9・キロヒ、サーポクを泣かす
「お前の頭の中には何が入ってんだ、田舎ブス!」
「ビニニが入っているとよかとよー。そしたらいつでもビニニが食べられるとよー」
「ビニニは忘れろっつってんだろ! 四から分からなくなるって、お前は熊か!」
「ビニニは忘れないとよ? クマって何よ?」
「熊はどうでもいいんだよ! そんなことより四だよ! 四を覚えろ! ビニニブス!」
授業が終わってから、屋根裏部屋ではサーポクの特別授業が始まる。中央の丸テーブルが、授業場所に決まっていた。相変わらず、サーポクの背中と椅子の背もたれの間には、ザブンが挟まっている。
計算の授業担当はニヂロ。苦戦しているのは、轟く怒声で明らかだ。
「よん? を、覚えたら何かいいことあるとよ?」
「悪い奴に騙されなくなるし、商売をする時に役に立つんだよ」
「しょーばい? ウチがすることある?」
「しねーよ、できねーよ。お前が商売なんかしたら、すぐつぶれるわ」
「じゃあ、覚えなくてもよかとよ。それに島に悪い人はおらんとよ?」
「ここは島じゃねぇ、悪い奴はわんさかいる」
「うーん、うちは島に帰りたかー。よん? より島におりたかとよ」
「があああああああ、埒が明かねぇええええ!!」
四を覚えることに楽しさを見いだせないサーポクと、どうにかして四を覚えさせなければならないニヂロの攻防は熾烈を極めた。
同じ部屋にいるので、キロヒにもサーポクの学習の様子はよく聞こえる。キロヒが分かったのは、ニヂロは頭がいいだろうということ。理解力も高いだろうということ。そして、分からない相手に勉強を教えたことがないのだろう、ということ。
ニヂロが教えている最中に口を挟むと、じゃあキロヒが教えろということになりそうなので、心配になりながらも黙ってその様子を見守る。
「あー……うー、じゃあ、アタシが悪いことを教えてやる」
唸り散らしながら、ニヂロは妙なことを言い始めた。
「悪いこと?」
「そうだ、アタシはお前の島に悪いやつがいなくて、馬鹿ばっかりだって分かった。だからアタシはこう考える……お前の島の連中、絶対もう騙されてるってな」
「?」
確信めいたニヂロの言い切りに、サーポクの首が斜めに、いや、ほぼ真横に近いほど傾いていく。
「いいか、ビニニブス。その証拠がお前だ。島から離れたくないっていうお前を、結局島の人間は誰も守れていない。それと似たことが、絶対に島でも起きている。ビニニとやらは、北方のアタシの村にまで高級品として届いた。誰かが売るために、島からビニニを持ち出していることは間違いない。だから絶対に、島の人間はもう騙されている。商人が馬鹿相手に公平な取引をするわけがないからな。馬鹿は搾り取られんだよ」
ニヂロの長演説は、キロヒの胸を殴りつけた。商人の父を持つキロヒにとって、それは深く暗い部分の話だったからだ。自分の父は搾取する側でないと、胸を張って主張できるほど、キロヒは父親の商売の全てを知っているわけではなかった。
元々商人は「安く買って利益をのせて売る」が基本である。この「安く買って」は、できるだけ安い方がいい。サーポクの故郷の島では、ビニニが「出来るだけ安く」の下限を越えて、買い叩かれている可能性があるとニジロは言っているのだ。貨幣の意味が薄い島のような場合、物々交換という更に分かりにくい形で買い叩かれているという予想すら立ってしまう。
「うーん?」
ニヂロは、演説が長すぎて理解できていないようだ。
「おい、のろまブスは分かっただろ。この馬鹿に説明しろ! 計算の領分を越えてる。やってられるか」
がばっと振り返ったニヂロが、キロヒに向かって言い放つ。そして、そのまま屋根裏部屋を出て行こうとする。
「あら、計算の授業はもう終わりかしら?」と、イミルルセが煽るようなことを言う。
「便所!」
屋根裏部屋の扉はバタンと大きな音を立てて閉められ、どすどすと階段を下りて行く音が遠くなっていく。
この間に、キロヒに教えておけというのだろう。突然回って来た常識の授業に、キロヒは慌てながら中央のテーブルへと近づいた。
