10・キロヒ、授業の謎を解く
キロヒがした「故郷の島を助けるにはサーポクの勉強が必要」作戦は、良くも悪くも功を奏した。
のんびり奔放な性質のサーポクが、必要ないと思っていた勉強にちゃんと向き合うようになったからだ。これは計算だけではなく、イミルルセが教える文字の方でも覿面だった。
イミルルセはキロヒの話をうまく使って、文字と言う記録を残すことの意味を説明した。契約書というものを簡単にかみ砕いて説明し、「言った、言わない」という不毛な論争を生まなくすることができるということも。
ちなみに、最初にサーポクが覚えた三つの文字は「サーポク」「ザブン」「ビニニ」である。黒雲のペンで練習しては消し、練習しては消し、としている間に、白雲と黒雲の使い方も上手になってきた。上手に出来たと褒められると、サーポクは嬉しそうに「ザブン」の文字を、自分の精霊に見せていた。
イミルルセは教師と交渉し、一年生には一月から許可される予定の図書室への入室権利を勝ち取った。おそらく理論武装の盾で教師と戦ってきたのだろう。その行動力と交渉力は、キロヒも心から感心するところだった。
「……そこで漁師は、綺麗な虹色の魚を網から逃がしてやりました。虹色の魚はすぐに海へと戻っていきました」
「ルル、虹色って何色?」
「サーポクは雨の後の空に、こういう、いっぱいの色が浮かぶのを見たことがなくて?」
「それ知っとるとよー!」
「それが虹ですわ。虹色はその色をまとめて呼ぶ時の名前でしてよ。」
イミルルセは親が子供にするように、低学年向けの簡単で面白そうな本を、文字を指でたどりながら声に出して読む。彼女は絵もうまく、時にはその情景を白雲に描いて見せサーポクを喜ばせた。
サーポクはすっかりイミルルセに懐いた。彼女はサーポクが楽しみながら文字に興味を持つように上手に誘導できている。その献身が、サーポクに伝わっているのだろう。
一方のキロヒと言えば、少しばかりサーポクに距離を取られてしまった。屋根裏部屋で「六事件」と名付けられたそれは、島の少女の心にこれまでにない傷を与えてしまったようだ。
「ニヂロ、三を二つって何?」
「いまのお前には無理。五の次は何だ」
「ろくー!」
その数字を、親の仇のように覚えたサーポクが答える。
「じゃあ六の次」
「えっと、六と一……あいたっ」
「七だ。のろまブスに七も教えてもらうか?」
「それはイヤとよ。なな! なな! 六の次は七!」
そんな二人のやりとりを聞いて、キロヒは小さく落ち込んだ。数字を覚える大事さを、分かりやすい形で伝えようとしただけなのに、と。
「サーポク、虹の色の数が七でしてよ」
計算の勉強の最中に、珍しくイミルルセが口を挟んだ。
「虹! 覚えとるとよ。空のいっぱいの色」
「そのいっぱいの色の数が七」
「怖か六の次は虹ー。ななー。いっぱいの虹は七ー、覚えたとよー」
サーポクの六の傷が癒えるまで、まだまだかかりそうだった。
「君たちの精霊を上霊させ、上級精霊にする必要がある大きな理由は三つある」
基礎授業の大きな柱のひとつは、精霊に関する知識。
学園に入園するまで、キロヒの精霊の知識は漠然としたものだった。赤毛の教師は、それにくっきりとした輪郭と濃い中身を与えてくれる。
「一つ目は、当然精霊そのものの力が上がり、魔物に対して対抗、殲滅するための直接的な攻撃力となる」
国にとって魔物は排除対象。そのための精霊士、そのためのこの学園である。
キロヒの隣では、数字を少し覚えたサーポクが、人差し指を一本立てて教師の「一」という数字を拾って笑顔になっている。理解できることが楽しいのだろう。サーポクのそういう素直な前向きさは、学習に向いているとキロヒは感じていた。
「二つ目は、産業や災害への支援力の強化だ。干ばつ、水害、熱波、寒波などの被害をできるだけ抑え、国民生活を守る。例を挙げれば干ばつの場合、水が得意な上級精霊は局地的に雨を降らせることができる」
ラエギーの説明に、キロヒは昨日の雷雲を思い出して、隣のサーポクに背負われているザブンを見てしまった。背負うというのは、昨日までの椅子との間に挟まっていることではなく、文字通りだ。毎回ザブンを抱えたり下ろしたりするサーポクを見て、イミルルセが提供した紐を結んで背負わせたのである。
