重箱
翌朝、倒れた私を心配した妻からいつもより大きな弁当を渡された。いや、いつもより大きなという表現は正しいが正確ではない。今までは巾着袋に納まった黒板消し2つ分程の小ぶりな弁当だったが、今朝渡されたものはそもそも巾着袋に納まる規模を超越しており、風呂敷に包まれたそのサイズ感は最早ランドセルの如しである。
「こうなったらじゃんじゃん食べてもらうしかないじゃない!今日からお弁当は重箱だからね!」
「重箱!?」
ランドセルは少々過言であるかと思われたがそんな事はなく、むしろ的を射ていた事に動揺を隠しきれなかった。
たとえ妻の手料理は無限に食べられる私だとしても、重箱を持って出勤するのは些か抵抗があった。しかしお願いだから沢山食べて、と潤んだ瞳で見上げてくる妻の反則的な麗しさに抵抗する術など持ち合わせていなかった為、風呂敷に包まれた重箱を引っ提げて花見に向かうサラリーマンさながらに出勤する事を受け入れざるを得なかったのだ。
朝から心拍数を跳ね上げられる出来事に直面し多少取り乱しもしたが、優秀な社会人である私は昨日繁忙期に倒れた上に図らずしも早退までしてしまったお詫びとして、最寄り駅で簡単な菓子折りを購入してから出勤した。この辺りの殊勝な行いが出来るのが私なのだ。その上畳み掛けるように渾身の神妙な面持ちで出社すればまず怒られることはないだろう。
「昨日はご迷惑をおかけしました!」
部屋へ入るやいなや謝罪の先制攻撃、からの手土産に室内は一瞬シンと静まり返ったが、先輩後輩同期達、果ては普段会話をする機会の無い女子社員までもが労いの言葉をかけてくれた。やはり菓子折りを持ってきて正解であった、小さなバウムクーヘンを4等分してそれぞれを個包装にしたお菓子の力にたまげつつ、自分の菓子折り選択センスに脱帽するのだった。
先輩方からの無理はするなよという温かい言葉を胸に業務に励むのだが、そこで違和感を覚えた。こんな時いつもなら率先して話しかけてくるイヤミ係長が今日は珍しくデスクで考え込んでいるではないか。やはり昨日倒れたにも関わらず始業ギリギリに出社したのが不味かったのだろうか、しかし自ら地雷を踏むような真似は決してしない、謝罪なら入室時に済ませたのだ、ここは触らぬ神に祟りなしの精神で仕事に集中するのが賢い選択だろう。
始業のチャイムが鳴ってからは係長の事など気にする余裕もなく、半日分遅れている作業をこなすのに精一杯で、書類とパソコンから目を離すことができたのは昼休憩を告げるチャイムが鳴ってからであった。
重箱を抱えながら廊下を歩くのは中々ハイレベルで、すれ違う社員からの不思議なものを見るような視線が地味にダメージを与えてきた。変に急いでも逆に注目を浴びかねないため、ここは威風堂々と歩みを進めるしかないのである。
さて、なんとかたどり着いたいつもの会議室で、文字通り重箱の隅をつついていると、これまたいつも通り新居屋部長が入室してきた。
「やぁ、聞いたよ。昨日は大変だったね。もう体の具合は良いのかい?」
その顔からは心配の色などまるで伺えなかったが、最近はこの作り物のように変化の無い表情にも慣れてしまった。
「えぇ、なんとか。ご迷惑をおかけしました」
「特別私が迷惑を被る訳ではないからね、気にしなくても良いよ。しかし今日はいつもよりも食の進みが遅いようだ、まだ体調は万全とは言い難いようだね」
「最近は味噌汁一杯で満腹になるんですがね、妻が張り切って重箱を用意したものですから、中々箸が進まなくて…」
「重箱とは気合十分だね、では残りはすべて私が頂くとしようかな?」
「構いませんよ、好きなだけ食べて下さい」
「…キミは痩せれば痩せるほどどんどん気前が良くなるね」
「他人の脂肪を煩悩のように言わないで頂きたい!」
楽しい昼食を終え部署に戻ると、まだ休憩時間は残っているというのに業務に勤しむ同僚がチラホラと見受けられた。私も遅れを取り戻すべく、それに倣って仕事に取り掛かろうとしたとき、係長から声をかけられた。
「ポンタ君、今日飲みに行かないかい?」
「熊野美係長、魅力的なお誘いですがまだ業務が山積みなんです。今回は御一緒できません」
「そこは僕がなんとかするよー。スケジュール調整も僕の仕事だからねー」
「毎年納期ギリギリではないですか」
「今年は部長が代わったからねー、彼女が優秀過ぎて割と余裕があるんだよね」
「部長に皺寄せが行ってるって事ですか?」
「いやいやー、そうじゃなくてね、前の部長さんが割とマイペースだっただけだよー。提出した書類に中々目を通してくれなかったり、見たとしてもギリギリまでレスポンスくれなかったりね」
何やら私の知らない事情が上司間で行われていたのだろう、当時を振り返る係長の顔はいつものビリケン様顔とは違い、なんだか悲しそうな、叱られた犬の様な表情で天井を見つめていた。
「それに、今日飲みに行くなら僕が全部奢っちゃう「行きます!」
「食い気味に返事しちゃうぐらい乗り気で嬉しいよ」
