近づけてみると、表情筋が働いているのか眩しい笑顔を向けてくる。
(笑顔のインパクトが、すごいわ!)
顔を近づけすぎていたからだろうか。ちゅ、とジルベール様の唇が頬にそっと触れた。
「ふにゃぁああ!?」
「アリシアが可愛らしい顔を近づけたのが悪いのですよ」
甘い。甘すぎる。
口から砂糖が出てきそうなほど甘い言葉だ。というかどうして私が悪いのだろう。
「こ、こ、婚約者じゃないのに……こんなの駄目です」
「いえ。婚約者ですよ」
「あれ? でも私の婚約解消を口にしてしまって……」
「あれはアリシアの本心ではないでしょう? それに書面などの手続きもしていませんので、私たちは正真正銘婚約者のままですよ」
にっこりと笑っているが副音声で「絶対に別れない」というか頑なな意思を感じる。しかしまだ確認しなければならない大事なことがあるのだ。
「で、でも……、その前世の記憶が戻る前は、キャリーを愛して──」
「アリシア。私は、記憶が戻っていなかった時も、今もあの女のことなど一ミリも興味はありません。むしろ今までアリシアに会うのに、何度も妨害され、それから私が直接屋敷に来た以外の手紙、贈物は全て貴女様に届いてないということが発覚しました」
「え」
またもや頭がこんがらがる情報が入ってきた。
「キャリーとジルベール様は恋仲でも、思い合っているわけでもない?」
「当然です。王都の貴族学院で婚約者がいるにも関わらず、手当たり次第に言い寄っていた徒花ですよ」
「し……知りませんでした。毎日のようにキャリーが自慢しに来るので……話を鵜呑みにしていました」
そうキャリーと会うと気分が悪くなるし、頭がスッキリせず、胸はモヤモヤが蓄積していた。
『あれはごく微量だが魅了の気配がしていたから、その影響もあったのだろう。精神干渉や呪いの類いは弾いていたが、言葉は言霊。アリシアの心に負荷を掛けていたし、精神的に追い込んでいた』
「そ、そうだったの!?」
魅了を使われていたなんて、全然気づかなかった。しかし思い返してみるとキャリーの言葉が正しく思えてしまうような、モヤモヤした気持ちはあったのに、何故が上手く言い返せずにいたのだ。あれは無意識化に魅了の影響を受けていた。
『我が追い払って圧を掛けたことがあるが、この体では力の調整が難しいのだ。力の出力を間違えると……』
「間違えると?」
『国が更地になる』
「「!?」」
スケールが大きすぎる。そしてさらに物騒なことを言い出した。ジルベール様もさっき、物騒なことを言っていたけれどなんなのだろう。ルアーノもジルベール様もちょっと普通じゃない。
(それにしてもルアーノが喋るようになってから、ジルベール様の表情が険しくなったような?)
「ジルベール様?」
「アリシア、失礼します」
「きゃ!?」
気づいたらジルベール様に抱き上げられて、ベッドから入り口まで移動していた。何故かルアーノと対峙する形になっている。
ルアーノは私がいなくなったことで、ちょっと不服そうにしながらも、ベッドに寝そべったままだ。でもジルベール様のお顔は眉を吊り上げて、ルアーノを警戒している。
空気がピリリと張り詰めて、急激に部屋の気温が下がっていくのを感じた。
「その口調、魔力、隠しているようですが、その気配は──まさか魔王?」
『なんだ、ようやく気づいたのか──守護騎士ジョシュア』
「???」
すみません。
二人の会話にまったくついていけないのですが。魔王、守護騎士ジョシュア。どちらも聞き覚えのない──いや魔王はある。
魔王。
かつてこの地の果ての魔物を統率していたとされる魔人であり、神の零落した存在だった。けれど八百年ぐらい前に、自らの存在が世界に脅威を与えると知り、地上を去り冥府の王となったことで、魔王というワードは精々、子どもの頃に読んで貰った寝物語に『生きている間に悪いことをしたら、魔王が見ていている』と名前が出てくる程度だ。
「ルアーノ、あなた……魔王としてこの世界を観察するために、大怪猫の姿をしていたのね!」
