3・キロヒ、出られない
「ようこそ、精霊士養成学園へ。君はここで五年間学び、立派な精霊士となってもらわなければならない」
ありのままに起きたことを話すとするならば、キロヒは青い竜胆の花に飲み込まれた。そして次に気が付いた時には、山の頂上にいた。そして黒いハイネックのワンピース姿の背の高い女性に、厳しい表情で迎え入れられていた。
山の上と言っても、あの光の円柱の中の山ではない。麓には町が見え、見下ろす山の色は晩秋の紅葉をはらはらと落としている。
もはや彼女の身体は重い。いや、これが普通だ。ついさっきまで、信じられないほどの身の軽さを経験した後だけに、余計に重く感じるだけ。
黒いワンピースの女性は大人で、三十代くらいだろうか。後方でまとめた赤毛とやせた頬、そして何かを強く押しつぶしてできたような、黒灰色の光を帯びない瞳が、彼女の厳しい表情をより厳しく見せている。
「私は教師兼寮母のラエギーだ。ラエギー先生と呼ぶように」
「は、はい、ラエギー先生」
上背と表情の全てで圧倒され、キロヒはただただ彼女に従うだけのか弱い少女となり果てた。いや、元々その通りなのだが。
「よろしい。では、私の後方の寮の扉に『一年です』と告げてから入れ。どの階のどの部屋でも構わない。自分の入りたい部屋に入り、荷物を整理して、四年生が来るまで待機だ」
ラエギーはその身を少し脇によけて、キロヒの視界を開いた。大きな彼女がいなくなったことにより、後方に木造の四階建ての建物があることに気づく。
正確には脇に巨木が一本生えており、その巨木の幹の根に近い方がとても太く、そこが建物になっている。木と融合した不思議なその構造物が、外から見て建物だと分かるのは、二階と三階部分に大きな窓がいくつもあるおかげだ。一階部分はところどころに窓がある。その窓の中に誰かがいる姿は、見えはしなかったが。
地面からつながる一階部分には、外から入る場所がない。中央に大きな階段があって、二階の扉から入るようになっていた。
キロヒは威圧感を感じるラエギーの前から早く消えたかった。だから「わ、分かりました」と小さく会釈をして、小走りに階段へと向かった。どうして自分が竜胆に食われて、突然ここに到着したのかということは、もう頭の隅に追いやっていた。
次々と襲い来る新しい出来事が多すぎて、小さなキロヒの心では全てを呑み込んで消化できない。分からないことを思い悩むよりも、とりあえず受けた指示を言葉通りにこなす方が、よほど彼女の性格には合っている。
しかし、ひとつだけ確認する必要があった。トランクを持って足早に階段に向かいながら、キロヒは小さい声で自分の襟の中に語りかけた。
「クルリ、いる?」と。
返事が「ぴゅる」と聞こえ、キロヒはほっとした。あの森の中ではぐれたわけではなかった。
大きな憂いがなくなり、彼女は木製の継ぎ目のない階段を慎重に登って二階の扉の前に到着した。両開きの大きな扉。
彼女はその扉に手をかけて、開けようとした。しかし、扉はびくともしない。そこでラエギーの言った言葉を思い出す。
「えっと……一年です」
恐る恐る、そう口にする。しかし、扉に何か反応があるわけではない。首をひねりながら、もう一度扉に触れる。
すると、彼女の弱い力でも扉がゆっくりと押し開けられた。また不思議な出来事に遭遇してしまったキロヒは扉をじっと見つめたが、開いたり閉じたりできるだけで、それ以外の反応はない。
また考えるのをやめて、キロヒは中へと足を踏み入れた。
その瞬間、ふわりと身体が軽くなる。あの森の中ほどではないが、それでも明らかに自分の重さが変わった気がした。
中に入ると広めのエントランスになっている。壁も床も全て継ぎ目のない木で出来ている。真正面には、昇り階段とその両横に大きな扉があった。左右は廊下になっており、木をぐるりと一周できるようになっているようだ。
