8・キロヒ、雲に記す
「精霊には階級がある」
赤毛の教師ラエギーの声が教室に響き渡る。二百人の教室の端々まで声を届けようとするには、かなりの声量が必要なはずだが、彼女は特段声を張り上げている様子はない。何か便利な精霊具でも使っているのだろうと、キロヒは想像していた。
「一番低いのが無級精霊。それらは意思を持たない。この世の中を巡る元素……つまり火や風や水や土の中で普段はたゆたい、自然が荒れることがあれば一緒に荒れ狂う。特定の形を持たず、元素と混ざり合っているため、視覚では判別できない……質問は全ての精霊の説明が終わった後に時間を用意する。いまは知識の吸収に努めるように」
授業に際し、生徒全員に精霊具の指輪が用意された。あくまでも貸与品だが、とても高価な品であることは分かる。銀色のそれには薄く細長い透明の石がリングの曲線に沿ってつけられており、石の中では自然の景色が小さく渦巻いている。
指輪をして「雲」を想像すれば、リングの中は雲に染まる。その状態で指輪に触れると、手の上にもやっとした雲のようなものが現われるのだ。そこまで来ると多少指輪から手が離れても大丈夫で、両手でその雲は好きな大きさに引き延ばせる。端をちぎり取り細長くして「黒い雲」を想像すれば黒い文字が書けるペンの出来上がりだ。太さも指で自由に変更できる。書いた文字を消したければ、そこの文字をちぎって丸めて端っこにでもくっつければいいし、文字を雲ごと上手にちぎれば、他の場所に移動させることもできる。文字を書く人のことを、よく考えて作られているとキロヒは感心した。
この黒雲のペンで白雲の帳面に文字が書け、授業の内容や個人的な学習、メモなど記録することができる。白雲は層になっており、雲の側面を指で持ち上げるようになぞれば過去のページと入れ替わっていく。逆に上から下になぞることもできる。新しいページを出したければ、一番下側から雲をつかんで、めくるように引っ張り上げればいい。
使い終わったら白雲も黒雲も丸めて指輪に触れさせれば戻せる。万が一しまい忘れても、指輪から一定以上離れると勝手に戻るようになっている。
白雲の最初から二十ページほどには、白雲の使い方だけではなく、指輪そのものの基本的な使い方が書かれており、自分で調べられるようになっていた。いろいろ便利な使い方が書かれているので、キロヒは面白くなって読み込んでいた。
キロヒは商人の父が扱う精霊具を知識として知っていたが、ここまで高性能なものが一つの指輪に詰まっているものは見たことがない。こんなものを平民の生徒一人一人にぽんと貸与していることだけでも、学園の本気度がよく分かる。
キロヒが教師の説明を書き留めている横で、サーポクは白雲の感触が気に入ったのか、さっきから両手で楽しそうに揉みしだいている。間違いなく、授業は聞いていない。
彼女が文字を覚えた後に、書き記したものを写させようと考えることで、キロヒは現時点の問題を先送りした。あくびもしていないし、騒いでいるわけでもない。いまのサーポクの状態から言えば及第点だと前向きに考えることにしたのだ。誰しも、いままでの生活と何もかも違う日々に慣れるまでには、時間がかかるものなのだから。
本来キロヒも慣れるまでに時間がかかるものなのだが、サーポクの手助けをするという義務感の強さに、自分の心配をしている場合ではなかった。
「次は初級精霊だ。初級精霊は姿形を持っているが、動物や植物を模したものが多い。ただし、その大きさはとても小さく、中級精霊の半分ほどだ。自我はうっすらと持っているが、元の動植物の本能に近い部分も多い。この中のほとんどが、最初の友人は初級精霊だっただろう。友人になるのはさほど難しくはない。特に地方出身者は、この初級精霊の友人でない者の方が少ないはずだ。逆に、精霊の友人のいない地方の大人は要注意だ。絶交された可能性が高いからな。ありていに言えば、犯罪に精霊を使ったロクデナシだ。気づいたら距離を取って警戒しろ」
十歳の子供には、なかなか重い話もさらっとラエギーは言葉にする。多感な少年少女が犇めく教室に微妙な空気が流れたが、教師は気にする様子もない。
精霊の絶交についてキロヒは少し知ってはいるが、自分とクルリが絶対にそうならないよう生きて行きたいと願っている。
「そして、中級精霊の話になる。中級精霊は自我を持ち、感情もはっきりしている。人間の言葉は話せないが会話を成立させようと努力もする。特に友人となった後、初級精霊から上霊した中級精霊の場合、それがかなり顕著だ。これは上霊のきっかけが、人間の友人にある場合がほとんどのためだ。初級精霊は、君たちのために上霊したいと願ったのだ。上霊に立ち会った者は、その意味の重みを忘れないように」
