23.キロヒ、怪奇現象の結末を知る
屋根裏部屋の怪奇現象として、一部界隈で噂になっていた真夜中の異音。
それは──屋根裏部屋のスミウ四人が揃った初日の夜から始まっていた。
「ひっく……帰りたかとよ……」
静まり返った暗い部屋に、湿気った寝ぼけ声が溶け出していく。
最初にそれに気づいて目を開け、ベッドから起き出したのはキロヒだった。暗がりの中、注意深く自分の机に近づき、身を乗り出して明り取りの小窓の淵を手でなぞる。
すると机の上にだけ降り注ぐ、小さな明かりになる。これは指導担当のイシグルが、屋根裏部屋の中の説明の時に教えてくれたことだ。
寝る時のキロヒは、長袖で足首まである長い寝間着。髪はひとつの三つ編みにして肩の前にたらしている。
「ひっく……」
小さくしゃくりあげる声に、キロヒは振り返った。サーポクのベッドの方だ。
明かりは小さく、他人の睡眠を邪魔するほどではないが、それでもぼんやりと床を浮かび上がらせてくれる。素足で音を立てないように気をつけながら、隣のベッドにたどり着く。
その頃には、もそりとイミルルセの毛布も動いたし、死ぬほど眠そうな声で「……るせぇ」と呟くニヂロの声も洩れた。
サーポクはザブンの甲羅に乗り上げたまま、泣きながら眠っていた。鼻水で甲羅を存分に汚しながら。
そのふわふわの黒髪を、黙ったままキロヒは撫でた。離れて暮らす妹たちを思い出しながら。
キロヒには姉が二人と妹が二人いる。両親は忙しく、上二人の姉とは少し年が離れているため、妹たちの面倒を見るのはキロヒの役目だった。
そんなキロヒと妹二人が、祖母の家にしばらく預けられた時があった。母が病気になった時のことだ。
祖母の家に慣れるまで、夜になると妹たちが「家に帰る」、と泣き出してキロヒを困らせた。祖母とキロヒで妹たちを抱っこして撫でさすり、泣き疲れて眠るまで見守ったのはいい思い出だ。祖母が最後には必ず、キロヒも撫でてから寝かしつけてくれた。
サーポクも、まさに妹たちと同じ状態だった。
大好きな故郷からひきはがされて、知らないところで知らない暮らしが始まったばかり。キロヒだって心細い。
けれど、キロヒは自分より弱っている子が周囲にいると、勝手に心配を始めてしまうクセがあった。そうすることで、自分が不安を抱えている場合ではないと思い込める、という精神安定の意味もある。
「ザブン……えっぐ……海に行きたかとよ……」
撫でると、余計にサーポクのめそめそが強くなる。甘えられる環境になると、安心してもっと泣いてしまう子供の現象だ。
他の二人──特にニヂロが本格的に起きて怒り出すのではないかと思い、キロヒはハラハラした。
しかしそんな心配は、次の瞬間に吹っ飛んでいく。
ざぁーっと。ざぁーっと。ざぁーっと。
繰り返し押し寄せるような音が、屋根裏部屋の中を流れ始めたからだ。
海の音だと、キロヒは分かった。家族で港町に宿泊した時の夜が甦る。昼間はあまり意識していなかったのに、暗く静かになると浜に打ち寄せる波の音が際立って聞こえるようになる。
その音は、ザブンの甲羅から聞こえてきていた。サーポクが願う海の代わりに、彼女の精霊がその音を届けているのだ。
しかし、少しばかり音が大きい。
「ザブン……もう少しだけ音を小さくできますか?」
精霊が、友人以外の人間の言うことを聞くかどうかなど、キロヒはまだ分かっていなかった。
けれど、この時のザブンは協力してくれた。音が小さくなり、甲羅に抱き着いているキロヒには丁度良く、よそのベッドでは遠くの波音程度に聞こえるだろう。