背負われたザブンは彼女の方を見返さない。何を見ているか分からないまま、サーポクの背中にいる。
イミルルセもニヂロもちらりとザブンを見ていた。サーポクだけが、指を二本立ててにこにこしているのだが。
「三つ目……上級精霊は周辺にいる大半の中級精霊と、全ての初級、無級精霊の支援を受けられるようになる。それにより上級精霊単体より、遥かに強い力と周囲への影響力を持つことが可能だ。戦闘であっても支援であっても、だ」
屋根裏部屋のスミウたちの心など知る由もないラエギーは説明の続け、サーポクの指が三本立つと同時に、衝撃的な発言をした。
キロヒは驚いたし、教室のあちらこちらで妙な音が立った。少し前の生徒は自分の膝を痛そうにさすっている。驚いて机にでもぶつけたのだろう。
「いいか、よく、聞け」
生徒の驚きさえも、ラエギーは殊更ゆっくりと言葉に力を込めて発する圧で吞み込んでいく。
「精霊とは、二階級下の精霊を無条件で従わせることができる。二階級の差があれば、下の精霊は上の精霊に絶対に逆らえない。たとえ君たちの友人であっても。当然、君たちも精霊を通じてその影響を強く受ける。これは絶対だ」
いままさに、生徒のほとんどがラエギーに逆らえない気持ちになっている。
キロヒは、ようやくその本当の意味に気付いた。
十歳程度の子供たちが授業に際し、ほぼ全員がこんなに静かに真面目に勉強するなど、普通は不可能なのだ、と。年相応に集中力があったりなかったりするものだし、ふざけたい年頃でもある。
けれど、ラエギーは生徒をほぼ完ぺきに掌握しているように見えた。
それは彼女が──特級以上の精霊の友人だからに違いない。幻級精霊の友人は四人で、内三人は高齢ということを考えると、残り一人がラエギーである可能性はない、わけではないが、高いわけでもない。だからラエギーは特級精霊の友人、と仮定することにした。
入学したての生徒は、一部を除いてすべてが中級精霊の友人。二階級上の特級精霊の友人であるラエギーは、精霊を通じてこの教室を支配している。
クルリはラエギーの精霊に逆らえず、友人というつながりを通じて共感のような形で、逆らわないようにキロヒにも意思を伝えているのだろう。
これにはキロヒの反対隣に座っているニヂロが、とんでもなく苦々しい表情を浮かべて、歯ぎしりさえしていた。自分が知らない間に、ラエギーに操られていたことに気づき、悔しがっているのだろう。
さっきから「二」階級という数字を使ったラエギーに、指二本立てて喜んでいるサーポクは、その縛りの中にいない。教師とサーポクの間に階級の差はない。ザブンは特級精霊。精霊の圧で言うことをきかせることはできないからだ。
これまでのサーポクの授業態度を思い出し、キロヒは強く納得した。この教室の「ほぼ全員」と表現せざるを得なかったのは、特級精霊の友人がキロヒの真横にいたからである。
そこでやっと、ラエギーは圧を緩めた。多くの生徒が、はぁと深い息を吐く。
「階級差が一つの場合は、相性によって従わせられないことがある。特に精霊と友人である場合は、人間が協力的でなければかなり難しい。ただ、協力する意思さえあれば、同級であっても自身の精霊を委ねられる。これは覚えておけ。苦手分野の仕事をしなければならない時は、得意分野の人間に自分の精霊を委ねる方が良いこともある、と」
またしても出てくる「協力」という言葉。スミウとイヌカナという小さな単位から始まる協力練習の先にあるものは、自身の精霊すら協力者に委ねる可能性だった。
だが、そこにまだ自分の判断が残されていることは救いだ。強制従属とは違う。それに抗いたければ、できるだけ早く上級精霊に上霊させるしか方法はない。そうすれば、階級差が一の特級精霊に圧で従わされることはないのだから。
安心材料というには心もとないが、キロヒは未来の自分とクルリに上霊を託すことにした。
ただ、ニヂロは歯ぎしりを止めないまま教師を睨みつけた後、キロヒを飛び越してサーポクさえも睨んだ。ザブンも。
サーポクとザブンがその気になれば、ニヂロには抵抗できない。屋根裏部屋の力関係など、簡単にひっくり返されてしまうのだ。
その事実に打ちのめされ、しかし屈したくないという気持ちが表情に表れている。
誰よりも早く上霊しなければならない──ニヂロは、そう思っているに違いなかった。