『……ズレている』
「アリシア、君は……そんなところも可愛いけれど」
なぜか空気が一気に和らいだ。そして抱きかかえているジルベール様はとても甘い声で、頬にキスをしてくる。何故に。
『我は──まあ、そうだ。アリシアが今世では幸せになっているか、見守るために傍に居る。お前は放っておくと、渦中の中心にいるからな』
「うう……」
なんとなくその言葉を聞いて、私の中でルアーノが傍に居るのかストンと腑に落ちた。辺境地周辺は、魔の森と隣接しているため魔物の出現が日常茶飯事だ。私が幼い頃から魔物の襲撃による攻防はすさまじかったと──父が話していた。
けれど八歳の頃、私がルアーノを拾ってから、パタリと魔物の出現が減ったのだ。魔物の暴走以外、魔物は魔の森から姿を見せない。
「もしかして、ルアーノが来た日から魔物の数が減ったのは?」
『我を恐れてのことだろう。魔物は本能に動くが、それでも自分より上位種に喧嘩を売るほど愚かではない。あとはそこの騎士が蹴散らしていた』
(確かにジルベール様と一緒にいてから、怖いことは減った)
のそのそとルアーノは子猫の姿になると、私の肩に飛び乗った。もふもふして、とっても甘えん坊だ。擽ったいけれど、すごく落ち着く。
幼い頃から私を守ってくれていたことが嬉しい。けれど当然ながらある疑問が浮上する。
「でも、ルアーノは魔王でとっても高位なのに、どうして私を守ってくれるの? それとも魔王はこんな可愛らしい姿の猫さんの分身体を、世界中のいたるところに配置しているの?」
『……魔王にそんな機能はない』
「『アリシアだから』という思考パターンにならないのが、君らしい」
なんだか二人とも急にげんなりしている。どうしてかしら。さっきまでは啀み合っていたのに、今は息ぴったりだ。喧嘩するほど仲がよいのだわ。
『違う』
「違いますからね」
「?」
***
ルアーノとジルベール様が話す前に、両親たちが駆けつけたことで、前世の話はうやむやになってしまった。婚約解消の話も両親の耳に入っていたが、ジルベール様が全てキャリーのしでかしたことだと説明をして、婚約解消の件はサラッと無かったことになっていた。
そうなっていたのだ。
そのことを聞かされたのは、私が主治医から普段通りしてよいと太鼓判を押された──つまり魔物の暴走から三日目の昼だった。
両親とジルベール様との話し合いの場は、屋敷の中で一番豪華な客間で行われた。貴族とは面倒な物で内装の質も財力の現れと見なされるため、それなりの一級品をあつらえるようになっている。
(どうして……こうなったの?)
ふかふかのソファだったのに、私はジルベール様の膝の上にいる。そして私の膝の上には、子猫のルアーノがちょっと乗っていた。
この定位置に疑問しかないのに、両親は「青春ね」とか「やっと気持ちが通じたんだな」と生温かな視線を向けるばかりだ。通常なら「はしたない」という場面ではないだろうか。
「まず今回の一連の不始末について、オレール領主である辺境伯に謝罪を」
「いえいえ。こちらこそ、あのような状態であれば、ジルベール殿の判断は最良だったかと思われる。頭を上げていただきたい」
(うん、会話自体は間違っていないのだけれど、私を横抱きにしながら言う台詞とは違うと思う。お父様、『大事な娘を抱き上げてどういう了見だ!』ぐらい言ってくださいませ!)
そう目で訴えたが、お父様は目を潤ませている。
「くっ……ようやくジルベール殿の気持ちがアリシアに伝わったかと思うと、嬉しくて、嬉しくて」
「え?」
「そうよ。この八年、貴女と話をするため呪いと戦ってきたのですから」
(呪い? そ、そういえばジルベール様が以前言っていたような?)
両親は知っているのに、どうして私は知らないのか。何を隠しているのかジルベール様に視線を向けて睨んだ。しかし睨んでいるはずなのに、目が合った途端に大輪が咲き誇るような笑顔で「愛しています」と囁くのは反則だと思うのです。
(しかも両親の前で!)