ついさっきまで微妙だった空気を、ラエギーは塗り替えた。多くの生徒が一斉に、自分の身体のどこかにくっついている精霊を引っ張り出したり見つめたりし始めた。
キロヒも、ジャケットの襟の内側にもぐりこんでいたクルリと目を合わせた。艶々のどんぐりの目が、じっとキロヒを見上げている。指先でその太い毛糸のような髪を撫でると、嬉しそうに身体をくねらせた。
「ここからは、上級精霊の話だ」
ここで、教師は一度言葉を切って、全員の意識を精霊から移すための時間を作った。キロヒも襟を戻して前を向き直す。
「上級精霊になると、大きさも中級精霊の二倍から三倍になる。そして言葉はしゃべれないが、感覚的に伝えようとしていることがはっきり分かるようになる。中級精霊から上霊して上級精霊になった場合は、更に人間との絆が深くなり、力も強くなる」
再びラエギーが言葉を切ったので、上級精霊の話はそこで終わりかとキロヒは思った。しかし、そうではなかった。
「君たちは、この学園で学ぶ五年間の間に、友人である中級精霊を上霊させ、上級精霊にしなければならない。もしそれができなければ……精霊士となるための卒業は不可能となる。なおこの卒業に関しては、スミウもイヌカナも関係ない。できなかった者だけが、精霊士補佐か、精霊士協会の職員などの裏方の仕事につくか、精霊養成学園の卒業未満生として、民間で仕事を探さなければならない」
和やかになりかけていた教室の空気が、一気に冷えていく。
成功と挫折の分岐点とは、こんなに簡単にはっきりと引かれるものなのか。思わずキロヒは、隣のサーポクの方へ身を寄せた。屋根裏部屋は暖かいが、ほかの教室や階段はそうではない。しかし、そんな場所であってもサーポクの側は何故か明らかに暖かいのだ。
卒業にスミウが関係ないというのは、協力や助け合いではどうすることもできない部分なのだろう。
「ただし、卒業未満生が卒業後五年以内に上霊することができれば、遡って卒業が認められ精霊士になることも可能だ。励むように」
救いを残す言葉は、生徒たちに安堵の息を吐かせた。
「さて、ここから上の精霊は、君たちが人生をかけて目指すところだ」
ラエギーの言葉が、明らかに色を変える。感情を感じさせないところは同じなのだが、単語単語の一声目が強調され、全員の意識を講壇へと引きずり込む。
「特級精霊は、人間の半分ほどから人間を超える大きさまでいる。万が一、野良で出会ったならば、絶対に刃向かわず、丁重にその前から去れ。対応を誤れば地形が変わると思え」
物騒な説明の直後、視線がキロヒの方へと向けられるのを感じた。キロヒがびくりと震えてしまうほどの強さだ。その視線の主は、幾人かの優秀そうな生徒たちである。あのキツネ色の髪の少年もその中の一人だ。
しかし、彼らはキロヒを見たいのではない。彼女の隣で白雲を揉んでいるサーポクと、その後ろに挟まれているザブンを見ているのだ。ザブンが特級精霊であることを知っているのだろう。人生をかけて目指せと言われた、特級精霊の生きた見本がここにいる。
「更に言えば、精霊の階級は……特級で終わりではない。ここから上を目指せと言ったのは、特級を目指せという意味ではないからな」
ラエギーが話を続けると鋭い視線が消滅して、キロヒはほっとした。自分を見ていないのは分かるが、真横というのは誤差の距離だ。絶対に一緒に視界に入れられているだろう。
「特級より上は幻級精霊と言う。我が国では現在、四人が幻級精霊の友人だ。内三人は高齢で、新たな幻級精霊の友人となれる者を強く待ち望まれている。強さの説明をするとなると難しい。何故なら本気の力を確認できないからだ。予想の範囲で言えば、我が国の半分ほどが更地になるらしいな」
完全に過剰戦力の話だった。いくら強くても、その力を全力で振るう機会がないのであれば、無理に幻級精霊を目指す必要はないのでは、とキロヒは不思議に思った。
『キロヒ、十レンのお金には十レンの仕事がある。一億レンのお金には一億レンの仕事があるのだよ。同じお金だけれども、仕事の大きさと内容は全然違うものだ。たとえ一億レン、全額を使うことはなくとも、ね』
ふと、父親の言葉が脳裏をよぎる。この場合、一億レンのお金というのが幻級精霊ということになるのだろうか、と。
国に必要とされるということは、幻級精霊の友人にはきっと大事な仕事があるのだろうと、キロヒは白雲に要点を書き記しながら、ぼんやりと考えていた。
「最後に……神級精霊。残念ながら、伝説として約千年前の記録に一度だけ出てくる。以上」
精霊の説明は、最後だけ雑に締めくくられて終わったのだった。