「うーん?」
「あのね、サーポク」
丸テーブルの隣の席に座りながら、キロヒは妹たちに数字を教える時を思い出しながら話をすることにした。
「たとえばサーポクが、ビニニをたくさん持ってる時に、私が別のおいしいものを持っていて、それを食べたいなと思ったらどうします?」
「ビニニと、とりかえっこしてって言うとよー」
「うん、そうですね。じゃあ、私の持っているおいしいものを食べるのに、ビニニをどのくらいあげますか?」
「どのくらい欲しかか、聞けばよかとよ」
「うん、それもいいですね。でも、その時に私が、ビニニを全部ほしいって言ったらどうします?」
「えー、全部はいやとよー」
「そう。そうしたら、そこからどれくらいビニニを渡してもいいか、サーポクは考えないといけないですね。その『どのくらい』かを相手にちゃんと伝えるためには、ニヂロに教えてもらっている数を覚えないとできないんです。いっぱいあるビニニの数が分からなければ、他のおいしいものと交換できないんですよ」
「三までならいいとよ……」
「じゃあ、私が『三を二つ欲しい』って言ったらどうします?」
「三を……二つ?」
サーポクのまん丸で藍色の目がぐるぐると回り出す。何を言われているのか分からないが、想像の中のビニニのために一生懸命考えているのだろう。
「サーポクは三まで数えられるなら、二も三も分かりますよね? 三を二つちょうだいって言われたら、サーポクはどうします?」
「さん……にー……さん……ええと、ええと、三とか二なら、あげるっていうとよー」
目をぐるぐると回した後、崖から海に飛び込むような勇気を持った表情で、鼻息荒くサーポクが決断する。
「分かりました。じゃあビニニを六もらいますね」
「ろく……ろく? キロヒは三とか二と言うたとよー。一でも二でも三でもないし、よん? でもないとよー」
サーポクがまた目をぐるぐる回しながら、それでもおかしなことには気づいたらしく、両手でぱしぱしとテーブルを叩く。
「でも、サーポクはいいと言いましたから、ビニニを六もらいます」
「ろくって分からんとよ。キロヒ、嘘ついたと? ビニニやっぱあげん。あげんとよー」
「嘘ついてませんよ。数が分かる人は、私が嘘をついてないってみんな分ります。ね? 数が分からないと、サーポクはビニニを守れないんです……サーポクだけじゃなくて、島のみんなも数が分からないと、島のビニニを守れないんです」
「ううー……ぐすっ」
ビニニをたくさん奪われることを想像したのか、サーポクは涙目になりながら鼻をすすりあげた。しかし、彼女を悲しませたのは、想像の中の六つのビニニだけではなかった。
「ニヂロ……もう島のみんな、騙されてるって言ったとよ……」
サーポクの頭の中では、島からどんどんビニニが消えていく様子が思い浮かんでいるに違いない。
「はい……だからサーポクが数を覚えて、島のビニニを助けられるようにならないといけないですね」
「うえぇぇん……ろくって何ー」
サーポクがべそべそと大粒の涙を流し始めると、上空からゴロリと音が聞こえ、部屋が暗く陰った。
キロヒがそっと真上を見上げると、天窓の明るい日差しが暗雲に遮られていた。急に天気が悪くなったと不思議に思った彼女は、ふっとサーポクの背中にいるザブンを見た。ザブンは、じっとキロヒを見ている。何かを推しはかるかのように。
「い、いじめてません……私、サーポクをいじめてるわけじゃないんです、ほ、本当です」
反射的に、キロヒはザブンに言い訳を始めた。特級精霊の地形を変えるという授業内容が、物凄い勢いで彼女の頭を駆け抜けていったせいである。
「何だ何だ、どうなってやがんだ?」
屋根裏部屋に戻ってきたニヂロが見たものは、亀に向かって言い訳を続けるキロヒと、不思議そうに、しかしどこか感心したように暗雲を見上げるイミルルセ。
そして。
「ニヂロー、ろくって何ー……うえぇぇん」と、泣きながらニヂロに抱き着くサーポクという、説明にとても時間がかかる状況だった。