「アリシア、今回のことについて改めて説明しますね。大前提としてキャリーと私は恋人同士でも何でもありませんし、従妹というのも、叔父の再婚相手の連れ子です。そして貴族学院で様々な令息に声を掛けていた徒花。そんな彼女は闇ギルド経由で、『侯爵家三男の婚約者になるよう手を貸そう』という甘言に耳を傾けて、アリシア、侯爵家の使用人たちを洗脳、あるいは買収して婚約解消に動きました」
「ふぁぁあ……とんでもなく大事になっていたのですね」
「ええ。ですが早急に手を打っていたので、キャリーを追い出し、叔父からも親子の縁を切って修道院に送ることで決着しました」
(展開が早い!)
「しかし修道院に向かう途中で逃走。その後、黒幕の手を借りて最終的に、王子たちを含めた学生を危険に晒すという大事件を起こしました」
「お、王族を!?」
話をまとめると、キャリーとジルベール様は本当に全くもって赤の他人。興味も関心もない。ここは耳が痛くなるほどジルベール様が力説してきた。とても重要なことだと言い切ったのだ。
「キャリーはジルベール様とは関係ない」
「そうです。大事なことなのでもう一度。そして私とアリシアが婚約者」
「キャリーはジルベール様とは関係なくて、私とジルベール様が婚約者……です」
「その通りです」
よくできましたと、キスをする。この方は何に付けても、キスをしてくる口実にしたいのではないだろうか。
(ジルベール様がいっぱいお話しするし、笑って、ハグやキスも今日一日で八年分を軽々凌駕しそう……)
次にジルベール様は、生まれた時から呪われていたと話し出した。
初耳なのですが。これは侯爵家の中でも秘匿とされていたらしく、呪いというのも感情が欠落しているというもの──と聞いて、それは少し前に教えてもらったことだ。
「神殿で確認した際に、魂に何か大きな枷が掛かっているといわれたのです」
(あ、そういえば……)
『……ジルベールの魂はいつも何かが大きく欠けており、他者に無関心でした。いえ、同じ時を生きていないと言いますか、世界が全て白黒のようで、この世界で生きている実感がなかったのです。けれど、アリシア。貴女様と出会って、その欠けていた何かが満たされていく感覚に、戸惑い、驚き、微かな喜びを見いだしました』
『まずこの男の場合は、魂の喪失により転生しても感情が麻痺した異常状態だったのだろう。だが、それを上回る衝撃を与えたことで、魂の喪失が補填されて、本来の性格と前世の性格が混じり合ったということだ。だからアリシアのせいではない。この馬鹿が生前に約束をすっかり忘れていただけだ』
(──って、言っていたっけ。これは覚えていたわ。前世の記憶と後悔がジルベール様の魂に悪影響を与えていた)
「呪いの中でも興味を示されたのがアリシア、お前なんだよ」
「そうなの。この話も最初にしたわよ」
(あ。両親は呪いのことを知っていたのね。まあ、政略結婚する際によく考えれば、侯爵家が辺境伯の娘と婚約を認めるに、政治的な意味があるのは理解していたけれど……。でも私は覚えていない)
呪いの中で、魂が、心が動いた存在が私だったけれど、私を前にすると感情が嵐のように爆発して、上手く言葉にできなかった。それは前回、教えて貰った。
(これもちゃんと今回は、覚えている)
「アリシアと一緒にいて、君が作ったケーキや焼き菓子を食べていくにつれて、呪いが緩和していったんだ。アリシアにも何度か話したんだけれど、やっぱり覚えていないんだね」
「……はい」
ジルベール様は少し困った顔をしていた。
「アリシアが忘れてしまうのは、私のことばかりのようなんだ」
「ジルベール様の?」
「そう。きっと私が至らないことや、君に寂しい思いをさせてしまっているからだろう」
「そんなこと……!」
そんなことない。そう言いたかったけれど、記憶が欠如している今、言い切れない。それが悔しい。
「アリシア。お前は覚えていないかもしれないが……。幼い頃、お前を庇ってジルベール殿が魔物の攻撃を受けたとき、酷く動揺して過呼吸を起こしたことがあった。それ以降、ジルベール殿が傷つく、ジルベール殿の身に危険が迫ることを必要以上に怯えて、恐れているようだった。その恐れが強いストレスとなり、一定以上の負荷が掛かると、その前後の記憶が飛んでしまっているのだと思う」
「これは主治医の先生にもいわれたの」
「幼い頃……」
魔物に襲われた時?
