2・キロヒ、食われる
「わっ……くっ! いた……あれ?」
突然上下が分からなくなり、キロヒの身は投げ出されるままにトランクと一緒に、ズベシと地面に転がった。
口では痛いという音を出しかけたが、予想に反してほとんど痛くない。自分が毬にでもなったかのような不思議な感覚だった。
「……ここは?」
勇気を持って前に踏み出すではなく、怖さの余りに後ろに下がって柱に吸い込まれた間抜けさに恥ずかしくなる。そんな気持ちをごまかすため、キロヒがきょろきょろと周囲を見回すと、そこは木々が生い茂る森だった。あの柱の中で見た山の麓のような景色だ。さっきまでいた町の側の山と明らかに違うと分かるのは、木々が紅葉も落葉もしていないからだ。
すぐ近くには、きつね色の髪の少年が立ったまま周囲を見回している。肩には鞍袋ひとつ。
彼の向こうに、キロヒを罵倒した少女もいる。こちらは麻袋一つだ。不快そうにこの環境に舌打ちしているその姿に、絶対に目を合わせたり近づいてはいけないとキロヒは心に決めた。
相手も同じように思っているのか、少年にもキロヒにも視線ひとつ向けることなく、一人でさっさと山の方に昇り始めた。
少年は周囲を慎重に見回しながら、黙ったまま何かを考え込んでいる。そして少年は、森を下り始めた。野原や岩石の方に。
突然まったく逆方向に分かれた二人に置いていかれ、結局またキロヒは一人になった。
知らない人がいたらいたで不安なのだが、誰もいないならいないなりの不安が押し寄せてくる。こんな謎の場所に一人で一体どうすればいいのかと、キロヒは立ちすくんだ。
そもそも、ここはどこなのか。本当にあの光の柱の中なのか。
キロヒは客観的に、他の子どもたちが柱に吸い込まれるように消えていくのを目撃していた。だからこそ、そう推測することができるのだが、彼女のこれまでの十年間という短い人生で、同じものを見たことがない。だから「分からない」を前提に、そうではないかと推測するしかできなかった。
ただ、いつまでもこんな森の中に一人でいるわけにはいかない。上か下か、どちらに向かうかキロヒは一人で考えなければならなかった。
「ぴゅる~」
いや、一人ではない。コートの襟の中から抜け出したクルリがいたからだ。ふわふわと、キロヒの前に浮いている。
毛糸のようなくるくるの髪。どんぐりの目。身体を覆っているのは枯葉を集めたドレス。ドレスの中の両足はない。それがクルリの全貌。
クルリは、正確には人形ではなく──精霊だ。祖母の家の裏庭で出会った、キロヒの古い友達でもある。
普段は外に出たがらず、キロヒの服の中に隠れていることが多い。そんなクルリが、自分から飛び出してきた。
「クルリ、出て来て大丈夫なの?」
「ぴゅーっ」
枯葉のドレスをひらめかせながら、クルリは一回転。とても上機嫌に見える。そして、あっちあっちと森の奥を指す。登るのでもなく、下るのでもない。横に行けとその小さな手で指すのだ。あの二人のどちらとも違う方向。
「こっち、に行けばいいの?」
「ぴゅうい~」
ふわふわと回りながら踊るように、クルリが先を飛んでいく。慌ててトランクを抱え直してキロヒは後を追う。トランクがひどく軽い。中身が入っていないかのような不安を覚えるほど。いや、身体そのものが軽いとキロヒは強く感じた。さっき転んでほとんど痛くなかったのも、この軽さのおかげなのだろう。
キロヒは自分がウサギにでもなった気持ちだった。一歩一歩跳ねるように身体が楽に進んでいく。驚きと同じくらいあふれ出てくる高揚感。不思議な気持ちでいっぱいだが、クルリという友達が先導してくれるおかげで、彼女はただ追いかけるだけ、という単純作業に集中することができた。
「ぴゅるぅ?」
そんなクルリが空中で止まる。首を傾げて向こうを見ているので、同じようにキロヒも覗き込む。
「ぶもっ……」
かなり通り木々の向こうに、鼻息の荒い猪が見える。ひっと出そうになる悲鳴を、キロヒは飲み込んだ。
「ぴゅう……」
青ざめたキロヒを見て、クルリはしょんぼりした。次は少し方向を変えて飛び始めたので、キロヒはほっとする。猪の方ではなかったからだ。
「ぴゅる?」
また止まり、向こうを見ている。立派な角の牡鹿がいた。猪よりは怖くはないが、あの角で突かれたらただではすまないだろう。キロヒはコートの襟に首を引っ込めて小さくなった。
「ぴゅう……」
彼女の様子にクルリはまたもしょんぼりした。今度は少し下り気味に方向転換をして飛び始める。
「ぴゅう! ぴゅう!」
次に止まった時には、クルリは空中で上下にぴょんぴょんと跳ねた。その手で指す先にあるのは、木の根元の大きな花。一輪の青い竜胆。背丈はキロヒの半分くらいだが、花の大きさは彼女の顔と同じくらいある。
クルリはまるで「これなら怖くない」とでも言わんばかりに、キロヒに勧めているように感じた。しかし、この大きな一輪の竜胆の花が一体何だというのだろうか。キロヒは首を傾げながらも、クルリに誘われて足を踏み出す。
大きいなあ、と彼女は身を屈めるようにしてその花を覗き込んだ。
「え?」
驚きの声は短く。
キロヒが覗き込むのと同じように、花もまたキロヒにその身を伸ばし──十歳の少女を頭から花の中に飲み込んだのである。
一面の青。暗い青。心臓が止まりそうになるくらい驚きながら、悲鳴もあげられないまま──キロヒは花の中に飲み込まれたのだった。




