15・キロヒ、両耳をふさぐ
「サーポク、ザブンをこの箱の上に乗せてくれないか?」
「よかとよー」
この白い箱に精霊を乗せると色や景色が変わるということは、ここまでのことでサーポクも理解しているようで、すんなりとその大きな精霊を箱の上に乗せた。
行動はすんなりとだが、乗せる位置に気遣いはない。あきらかに中央からズレた、偏り気味な位置に、キロヒはどきっとした。普通の荷物であれば、絶対に箱から大きくはみ出した方に倒れるだろう位置。
しかし、ザブンは一切揺らがない。精霊は人や物と同じ法則で存在しない、という証拠のような光景。
箱の上に大きなザブンが傘のように周囲に貼り出しているため、箱をきちんと見るためにはその下から覗き込まなければならない。ザブンの陰になっているが、箱は薄い赤に見えた。
キロヒの面は海中だった。海上から降り注いでいる太陽に照らされた、青く美しい世界。ザブンが背負っている甲羅の中の光景のようだ。箱は赤いのに、一面の青い水中はそれに邪魔されていない。二層の色の不思議な光景。
サーポク側は、波打ち際と白く広い砂浜。サーポクはそれを、口を大きく開いて見つめている。
「島とよー」
いまにも箱に抱き着きそうに両手を伸ばすので、慌ててキロヒは止めようとした。が、サーポクの勢いに、彼女が間に合うことはない。島の少女は勢い余って、張り出したザブンの頭と衝突した。
「わあ」
何とも気の抜ける驚きの声を上げるが、その声に痛みは感じられない。逆に「ごめんとよ」と、ぶつかったザブンの頭を撫でている。
そして今度は、ザブンの下に頭を突っ込むようにして砂浜の光景を、にこにこと眺め始めた。
ニヂロ側の景色は嵐の海。暗雲から降り注ぐ雨と暴風。暗雲は何度も光り、それが雷であることを教える。
イミルルセ側は海底。「これは何かしら」とイミルルセが言うので、キロヒは見に行った。
海の底に、更に深く暗い亀裂らしきものが見えた。
「うーん、海溝と言われている場所かもしれないね。海溝っていうのは、地面が割れたように、海の底が極端に深くなっているところ、と言えばいいかな」
イシグルのおかげで、キロヒは新しい言葉をひとつ覚えた。彼女にとっての海とは、港や船の上など海の外から見る景色だけである。
「ある程度、予想はしてたけど……暑さに強く、海や雨だけじゃなく強い風や雷、地面の要素もあるのか」
四方の景色を見て、イシグルは独り言のようにそう呟いた。サーポクや他の三人に語って聞かせるのではなく、自分の思考をまとめているような表情。
そして、いまだ砂浜を眺め続けているサーポクに視線を向ける。
「戦いにもとても向いているし、干ばつや大雨対策にも向いてる。船乗りにとってもこれ以上ない強い味方になる……卒業後は引く手あまただろうね。本人が望むかどうかは別として、だけど」
多くの人から求められる才能や力を持っていたとしても、必ずしも本人にとってそれが幸せかどうかは分からない。
サーポクの純朴なままでいられる残り時間が、一気に減っていくようにキロヒにも感じられた。
「おい、シグ先輩とやら……」
「何かな?」
そんな同情めいた空気を叩き壊すように、ニヂロがつっかかっていく。
「こいつとあの教師、どっちが強い?」
「比較はしづらいね。ザブンは、強さの幅が広い多才型。ラエギー先生は、ニヂロのような特化型。だから君の説明の時に名前を出したんだよ……ただ」
意味深な言葉の切り方に、三人の視線がイシグルに集中する。
「ただ……圧倒的な力の差がない限り、肝が据わった頭のいい方が強いよ」
イシグルは一般論を口にしているように見せかけて、サーポクの欠点を鋭く突いた。一緒にキロヒも突かれた。
勉強だけなら何とかなるかもしれないが、彼女にとって一番問題なのが「肝が据わった」部分だったからだ。
「さて、と」
上級生らしい含蓄ある言葉に三人が考え込んだところで、イシグルは指輪から白雲と黒雲を出して、さらさらとここで得た情報を書き記していく。彼女の報告はラエギーに行き、場合によっては更に別のところにも渡されるだろう。特にサーポクの情報は、学園内だけでとどまるとは思えない。
「次に君たちがこれを使うのは、上霊した時か卒業の少し前になるね。上霊したら、ちゃんとラエギー先生に報告するんだよ」
「シグせんぱいー」
「何だい?」
難しい話の時はまったく参加をしてこないサーポクが、珍しく口を挟んできた。
「これ、欲しかとよー。ビニニを五までならあげるとよ?」
サーポクの両手が、白い箱にかかっている。ザブンを乗せれば、いつでも島の風景が見られる素敵な箱。彼女はとても気に入ったのだろう。
「これ、ボクのじゃないから無理だよ」
「誰に言えばよかと?」
当然断られる。しかし、それでも食いついていくサーポクに、イシグルは少し長く考え込んでこう言った。
「……ラエギー先生かな」
その瞬間、キロヒは驚いてイシグルを見たし、イミルルセも同じ動きをした。そんなことを言ったら、サーポクがどうなるか分かっていないのか、と。
「あの赤い髪のねーちゃんに言えばよかとね!」
サーポクは勢いよく立ち上がる。その力に負けて、ガタンと後ろに椅子が倒れた。気にせず、サーポクは白い箱の上のザブンを抱えて部屋を飛び出そうとする。
「サーポク、お待ちな……」
最初に止めようとしたのは、イミルルセだ。しかし、その言葉は止まった。何かに気づいて考え込み始める。
イミルルセまで妙なことになってしまい、止められるのはキロヒだけになった。
「サーポク、ど、どこに行けばいいか分かりますか?」
慌ててそう言うと、島の少女はザブンを抱えて歩き出そうとした足を、その場の足踏みに変えた。
「分からんとよー」
振り返って助けを求める深い海の色の瞳。
「シグ先輩……言葉の責任を持って一緒に参りましょう?」
考え事から戻ってきたイミルルセは、長いまつげの間から指導担当を見上げて、深い意味を感じさせる声でそう言った。サーポクを煽った張本人を逃がさない気だ。
「いいよ。どうせ霊量器も返さないといけないし」
それにイシグルは肩を竦めながら同意して、白い箱を持ち上げる。今更ながらに、箱の正式名称が口にされた。
イミルルセが立ち上がったのにつられて、キロヒも立ち上がる。黙ってついていったとしても、イミルルセたちが拒むことはないだろうという予測によるものだったが。
本音としては、イシグルの意図が知りたいということと、この部屋にニヂロと二人で残されるのが嫌だったからだ。
「アタシは行かねーぜ。図書室の許可もくれねーようなケチの顔を、一日で何度も拝むなんてまっぴら御免だ」
案の定、ニヂロは行儀悪くテーブルに肘をついて、そこに顎を乗せながら部屋に残ると主張した。
一人を残し、代わりにイシグルを加えた四人で階段を下りながら、キロヒはこの結末がどこに向かうのか、まだうまく予測できていなかった。
現時点の彼女は、サーポクの願いは無謀だと思っていた。あの白い箱こと霊量器は、おそらくとても高価なものだと予想したからだ。
ただこんな無謀な希望に対し、ラエギーがどんな反応をするのかはとても気になった。
そして。
結論だけ言えば、白い箱は──サーポクに卒業まで貸し出されることになった。
「何でだよ! ふっざけんなよ!」
ウキウキと白い箱を持ち帰ったサーポクに、ニヂロが絶叫したのは言うまでもなかった。