剣が嫌いな理由はそれ?
ジルベール様が傷つく姿を見ると、頭が真っ白になって──。
胸が苦しい。
悲しい。
この酷く苦々しくて、辛い思いの根源はいつのもの?
考えを巡らせても、答えは出なかった。
私がぐるぐると考えている間に、いつのまにか話は公爵家の悪事についての話に切り替わっていた。
「先ほどの闇ギルド経由と言いましたが、黒幕はヘルナデ公爵家でした。公爵は第二王子を王位に就かせるため、今回の計画を立てたそうです」
(……公爵!?)
「まあ!」
「そうか……」
全てはヘルナデ公爵家が、国を牛耳るための策謀だったという。当初は侯爵家の三男で騎士団長のジルベール様と自分の手駒と結婚させるため水面下で動いていたのだが、上手くいかず失敗。逆にキャリーを足掛かりに、公爵家の不祥事が明るみになることを恐れ、キャリーを利用して、第一王子を含む目障りな貴族の令息たちを危険に晒すという大胆な行動に出た。
(それがあの合宿だったと……。お父様も合宿許可は取っていないと言っていたから、強行だったのね)
しかしあまりにも大胆というか無計画で、破綻しているようにも思えた。ヘルナデ公爵は腹黒く、狡猾な人でなかなか尻尾を見せないのに、突然の言動に違和感があったとか。
またジルベール様を意のままに操るため、キャリーを使って籠絡させようと、魅了の魔導具をいくつも所持させていたという。耳飾り、指輪、腕輪など。導具の重複使用は精神的に大きな負荷を掛ける。キャリーの傲慢さなどを増長させたのも、その副作用だとか。
「ヘルナデ公爵家が第二王子支持者筆頭ですからね。第一王子や目障りな貴族の令息を、まとめて始末しようとしたのでしょう」
「そのゴタゴタに紛れて国外に亡命するつもりだったのだろう」
「ええ。……もっとも、その前に捕縛できましたが」
今回の件は王位継承権争いで、第一王子を指示する貴族たちの力を削ぐ目論みもあったのだろう。
(辺境伯は中立だけれど、ジャルディノ侯爵家は第一王子派閥だったものね……)
魔物の暴走は、魔物を呼び寄せる宝石をキャリーに持たせて、そのまま始末するつもりだったとか。あの目立つドレスの装飾が全てそうだったと聞いてゾッとした。
(ということは、水棲馬や他の魔物が襲って来たのって……)
今更ながらに恐ろしくなって、ジルベール様にギュッと引っ付いた。淑女としてちょっと破廉恥な気がするけれど、怖い気持ちを打ち消すには、好きな人との温もりは必須なのだと思うのだ。
「アリシア、大丈夫です。怖いのなら幾らでも傍にしますし、思い出せないのなら何度でも伝えますから」
「ジルベール様」
この話し合いで、ジルベール様は前世のことを一度も話さなかった。だから私もそのことは口を出さず、後で二人きりになったら聞いてみることにした。
***
剣は怖い。
どうして?
それは私を貫いたもの。
いつ?