外からも見えた大きな窓のおかげで廊下は明るく、中から建物の外を見下ろすと、ラエギーが立っているのが見える。新しく到着した人も見えた。森で下って行った少年のようだ。
彼も一年生であることは、おそらく間違いないだろう。ということは、寮の部屋に男子がいることもあるのだろうかと、キロヒは首を震わせた。彼女は人見知りな上に男の子が得意ではなかった。とにかく彼とかち合わないようにと、急ぎ足で一階の廊下をぐるりと回る。
一周回ってみたが、木の中央に向かって十二の扉があった。何故だか、開けてみる気にはなれずにまたエントランスへと戻ってしまう。窓の外にはもう少年はいない。しかし、かち合うこともなかった。違う方向に行ったのか、もう扉を開けてどこかの部屋に入ったのかもしれない。
キロヒはゆっくりと階段に向かう。両隣の大きな扉は触れてみたが、開くことはなかった。「一年生です」という言葉を口にしてみたが開かない。彼女は継ぎ目のない木の階段を上ることにした。すると不思議なことに、更に上に行く階段がある。外から見た時は、三階までしかなかったというのに。
キロヒは、とりあえず二階をぐるりと一周した。同じように十二の扉があったが一階と同じように開ける気にはならなかった。そして再び階段へと戻って来る。
キロヒは上を見た。この上はどんな景色なのだろうか。そんな好奇心は、残念ながら彼女には薄い。しかし、上に惹かれる気持ちがある。二階や三階のどの部屋にも感じなかった、彼女を呼んでいるような、何かが待っているような気持が、ざわざわとキロヒの心を揺らす。
ラエギーの言葉を思い出す。どの階のどの部屋でもいいと。二階でも三階でもなく、もっと上に部屋があるならどこでもいいのだと。
ごくりとつばを飲み込んで、キロヒは階段を上り始めた。踊り場を曲がると、階段が極端に狭くなった。すれ違えない一人分の階段。胸が高鳴って行く。勝手にどきどきとその細い階段を上り切ると一つだけ扉がある。
この扉だと、キロヒの心が大きくざわめく。冬の前の、最後の落ち葉を落とそうとする強風のように。
自分の中にこんな感情があることに驚くこともできないまま、彼女はその扉を開いた。
その部屋は階段と違ってとても暖かく──真上から光が降り注いでいた。
思わず見上げてしまう。円形に開いた天井。そのところどころ木が梁のように通ってはいるが、降り注ぐ光を大きく邪魔してはいない。外とつながっているかのように見えるが、外気が入って来る感じはない。この木の一番上に、ガラスでもあるのだろうかとキロヒは考えた。
しばらく天井の光に見とれた後、ようやく彼女は視線を下ろす。円形の部屋。小さな丸窓が等間隔に四つあり、それぞれ窓の前に机と椅子がある。外からはその窓は小さすぎて分からなかったようだ。
そしてその横には使い込まれたベッドと寝具。小さなクローゼットがひとつ。中央には丸いテーブルと椅子が四つ。
それがこの部屋の全て。四等分された、四人の住人のための屋根裏の部屋。
部屋の何もかもに目を奪われていたキロヒは、まだその時、気づいていなかった。
そう、ここは四人部屋なのだ。
キロヒ一人の部屋ではない。
だから。
「何だよ、ノロマブスじゃねえか。チッ……四人全部埋まるのかよ」
忌々しそうに吐き出された声に、心臓が止まるかと思うほど彼女は驚いた。反射的に声の方を見ると、あの固い黒髪と灰色の肌を持つ少女が、奥の机からキロヒを振り返っていた。
ついさっき、円柱の前で彼女を「ノロマブス」と言った時と同じ獣の表情で。
キロヒはだらだらと冷や汗が出てきた。彼女と同室で暮らしていくなんて、とてもできそうになかった。
彼女は、珍しく即座に自分のその意思を尊重しようとした。振り返ってこの部屋を出ようとしたのだ。
なのに、部屋の扉は閉まってしまった。
「!?」
驚き慌てながら扉を開けようとしたが──扉は何も言うことはなく、そして開くこともなかったのだった。