少女と雨と紙袋
「お待たせしました……」
ドアは不意に開いた。
ゴウゴウと音を立てて降りしきる雨の中、久山御雪は初めて春原舞冬の姿を見た。
今年高校に入学した久山御雪のクラスには、もう6月になろうというのに入学以来一度も登校していない生徒が居る。
所謂、「不登校」なるものだが、御雪にとってはクラスメイトが1人居ようが居まいが、特に興味は湧かなかった。
それゆえに、4月の半ばに差し掛かった頃、担任から告げられた「今後、春原の家に配布物を届けてもらえないか」という依頼は御雪にとってまさに藪から棒だった。
確かに、舞冬の居ない間のプリント類は教室の机に詰めこまれて溢れんばかりの状態となっている。
「何故俺なんですか」という問いは「お前の家から二つ通りを挟んだところだ」と言う担任の言葉に遮られた。
こうして、週に2回、帰宅途中で春原宅に寄って帰るという習慣が開始された。もっとも、寄ると言っても玄関から離れた郵便受けにのみであるが。
だから、その日まで春原宅のインターホンを鳴らすことなど考えもしなかった。
考えてみればそれは必然である。
入学以来、偶然にも今日まで強い雨が降ることはなかったし、そんな日にたまたま重要なプリントを任されたのだから。
降りしきる雨の中、わざわざ郵便受けを確認しに出るのは億劫だろうし、玄関前に置こうにも担任から重要と言われて預かってきた手前、何の連絡も無しに放置することはできない。
直接手渡しするしかないだろう。
顔も知らない他人の家のインターホンを押すのに躊躇いがないわけないが、押さなければ帰ることは出来ない。結局、他に打つ手はないと判断して御雪はインターホンを押した。
「どちら様ですか……?」
ほどなくして声が返ってきた。
消え入りそうな小声だが、どこかこちらを警戒してるように聞こえる。
知らない男が大雨の中突然訪問してきたのだ、当然の反応だろう。
「同じ高校の久山です。学校で配布されたプリントを届けに来ました」
なるべく警戒されないように、事前に考えておいた文言を告げる。簡潔に、自分の立場と用件のみを伝える。
正直なところ、人付き合いが苦手な御雪としてはとっとと済ませて帰りたいところだ。
しかし、数分経ってもインターホンからの返答もなければドアが開く気配も感じられなかった。
普通なら「今行きます」だの、それがなくてもこれだけ時間が経てば玄関に顔を出すはずである。
一度は応答があった以上、留守の可能性は消えた。
そうなると、自分が高校の人間だと知った上で避けられてる可能性が高い。
「不登校ということは学校に行きづらい事情があって、そんな人の家にバリバリ関係者である自分が訪問するのはいかがなものか」という懸念がなかったわけではないが、ここまで露骨な無視を食らうとどうしても無力感を感じざるを得ない。
インターホンを押してすでに数分、返事の気配もない辺り多分この先もドアは開かないだろう。
そう考えて踵を返そうとした瞬間、ドアはゆっくりと開いた。
不意に開いたドアに驚く御雪の前に現れたのは、上下寝巻き、その上にエプロンを付けた小柄な少女だった。
少女の肌は極めて白く、背中の中ほどまで伸びた色素の薄い髪は、クセも枝毛もなく綺麗な流線を描いている。
特に女子と関わり合うことのない生活を送ってきた御雪から見ても、少女の容姿は「美人」「かわいい」のどちらにも当てはまるように見えた。
こちらをジッと見つめてくる瞳に思わず思考停止してしまっていたが、少女の「お待たせしました」という声に意識を引き戻された。
初対面の相手に完全に見惚れていたことに呆れつつ、「コレ春原さんのプリントです」と紙袋を差し出す。
少女の視線が途切れ、透き通るような瞳を直視せずよくなったことに安堵する。
しかしそれも束の間、視線は再び御雪の顔に戻り、そのまま紙袋との間を往復しだした。
警戒されてるのだろう。