ずっと昔。
私は薬師になりたかった。
でも私は王女で、治癒魔法も使えた──だから、魔王様に攫われて。
桃色の髪の女の子を治療して、森の奥の城で暮らした。
季節が巡る。
雪の積もった場所。
温かい右手。
繋いだ手。
大好きな人が迎えに来てくれた。
それが嬉しくて、凍りそうな肺も温かくなる。
身分違いだけれど、一緒になれるって。
王女じゃなくなっても良いって。
でも。
深紅の色が雪を染める。
どうして。
どうして。
「どうして──ジョシュア、目を開けて」
突然、血を吐き出して倒れた彼を抱き起こす。どんどん体が冷たくなって、一緒にいた騎士様に助けを求めようと振り返り──。
鈍色の刃が煌めいた。
***
「──っ!?」
「!?」
飛び起きた瞬間──ジルベール様の顎に、思い切り頭をぶつけてしまった。私が眠ってしまったので、ちょうどベッドに寝かせようとした所だったらしい。離れようとするジルベール様の体温が恋しくて、腕にしがみついてしまった。
「アリシア?」
「その……怖い夢をみたので、傍に……ジルベール様がいてくださいませんか?」
「いくらでも、なんなら今日はアリシアの所に泊まっていこうか?」
「はい。一緒にいてください」
一緒にいたら怖い夢も見ない気がする。そう真剣に言ったらジルベール様は耳まで真っ赤になっていた。
「これは試されているのか……それとも……」
『我も傍に居る。安心するがいい』
「ルアーノ」
もふもふの黒猫の毛並みは、とても心地よいのだ。ジルベール様が不満そうな顔をしていたけれど、魔王様はよい魔王様なのだと思う。夢では魔王様が私を攫おうとしていた理由は、女の子を助けたかったから。
『我は──まあ、そうだ。アリシアが今世では幸せになっているか、見守るために傍に居る。お前は放っておくと、渦中にいるからな』
たぶん、前世で私は魔王様に貸しを一つ作った──ということなのだろう。
そしてジョシュアという騎士風の人が迎えに来た。
一緒に雪の中で、どこかに向かう途中──。
「アリシア」
「あ」
名前を呼ばれるまで、前世の記憶に引っ張られて意識が飛んでいた。すぐ傍にいるジルベール様は、心配そうに私の顔を覗き見る。
「……記憶を失う条件はジルベール様関係で、私がジルベール様に迷惑がかかっているかもと思うと……記憶が飛んでいる……というのは事実だと実感しました。また私のせいで大切な人を失ってしまうかもしれない──と」
「アリシア、君は前世の記憶が……?」
「いえ……。でも、断片的な夢を見て……なんとなく、そう思ったんです」
過去のトラウマ。それは前世のものが、色濃く出ている可能性は高い。
攫われた王女を救いに来た騎士様。
でも何らかの理由で、一緒にいた騎士様に毒を飲まされ死んでしまい、私は別の騎士様に殺された。
私を助けに来なければ、ジョシュアという騎士様は死ななかったのだ。その後悔が転生した私にも引き継がれた──としたら辻褄は合う。
「私はかつての自分が不甲斐ないばかりに、貴女を助けることができずに毒で死に絶えてしまった。貴女を残して。だからこれは私の失態であり、姫のせいではないのです」
「そんなこと……ないわ。夢の中の私はすごくジョシュアという人に会えたのが嬉しくて、春のような温かさに、胸がいっぱいだった。だからジョシュアがあの日、来たことは間違いでも無いし、無意味でも無かったの。むしろ私が──貴方を……っ」
「それも違います、断じて。貴女のせいではない」
『そうだ。あれは──お前たちのせいではない』
「ルアーノ」
「魔王」
「……それでも、ジョシュア……ごめんなさい。ずっと私は、貴方に謝りたかったの。巻き込んでごめんなさいって……好きになって、ごめんなさい。私の我が儘で振り回して……」
「それは私の台詞です、姫。貴女の名前も呼ぶことも、連れ去る勇気もなく、貴女の気持ちに気づいていながら、最後の最後まで貴女を一人にしてしまった。申し訳ありませんでした」
