114.キロヒ、そっとしておく
ユミと謎精霊に挟まれたキロヒは、虚無の顔のまま何とか神殿の近くまでたどりついた。
周囲には子どもの姿がぐんと増える。その子供たちが向かっていくのが、神殿の横の広場。霊山もよく見える場所に、霊山の方を向いて背もたれのない低い椅子が並べられている。まさかの青空教室だ。さすがに天気の悪い日は、屋内になるのだろうが。
天気のいい秋の日。少しの肌寒さは感じるものの、子どもたちは席に上着を置いて場所を取るや、知り合いの子どもたちと駆け回って遊び始める。長めの木の枝を見つけて席に戻ってくる女の子を横目に、男の子は木の枝を剣に見立てて遊び始める。
「あの木の枝は、文字の練習用です」
キロヒが不思議そうに子どもたちを眺めているのを見て、ユミが説明を始める。どんな生まれの子でも、木の枝と土は平等に使うことができる。
平等に明るい光を浴び、風を感じ、土と触れ合う。霊山のお膝元の神殿らしい、精霊の恩恵を全身で感じられる環境での勉強だ。
見ていると、年長らしい三人に少年少女が椅子を動かし始める。より山の方に近づけ、互いの距離を開けて椅子を置き直す。
「あの子たちは何ですか?」
「あれは……次の学園の推薦最終候補者です。今月、決定されます」
ユミは複雑な表情を抑えきれないまま、キロヒに説明する。あの中で競いたかっただろうし、もし彼が中級精霊の友人であれば、間違いなく学園に推薦されていたと自負もあったのだろう。
三人の少年少女は、自分の前に広がる地面に木の枝で文字を書き始める。遊んでいる他の子どもたちは、慌てて彼らの側から離れて行った。彼らにちょっかいを出してはいけないと、常日頃から強く言われているのだろう。ふざけていた男の子も、三人に気づいた途端に急角度で曲がって去って行った。
何を書いているのかを見ようと首を伸ばしてみたが、距離と角度でよく見えない。小さな文字を、みっちり書いていることだけは分かる。
「暗記した物語などの文章を書き出しています。授業の終わりに一枚の紙で渡されるので、六日の間にそれを覚えて、ここでは何も見ずに書きます」
読む、覚える、書く。
六日おきという授業のない時間を、うまく使っている。シテカもきっと、家の仕事をしながらも暗記を頑張っていたのだろう。
「……私の方が上でしたよ」
シテカのことを考えていたことに気づかれたのか。ぼそりと従者がそう言った。勉強に関しては自信家であることを、隠す気はないらしい。苦笑いを浮かべるしかできない。
キロヒは、町の子である。神殿に勉強には通っていたものの、周囲に精霊の友人はそれほど多くなく、中級ともなるとキロヒ一人だった。勉強もできたので、誰とも競うことなく推薦が決まった。それこそ、入学年の春には決まっていたくらいだ。候補者が多い地域では、こんな風に入学ギリギリまで競っていることさえ知らなかった。
もし誰かと競わなければならなかったとしたならば、キロヒは入学していなかったかもしれない。強く精霊士になりたいと、願ったことがなかったのだから。
地域による競争率の差を、キロヒは初めて他の場所を見ることで知ることができた。あの三人は真剣極まりなく、ひりひりとした緊張感がキロヒにまで伝わってくる。
そこまで考えて、キロヒははっとした。
彼女は神殿の授業そのものを見学に来たのではなかった、と。ここにいる少年少女の中で、まだ精霊の友人を持たない子の中に、謎精霊の気に入った子がいないか見に来たのだ。
「精霊の友人ではない子は分かりますか?」
キロヒは小声で、ユミとは違う方向に向かって語りかけた。あきらめていないユミに、あまり堂々と聞かせたくはない話だからだ。
"分かるわ。精霊に愛されそうな子ばかりよ"
キロヒの気遣いを、謎精霊は綺麗に無視した。彼女の隣には、精霊に愛されなかった少年がいるというのに。キロヒはユミの方を見られないまま、視線を子どもたちへと彷徨わせた。
「気に入った子は?」
"そうね……"
ふわりと、秋の風が動いた。キロヒの知っている風だ。姿を消しているクルリが吹かせたものだとすぐに分かった。
風は地面に落ちていた落ち葉を一枚巻き上げて、くるりくるりと宙を躍らせる。女の子がそれを目で追った。男の子が手を伸ばした指先を、それはかわした。
落ち葉は、ちょうど広場の方に向かって歩いてきた小さな女の子の、絡まった麦わら色のくせっ毛に引っ掛かった。本人は、落ち葉に気づいていない。
"相性が良さそうなのはあの子、かしら"
多く見積もっても五歳くらいだ。学園に入るのは五年後。謎精霊があの子に決めるというのなら、それまでキーに面倒を見てもらわないとならないだろう。
「……私も、相性が良いと思うのですが」
隣から呪わしい声が聞こえてくる。暗く淀みかけた、怨念さえ感じさせる執着心。
"あの子に、もし精霊と友達になったら何をしてあげたいか、聞いてみてごらんなさい"
謎精霊の言葉に、ユミは迷わず足を踏み出した。
突然近づいてくる年上の少年に、女の子は驚いて後ずさった。慌ててユミが膝を曲げて、自分は怖くないという意思を伝えようとしている。
ユミは語り掛け、女の子は首を傾げながら何かを答えた。
そして。
ユミの──両肩ががっくりと落ちた。
戻って来たユミは、
「『ずっと仲良くしたい』、だそうです……」
それだけ言って、うなだれてしまった。そういう考えは、彼には全くなかったのだろう。
キロヒは、そっとしておくことにした。




