34.キロヒ、靴を拾う
「……せまかとよ」
その光景に肩を落としたサーポクが、とても面白かったのだろう。後方でニヂロがゲラゲラと笑い始めていた。
キロヒは、ある程度予想がついていた現実の光景に「仕方がない」という言葉を使っていいのかどうか分からず、結局黙り込む。
「海辺」という大講堂の環境は、あくまでも「海辺」だ。
扉から入ると砂浜があり、それが広間の大体三分の一くらいだろうか。残り三分の二が海に見える。といっても、周囲は相変わらずくりぬいた樹木の壁があり、海らしさが薄れている。
それでもどうやっているのかは分からないが、砂浜には波が打ち寄せ、屋根裏部屋の人間にとって耳慣れた潮騒が続いている。
「ザブン、行くとよ!」
へこんでいたサーポクの肩が、ぐんっと高さを取り戻す。気持ちを切り替えて、この疑似環境を楽しむ方に変えたのだろう。
ぽーんと。
最初は何が飛んだのかと思っていたら、靴である。右と左と、更に靴下も投げられ、サーポクはキュロットに裸足という状況になって、ザブンを背負ったまま駆けだした。
「お、お待ちなさい、サーポク」
イミルルセが靴を拾うかサーポクを追うかで慌てていたので、キロヒは彼女を先に行かせた。性格的に、靴を拾ってゆっくり追いかける方が向いている。
勿論、イミルルセが砂浜を走って追いかけるのに向いている、というわけではない。それに関してはキロヒと大差ないだろう。
一生懸命足早に歩いているものの、浜の砂は疑似とは言えども優しいものではなく、苦労しているようである。
ニヂロは一通りサーポクを笑い終わった後、この不慣れな環境を確認し始めた。芝生ではない日に、ニヂロは大講堂に通っている。
ツララに合う環境がないかという確認と、もしここで戦うことになったらどうすればいいのか、など。ツララは特化型と言われただけあって、それ以外の環境では工夫が多く必要になる。
キロヒであれば、そういう環境に行くことを避けて生活する、と考えるのだが、ニヂロはそうではないらしい。
サーポクの靴や靴下を拾って歩くキロヒは、襟からクルリを出していた。不思議なこの空間では、潮騒が生み出す風の揺らぎを海からの風として感じることができる。その湿度を持った風に、クルリはふわふわと風下に押し流されては、頑張って戻ってこようと枯葉のドレスを翻す。
「ザブン、行くとよー!」
びっくりするほどの大声にそちらを見ると、背中からザブンを下ろしたサーポクが、甲羅に乗って海に突入するところだった。
さすがにそこまでは追えないイミルルセの見送る後ろ姿が、心配そうに左右に揺れる。
疑似とは言え、おそらく大講堂の中ではザブンが一番得意とする環境だ。思う存分楽しんでくるといいなと、キロヒはひらりはらりと流されるクルリと、つかずはなれずのんびりと歩いて行った。
「噂の特級一年じゃん!」
突然、後方から別の大きな声が聞こえてきて、キロヒは慌てて振り返った。
群青色の長い髪を縛った、おそらく上級生の日焼け男子が、裸足ですごい勢いで走ってくる。ジャケットの上着を放り投げながら。
その青い目に映っているのは、海と海中に潜って行くサーポク。
砂浜に落ちたジャケットに目を奪われている間に、キロヒの脇を砂を巻き上げながら爆走していく。キュロットから伸びた、成長途中だがしっかりした足が、迷うことなく砂を掴んで身体を前へ前へと押し出していく。
キロヒは、近くに落ちたジャケットをどうしたらいいのだろうかと心配で見下ろした。なくしてしまわないか、と。しかし、後方から靴を拾いながら、黒髪の男子が歩いてくるのが見える。ちゃんとイヌカナがついてくれているようだ。
安心して爆走男子を見ると、制服の白いシャツも脱ぎ捨てている。肌着は着ていないので上半身裸だ。
確かにここは「海辺」ではある。しかし「夏の海辺」というわけではない。気温は学園内としての普通。屋根裏部屋より少し低い温度だ。
要するに、裸になる必要はまったくない。精霊のおかげで濡れることもないだろうに。野生の呼び声に逆らわない人の気持ちはキロヒには分からないが、イヌカナが止めないのだからそっとしておこうと思った。
「行くぜ、ジャババーン!」
水しぶきをあげながら、海に駆け込む群青髪の男子は、精霊を顕わす。
それは──帆の付いた小さな船だった。船底に両足をついて、見ている方が不安になる立ち乗りで海上を進み始める。その身体を支えるのは、狭い足場と帆の辺りにある取っ手だけ。
まさかの船。どう見ても海上特化型である。大きさとしては、特級に見えた。
その帆が、海風とは明らかに違う強い風をはらんで、櫂もない小船とは思えない速度で走り出す。
「おい、エムーチェ。一年にあんまり絡むなよ」
服を拾いながら海辺に近づく船男子のイヌカナが、普通の声量で注意を飛ばす。キロヒに聞こえる程度では、さすがに海まで無理なのでは、思っていたら。
「大丈夫、大丈夫」と、突然目の前からさっきの男子の声がして、キロヒはびくっと砂の上で跳ねた。
「あー、ごめんごめん。あいつ耳がよくて、声を飛ばせるから、気にしないか慣れるかどっちかして」
上着を拾っている男子が、キロヒの驚きに気づいて軽く詫びて雑に流す。「気にしないで」ではないところが、この人の感覚もきっとキロヒには難しい方向の人だろうと感じた。
遠目では短い黒髪に見えたが、よく見るとその黒髪の中に金色の髪の房がちょいちょい混ざっている。前髪が重めで目にかかっているので、どんな目なのかキロヒにはよく見えない。
上級生で知らない人で男子という、キロヒの苦手の三拍子がぴたりと揃っているので、曖昧な会釈で応える。
「ああ、あの一年特級女子のスミウか」
キロヒの手に、他の人の靴と靴下があるのを確認したその男子は、納得したように頷いて海の方を見る。
「海バカって、みんな裸足にならないと命にかかわるのか?」
サーポクより大きな靴を振って見せる男子は、それだけ言ってキロヒより先に海へと歩いて行った。
「海バカって言うな……おっ、亀釣れた!」
目の前に突然でてくる声にまだ慣れないキロヒは、またもびくっとしてしまったが、亀という単語に反応して慌てて海を見た。
小船に並走するように、ザブンに座っているサーポクが浮き上がってきたのだ。
船男子がこちらに声を飛ばしてくることはなくなったが、何かサーポクと語り合いながら、海を横切るように高速でぶっ飛ばしているのが分かる。
楽しそうだ。楽しそうで何よりなのだが。
キロヒの不安は、少し前を行く男子が代弁してくれた。
「エムーチェ、前みろ前」
そうだ。そうなのである。この海には──壁があるのだ。