二人揃って謝り続ける。ただあの日、言えなかった思いを言葉にしなければ、私たちは前に進めない気がしたのだ。
だからお互いにボロボロ泣きながら胸に残る思いを言葉にする。
前世の悔いが、ゆっくりと溶けていくようだ。
後悔しても、巻き戻すことはできない。それでもあの時の思いを語らい、過去にすることができた。
許して、許されて。
お互いに今世まで抱えていた溶けない氷が溶けていく。
その日はジルベール様と夜遅くまで、お喋りをした。前世の記憶のこと、今のジルベール様のこと。何が好きで、何が嫌いかも。
夢のような時間がこれからも続くことが嬉しくて、あっと今に過ぎていった。
***魔王の視点***
八百年前。
冥王と呼ばれる前、我──俺は魔人いや魔王と呼ばれていた。
当時の王侯貴族にとって魔人は、魔物を使役する上位種という認識で、好戦的な敵でしかないと結論づけた。その頂点に立つ存在を魔王と。
魔人は悪。人類の敵。
意思疎通ができるのに人は魔人狩りを始め、人と魔人との溝は大きくなって、戦争が何年も続いた。
くだらない戦い。魔物は瘴気から発生する。俺たちとは関係ない本能に忠実に生きる獣で、魔人は神が人から信仰されなくなり零落化した存在だった。人より頑強で長寿かつ強大な魔力を持つ。
それでも病に罹ることだってある。
俺には妹がいる。たった一人の妹。
その妹が不治の病に冒され、余命僅かとなった。だからこそ俺は女神の祝福を受けた王女のいる国に、交渉を持ちかけた。代わりに「自分たちが魔物と戦おう」と。
しかし人族は魔物討伐の依頼を出すだけで、一向に王女との面会も約束も取り付けることをしなかった。だから──攫った。
それだけ時間も無かったからだ。
王女は一言で言うなら変わっていた。攫って来たのに「まあ、お外に出るなんて久しぶりで、なんだかウキウキしますね」とか「患者さんは何人ですか?」などと、どうにもズレている。ちゃんと置き手紙も置いてきたから、と得意げだ。
普通はもっと怯えて、悲鳴を上げるなりするだろうに。
「治癒魔法は特殊なので、たまに他国の王族さんとか、辺境地の種族の方が現れて『助けて欲しい』と言ってくるので、王家の抜け道を特別に情報屋さんに特別に教えているんです。もちろん、治療希望者限定で」
なんだか頭が痛くなった。今までお忍びで助けを求められて、軽々しく引き受けるこの王女にも呆れた。
「嘘だったら、お前は死んでいるぞ」
「……明らかに嘘だったら着いていきません。そもそも嘘ならあの抜け道は通れないのです。そういう加護がほどこされているのですよ」
「……」
「それに貴方には本当に助けたい人がいるでしょう? それなら何を迷う必要がありますか。私にできることがあって、手を伸ばしだけでいいなら、私はどこだって行きますよ。……それは私にとって唯一の自由でもありますから」
殉教者のような覚悟を持った姫君だった。王城という鳥籠には収まらない度胸と信念と慈愛を持つ変わり者で、底抜けのお人好しだ。
今、人と魔人の関係が悪化しているというのに、呑気だと思ったが、彼女は患者しか見ていないのだ。人だとか魔人だとか、王族だとか貴族だとか平民だとか人外だとか関係なく、患者であるかどうか。自分が必要かどうかで動く。
「あ。そうです。治療するに当たって、いくつか約束をしてください」
「……叶えられる範囲なら」
「患者の病気と体力によって治療法を変えます。なので一日で治癒しない可能性もあります」
「その理由は?」
「体力がないまま治癒をすると、完治したあと体力が戻るまでに時間が掛かるからです。端的に言うと体が酷く怠くてしばらく寝込む感じですね。急な回復は体の器官に負荷を掛けますから」
「それぐらいなら問題ない」
「あと私への扱いです。できるだけ清潔感のある寝床と一日三食を希望します」
「……いや、その心配は杞憂だ。問題ない」
「そうですか。よかった」
王女だよな?