見ず知らずの他人が、普段は郵便受けに入れられてる荷物を持って突然インターホンを押して来たのだから。彼女視点で考えれば普段郵便ポストに入れる様子を不審者が見ていて、それを利用して今に至るという可能性も無くはない。
しかし、少女の顔を伺えば想像したほど重大な疑問を抱いてるわけではないようだった。
「ありがとうございます。いつもポストだから、ちょっと驚いちゃって……。いつもあなたが持って来てくれてるんですか?」
優しく、穏やかな口調で発せられた少女の声は、インターホン越しに感じたようにどこか儚げで、降りしきる雨音にかき消されそうだった。それなのに、耳は何故か彼女の声を確実に拾い集める。
今までにない感覚にたじろぎ、「そうです」と、短く答えれば、少女はまた穏やかな声を続ける。
「……敬語じゃなくてもいいですよ?初めまして、春原舞冬と申します。いつもありがとうございます」
腰を折る丁寧な礼をされ、慌てて「こちらこそ初めまして」と返す。
だが、内心はそんなことより今目の前にいるのが舞冬本人であるということに対する驚きの方が大きかった。
考えてみれば、舞冬が不登校だから自分がプリントを届けてるのであって、自分が家を訪ねれば舞冬が居ることは至極当然のことだ。
だが、それを前提にしても目の前に現れた少女が舞冬本人だという思考に至らなかったのは、彼女の背丈では高校生には見えなかったからだ。女子の平均身長などはよく知らないが、舞冬の身長は学校の女子全員と比べてもおそらくトップクラスに低いであろうということはわかる。
それゆえ驚きながらも、言われて見てみれば確かに顔立ちからは幼さが抜けつつあり、高校生、というか大人っぽさすら感じた。
特段異性に興味のない御雪だが、それでも「コレはモテるだろうな」という感想を抱かざるをえなかった。
それほどまでに春原舞冬は儚げで、可憐で、美しく見えた。
だが、御雪にしてみればそれ以上でもそれ以下でもない。
普段、連絡事項以外で女性と接することなどない御雪にとって、「カワイイ」という感情はあれど、それに恋愛的な意図が含まれることはまず考えられなかった。
かわいい犬か猫でも見たような得した気分になりつつ、用件は済んだので「それじゃ」と言って踵を返す。
これ以上長居する理由もないし、恩着せがましいのは相手の弱みに漬け込むようで胸が痛む。
さっさと帰ろう、と傘を広げて玄関の軒から踏み出そうとした時、不意にブレザーの右肘を引っ張られる感覚がした。
状況的に舞冬から引っ張られてるのは明らかだが、引き留められることなど微塵も想定してなかった手前、かなり驚く。
ゆっくり振り返ると、舞冬が少し真剣な面持ちで御雪の顔を見上げていた。
「あの、コレ、いつものお礼と言ってはなんですが……」
おずおずと小さな紙袋が差し出される。
受け取ってみると、ほのかに温かい。
おおよそ中身の想像は付いたが、御雪が背中を見せてから呼び止められるまでの間に紙袋を取りに行く時間は無かったはずだ。
「もしかして、インターホン押してから出てくるのが遅かったのって……」
責めてるように聞こえないよう、なるべく穏やかな口調で尋ねる。
「あっ、はい、そうです。袋詰めるのに手間取っちゃって。ごめんなさい、お待たせして」
申し訳なさそうな舞冬の声に、何故かこっちが申し訳ない気分になる。
なかなか出てこないことに勝手に落ち込んだりしていた辺り、気にしてないと言えば嘘になるが、そういう事情ならむしろありがたかった。
「ありがとう。後でいただきます」
思わぬ報酬に少し頬が緩むが、しっかり礼を述べて紙袋をカバンにしまいつつ、今度こそ傘を広げる。
「それじゃ、さよなら」
本日二度目となる別れの言葉を告げて、雨の中に足を踏み出す。
後ろから「また今度」と聞こえた気もするが、雨の音は次第に大きくなり、よく耳に残るその声も掻き消されていった。
雨は強いが、いつもと変わらない日常。
その「いつも」が過去ではなく未来についてのことだとはまだ誰も知らない。