気づけば、サーポクはすやすやと寝息を立てている。そのふわふわの黒髪を最後に撫でて、キロヒは自分の机へと戻って、窓枠をなぞって明かりを消した。
その夜から、屋根裏部屋は波の音を聞きながら眠ることなった。
ニヂロは少々うるさくても眠りの方が優先されるようで、その夜のことは記憶にも残っていなかった。彼女が波の音に気付いたのは、翌夜のことである。寝付く前から子守歌のように、ザブンが音を流し始めたからである。
イミルルセは、逆に「寝つきがよくなりましたわ」と微笑んでいた。サーポクも夜はもうぐずることなく、キロヒも繰り返す波音の穏やかさに、よく眠れていた。
よい解決だったと思っていたのだが。
どうもその波音は霊層を越えて、他の屋根裏部屋にも届いていたようだ。
ザブンが音を流せばそうなってしまうのか、はたまたキロヒが音を小さくしてくれと頼んだことにより、残りの音が他の霊層に漏れ出したのかは分からない。
「なるほど……」
事の顛末を聞いた男子たちは、全員が納得したようにザブンを見ていた。
「この建物も、波音を害とは判別しなかったから許したんだろうね……勉強してる時に聞こえてくると、眠くなってくるのはすごいと思うよ」
クロヤハが苦笑いを浮かべてそう言った。
「夜は寝るだけだ。気にならない」
シテカはあっさりしたものだ。
「ヘケテのいびきの方が、よっぽど眠れないよなー」
カーニゼクは、イミルルセの方を見ながら、音が流れても大丈夫と頼もしさを見せつけようとしている。
「え、ワイだけじゃなくて、ゼクもいびきかいてるぞ?」
やり玉にあがったヘケテが、笑いながら言い返す。
「え、うっそ! うっそだろ! クロ、嘘だよな?」
「……あー、本当だよ?」
残酷な現実を突きつけられ、カーニゼクは頭を抱えている。
波の音といびきの輪唱を想像して、キロヒは小さく笑ってしまった。
「でも、先輩方の中には、迷惑に思っている方もいらっしゃるかもしれませんわね」
イミルルセの言う通りだ。波の音を雑音だと感じたら、いびきと同じ扱いになっているかもしれない。
「ザブンに……音を小さくしてほしいと頼んだら、そうしてくれましたので、お願いすれば何とかなるかもしれないですね」
「そうですわね……今夜、お願いしてみましょうね」
キロヒがそう提案すると、イミルルセも頷いた。
そしてイミルルセは、男子たちにこう頼んだ。
「明日の、音が聞こえたかどうか教えていただきたいのですけれど」と。
「俺に任せ……」
「クロヤハさん、頼んでもよろしくて?」
カーニゼクが立候補しようとしたが、イミルルセは最後まで言わせなかった。ぽかんと口を開けたまま固まっている茶髪の少年の横で、眼鏡の少年が「分かったよ」と答えている。
そこで今日の情報交換は、終了となった。
後はザブンの音の調整がうまくいくかどうか、である。
結果は──うまくいった。ザブンの音は霊層を越えなくなったのだ。
しかし、これは後に小さな弊害を生むことになった。
すっかり夜の波音に慣れ、それでぐっすり眠れるようになった一部の生徒たちが、波音禁断症状を発症したのである。
ちなみに、イシグルが生活する四年生女子の屋根裏部屋には港町出身の生徒がいて、音が始まった初日から「これ、ただの波の音だわ。大丈夫大丈夫、寝よ」と、即座に音の正体を見破っていたらしい。
四年生の屋根裏男子が「何の音だよ、気味がわりぃ」と言っていたのが面白くて、教えずにニヤニヤしていたという。
しかし、その禁断症状はイシグルたちも発症し、結局その港町出身の女生徒の精霊に波音を流してもらいながら寝ることにしたよ、と言っていた。
屋根裏部屋の怪奇現象は、こうして終結したのだった。