そう思うほど彼女の感覚はどこかズレている。話を聞くと王城でも異質的な扱いで、家族仲は良くなさそうだ。
希有な能力を持ったせいで、《使える駒》程度の認識なのだろう、と。
「逃げ出そうと思わないのか?」
「あんな場所ですが、私の帰りを待っている人がいるので」
それが護衛騎士のジョシュアだと話してくれたのは、妹ミルティアの治療期間中だったか。彼がいるから、王女として頑張れていると。
攫われてもいつも迎えに来てくれたから、と笑っていた。攫われるのももしかしたら、その護衛騎士が迎えに来てくれるのを毎回待っているのだろう。「そのまま一緒になれたら」などと、淡い夢を見ている気がする。
自分から王女の責務を放棄しないのは、王族の矜持と言うやつだろうか。だから攫われることが、彼女なりの賭けなのだろう。なんとも回りくどくて、面倒なことだ。
(まあ、妹が世話になったのだ。少しぐらいお節介を焼いてやらないこともない)
それがあんな結果に繋がったのだとしたら、王女とジョシュアの運命をねじ曲げたのは間違いなく俺だ。
俺が二人のささやかな幸福をぶち壊した。
だから今度こそ、あの二人が出会い、結ばれるためにできることをしよう。
*
月の晩は妙に外の空気を吸いたくなる。
「兄様。公爵家の背後にいた魔人モドキですが、私が狩ってきちゃっていいですか?」
「ミルティアか。……侍女服に大鎌って、また前衛的な」
「えへへ。だってこの服、動きやすくて気に入っているんですもの」
屋根上で見張りをしていた俺に、妹は暢気に声を掛けてきた。声は明るいが間違いなく怒っている。今回のことでアリシアが危険な目に遭ったことに。
そして──。
「むう。お嬢様のスイーツを楽しみにしていたのに! しばらくお預けなんて許しません!」
「そうだな」
数百年前までは病弱で儚い雰囲気だったのに、今はそんな面影すらない。元気なのは良いことだ。もっとも俺も魔王──冥府の王として、神に返り咲いていろいろ変わったとは思う。
八百年前。
護衛騎士は亡命を決意し、王女もそれを受け入れる。ここまでならハッピーエンドだ。しかし護衛騎士と共に訪れた騎士は、二人の殺害を命じられていた。二人が死ねば、全ての責任を魔人のせいにできると考えたのだろう。その結果、王女のいた大国は消滅した。俺が全ての命を喰らい、神の座に戻ったからだ。
冥府の王として神に返り咲いた。
神の力を使い王女と護衛騎士を転生させたが、護衛騎士は記憶を引き継ぎたいと願ったので祝福を掛けておいたものの、まさか呪いに変容するとは思わなかったが。
(それだけあの終わり方は、双方にとって暗い影を落としていた……)
我が冥府の王となってすぐに、他の魔人たちも同じように人をふるいに掛けて、価値がないと見なした魂を喰らって神に戻る。それぞれ天上、地底、海底へと住かを分けて、地上から姿を消した。
その後の構図は人対魔物。
ただこれは魔人がいなくなったことで、バランスが取れたようだ。
厄災を齎す大怪猫として時折、地上に出て人の行いを監視あるいは干渉する。彼らが時代と共に、神の存在を忘れないように厄災と少しの豊穣を与えてバランスを取っていた。
あの王女と護衛騎士が転生するまでは──。
「しかし妹が死神として覚醒するとは……思いもよらなかったな」
宵闇を元気いっぱいに駆けて行く妹を見て、兄として少し心配になるのだった。
***
夢を見た。
長くて、どこか悲しい夢。
いつも私を迎えに来てくれる護衛騎士が好きで、患者がいるからこそ望んで攫われるけれど、いつも置き手紙をこっそり残しておく。
彼だけにしか分からないように。
二人だけの暗号文。
二十歳になったら国王陛下が決めた相手と結婚する。だから、その前に攫ってほしい。でもそんなこと王女の私から言ったら、命令になってしまうから。
患者の治療も私が望むから行くのだけれど、少しだけ自分の欲も入っているから、偽善でも、お人好しでもないのだ。
ずる賢くて、臆病なだけ。
だから何度も賭ける。
そして二十歳になったら、自分の恋に終止符を打つ。
素直に攫って欲しいと言ったら──なにか変わっていたかしら?
迎えに来なかったら、私は王女からただの治癒士になる。それならそれでもいい。不自由な自由よりも、自由に生きてみたい──なんて思うのは、考えが甘いだろう。
それでも良い。
人形のような日々を王城で暮らすより、ずっと。
良い思い出のない王城でずっと私の味方をしてくれた、好きな人。
傍に居るだけで満足できなくなったのは、いつから?
しんしんと雪が降る。
ああ、どこで間違えたのかしら。
「一緒に別の国に行こう」と言ってくださった時は凄く嬉しかったのに、どうしてこうなったの?
