89.【第二部】キロヒ、二年生になる
「これより、二年生の『離』の訓練を行う」
初夏の青空の下、ラエギーの朗々たる宣言が響き渡る。
キロヒが二年になり、更に春休暇も終わる半年が過ぎた頃──ついに、旧式の「離」の情報が精霊士に解禁された。それは平民の精霊士養成学園でも同じだった。
クロヤハの家族への根回しが花開くまで一年かかったが、それでも十分早いと言える。
主に学園の外の精霊士にとって、激動の一年となった。
クロヤハの父と、その後ろ盾である貴族の派閥が、次々と特級に上霊していき、貴族内でも精霊士協会内でも優位を取った。
貴族の精霊士で同じ特級階級の時は、年齢ではなく特級の経験年数の長さで立場の上下が決まる。平民同士でも、それは同じ。たとえ一日でも長ければ、その人間より立場は下となる。
これにより、一気にクロヤハの父が関与した派閥は国に大きな影響を与える立場になった。
しかし、同時に旧式の「離」を知る者が一気に増えたことにより、秘密の保持が難しくなってもきていた。派閥が微妙に違う姻戚関係者に泣きつかれて、袖に出来なかった者もいたのだ。
それを厳しく罰するよりも、まだ価値が下がり切っていない間に高く国に売りつける方へ、クロヤハとその兄は父親を誘導した。この場合の売りつけるは、金銭ではなく家名を高める名誉の方である。
これによりクロヤハの父とフキルの父は、名誉精霊士爵という、新設された一代貴族の肩書を得た。その際、親族の戸籍からフキルの名は完全に抹消され、彼らの一族は彼女の呪いから解放されたのである。彼女がどこで何をしようとも、もはや赤の他人だ、と。
これについては、クロヤハは思うところがあったようだ。けれどもしフキルが考えを変えたとしても、もはや昔のように家族の一員として戻ってくることは不可能だと、彼も戸籍についてはあきらめたようだ。
旧式の「離」は国の手に渡り、そこから一気に全精霊士へと広がった。
長く上級の精霊士を勤め、精霊との絆肉を太くし続けてきた者にとっては、旧式の「離」であっても効果はてきめんだ。
精霊士歴二十年以上の特級上霊率が三割を超えた時、協会は国内の精霊士の配置の見直しを発表した。これまでは少ない特級を分散して配置していたが、これからはできるだけ精霊の得意地域に寄せる方向で配置し直すことになった。
この恩恵を受けた者から、先日クロヤハ宛てに手紙が届いた。
去年、「離」の訓練に協力してくれたキムニルである。五年生だった彼は卒業し、一度は都市部に配属された。しかし彼の精霊の力は、海の魔物に対し特に強力であることを認められ、南部の港所属に変わることになったという。彼のイヌカナであるエムーチェと同じ場所だ。
効果的に「離」を公表し、特級の価値を薄めた恩恵を受けたキムニルからの、感謝の手紙。「月に五十回は精霊士をやめようかと考えた」という、都市部のキムニルの苦痛が、短い間に終わって本当によかったとキロヒも喜んだ。
学園の授業に取り入れられ始めたいま、キロヒやイミルルセもが上級であることを明かせる日も近い。これから高い頻度で誰かが上霊していく刺激的な日々の中で、誰が彼女たちの上霊を不審に思うのか。
「離」の恩恵が薄いのは、上級になって日が浅い精霊士だ。しかし彼らもこれからの年月と、精霊との付き合いの密度で着実に報われていくだろう。
「精霊から離れる限界まで来たら、スミウやイヌカナに引っ張ってもらい、半歩でもいいから進んでその距離で慣らせ」
学園での「離」は同室の四人一組で、一人ずつ行う。誰もが限界点から自力で進むことができるわけではない。その半歩をスミウやイヌカナの力で進める。一度でも体験すれば、その苦しさは誰もが分かる。だからみな無茶はしない。そこにはラエギーからのきつい警告もあった。もし力任せに引っ張って気絶させた場合は、部屋に罰をつけるとまで言われたのだ。
屋根裏部屋の男女は、そんな教師の警告を素知らぬ顔をしてやり過ごす。「離」は気絶してからが本番、みたいに考えている危険思想を持つ人間が三人はこの中にいた。
「ぬりぃ」
「楽」
「全然やった気がしねぇな」
ニヂロ、シテカ、ヘケテである。
「精霊との関係を大事にしないと特級は遠いよ」と、クロヤハに言い聞かせられた彼らは、「離」の授業中は、絆肉を太くする時間として有効活用することにした。
あとは周囲の特級の増加により、動きにくくなっていくだろうフキルの問題以外は、穏やかな学園生活が手に入ると、キロヒは信じていた。
「そこの一年女子二人ー、ちょっと顔貸してー」
放課後。屋根裏部屋のスミウで、独自に「離」の訓練をしようと学園の外に出た時、女性の声にそう呼び止められた。
薄茶のふわふわの髪と、まつげバサバサの薄茶の目。そんな女生徒が、自堕落に大きな桃色の雲の上に乗った状態で、二年の屋根裏部屋スミウを見下ろしていた。
精霊の大きさ的には特級。去年まで指導担当だったイシグルの、同室の特級女子だろうかとキロヒが首を傾げていた。
「そことそこの二人だよー」
細い指に差されたのは、イミルルセと──まさかのキロヒだった。