好きな人が毒で倒れて、私も斬られて──後悔ばかりだ。
手を繋いだ手は、まだ少し温かい。
「……んな、さい。ジョシュア……」
謝っても、謝ってもたりない。
私が歪めてしまった。
私が。
私が。
「いや。俺が歪めてしまった」
低い、魔王様の声だ。
キラキラと淡い光を空に向かって解き放つ。世界が線香花火のように煌めいて行く。まるで神様のように神々しく見えた。
「次は俺もしっかり見守ってやるから、後悔も、言いたいことも、思いも何もかも全部持ったまま生まれ変われ」
それは酷く優しい声だった。
まるで神様のようだ。
次があるのなら──。
彼のために、誰かのために──。
私が望むまま生きてみたい。
***
数日後。
ガゼボに改めてジルベール様を招待した。正確には「あの場所でもう一度会いたい」と今日の朝に希望を言い出したので、急いで準備して貰ったのだ。
玄関先で出迎えると、真っ先に花束と贈物を渡してきた。
(珍しい赤い薔薇だわ。後で何本かドライフラワ―と、薬用に使っていいか聞きましょう!)
騎士団の仕事があるとかで二日前に戻って、次に会えるのは早くてももう少し先だと思っていたので凄く嬉しい。ジルベール様に会えるのはとても嬉しいけれど、無茶していないか心配になる。
セバスに花束や贈物を渡して、いつものように手を繋いでガゼボに向かって歩き出す。いつもは手を繋ぐだけだったけれど、今はジルベール様とお喋りができるのが凄く嬉しい。
「ジルベール様、公爵家のことや騎士団の仕事でお忙しいのでは?」
「いえ。いずれアリシアの領地で暮らすので、騎士団長の仕事を引き継いで来ました。今後は辺境地の常駐騎士団を運営の準備で、屋敷に泊めていただくことになりました」
「そ、それって結婚してからという話では?」
「前倒しにしてしまっても問題ないでしょう。それに」
「それに?」
ジルベール様は立ち止まると、私の頬に手を当てた。
「アリシアとできるだけ離れたくないですから」
「ジルベール様」
そう言ってくださったジルベール様の言葉が嬉しくて、つい一歩距離を詰めてそっと身を寄せる。ギュッと抱きしめるのは淑女としてはしたないと思ったのだけれど、これはこれで恥ずかしいような。
そうぐるぐる考えている間に、ジルベール様は私を抱き寄せて腕の中に閉じこめる。
(ふああああ。廊下でこれは……!)
「ん? アリシア、もしかして何かお菓子を?」
「あ。はい。今回は急いで作ったので、シフォンケーキしか用意できなかったですが……」
「アリシアのシフォンケーキ。それはすごく楽しみです」
「……!」
婚約解消発言の一件から、ジルベール様は私を抱きしめることが増えた。呪いが解けたジルベール様の溺愛ぶりはすさまじい。ルアーノ曰く『重愛の間違いだろう』と言っていた。
「ジルベール様。新しいブレンドティーもありますから、早く行きましょう」
「そうでしたね」
夢で見た悲劇ではなく、この先も続く幸福を噛みしめる。
「ジルベール様。愛しています、どうか、この先も私の手を、私を離さないでください」
「──っ」
そう囁くように告げると、ジルベール様は目を見開いて少し固まっていた。「唐突に変なことを言ってしまったのでは?」と思ったけれど、彼は嬉しそうに微笑んで唇に触れた。
甘くて、ついばむキスから、どんどん深いものになっていく。
「ええ。離しませんよ。二度と貴女を攫わせませんし、傍に居ますし、アリシアを離しません。もう、怖い思いをするのも、後悔するような恐ろしいことも起きませんし、起こさせませんから」
「ジルベール様」
ガゼボのある庭園に出ると、待ちくたびれたと欠伸をする大怪猫のルアーノに、シフォンケーキを切り分けているミルティア、お茶の準備をしている執事のセバスが目に入った。
一瞬だけれど、神々しい神様のような存在が私たちを祝福しているような、そんな温かな風が吹いた。
私とジルベール様はお互いに目を合わせて、自然と口元が緩んだ。
なんとなく神様から祝福をもらったような気分になる。
ああ、きっとこの先、私の記憶が欠如することはなさそう。そうなんとなく思えた。
楽しんでいただけたのなら幸いです。
下記にある【☆☆☆☆☆】の評価・ブクマもありがとうございます。
感想・レビューも励みになります。ありがとうございます(ノ*>∀<)ノ♡
[日間] 異世界〔恋愛〕ランキング
3/22 短編73位にランクインしてました⸜(●˙꒳˙●)⸝
3/23短編49位にランクインしてました
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【短編】微睡みの中で皇妃は、魔王的な夫の重愛を知る
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