じゃあササッと仕事終わらせないとねーと言い残し、自分のデスクに戻って行く係長の表情は、いつの間にかいつものビリケン様へと戻っていた。
久々にタダ酒に有りつけるとなれば、私も俄然やる気になるのは必然、近年希に見る作業効率により昨日の遅れを取り戻した上、今日のノルマを終えても定時で上がれそうな勢いであった。周りを見ても去年までの殺伐とした雰囲気は無く、時間に追われている様子の同僚は見当たらなかった。
「部長が代わるだけでこうも違うとは」
毎日私から弁当のおかずを巻き上げる新居屋部長からはとても想像できないが、あの若さで部長に抜擢された実力は伊達ではないのだろう。
終業間近、作り上げた企画書を係長のPCへ送信したところで私の今日のノルマは達成された。まさか時間内に終わるとは思っていなかったが、これで今日は定時で上がれそうだ、そう思ってからが長かった。
酒を奢ってくれる係長は、各々から続々と提出される企画書や資料に目を通し、添削した後部長へ提出するという作業が残っているのだ。結果係長の添削業務が終わるまで時間を持て余した私は明日やるはずだった資料作成にまで手を付けることになり、最終的に1時間半の残業を経てようやく飲みに繰り出す事が出来た。
「いや〜待たせてごめんね〜」
「いえ、上司の仕事が面倒なのは承知してますから」
「ポンタ君も出世したらやらないとだからね〜」
「私は平のままで結構です」
他愛のない会話を繰り広げているといつの間にやら居酒屋へ到着していた。
居酒屋でも他愛のない話は続いた。枝豆やたこわさ、鯵のなめろうを肴に呑むタダ酒のなんと美味いことか。食が細くなって大量に食べられないのが口惜しいほどである。
話は脱線するが、このなめろうという料理は私が居酒屋へ来ると必ず注文する料理の1つである。もともとは千葉県の房総半島発祥の郷土料理であるらしい。3枚おろしにした青魚を味付け味噌、日本酒、生姜やシソと共にペースト状になるまで包丁で細かく叩いたものである。そのまま食べても良し、ちょっと醤油を垂らしてもよし、熱々の白飯に乗せても良しの超有能な料理なのだ。メニューになめろうがあれば注文する事を強くお勧めする。
「急になめろうについて語られても困っちゃうよ〜、ポンタ君酔っちゃった?」
「係長、この店のなめろうを舐めないでください」
「言いたいことはわかるけどその台詞はかなりややこしいよ?」
「なんとなめろうで使わなかった骨の部分を唐揚げにして一緒に盛り付けてくれるんですよ!なめろうを頼むと鯵の骨せんべいまで食べられるんです!」
「僕には君の興奮するポイントがわからないよ」
久々の外食と美味い酒に美味い料理で、すっかり上機嫌になった私のうんちくをにこやかに聞いていた係長であったが、宴もたけなわに差し掛かろうというところで急に真面目に話し始めた。
「ポンタ君、何か悩んでる事があるんじゃないのかい?」
「なんですか唐突に。むしろ悩んでいない人間なんて存在するんですか?」
「まぁそうだよねー。でもね、みんな言わないけど心配してるんだよ?はっきり言って君の体型の変化は異常、ダイエットどうこうのレベルじゃない、それに昨日はとうとう倒れる始末。何か良くないことに巻き込まれてるんじゃないのかい?」
驚いた、いつも他人を奇天烈なあだ名で呼び、事ある毎にからかい倒してくる上司が素直に心配してくるとは。
「心配して頂いてありがとうございます。しかし何かに巻き込まれたという事はありません、特に何もしていないのに何故か痩せていくのです」
「何もしていないのにそんなに痩せたのかい!?病院には?」
「昨日初めて行きました、今は検査結果待ちの状態です」
「そんな異常事態になってるのになんで昨日まで病院に行かなかったの!」
「行こうとは思ったのですが、食べても食べても痩せるのですと言ったところで、だから何?と言われるだけかと思いまして」
「キミは自分の身体に興味がなさ過ぎるよ。それに食べてるって言うけど今だっておつまみしか食べてないじゃない」
「最近は味噌汁一杯でお腹いっぱいになるんですよ。今すでに腹8分目といったところです」
「いや胃の3分の2を切除した人の食事量だよ?」
「でも不思議と妻の手料理なら無限に食べられるんですよね」
「何を言ってるんだい、キミは…」
係長が話している最中、突然視界がぼやけ始め、周りの音が聴こえなくなった。係長が何を話しているのか聞き取ることが出来ない。目眩にも似ていたが、まるで意識が私から離れようと必死にもがいている様な感覚であった。
「ポンタ君?大丈夫?」
ハッと気がつくと係長が心配そうな表情で私の眼前で手をひらひらとさせていた。
「すみませんボーッとしてました、酔いが回って来たのかもしれません」
「明日も仕事だしそろそろお開きにしようか。さっきも言ったけど、検査で異常がなければ精神的な部分に起因してる可能性もあるから、そっちの病院も視野に入れとくんだよ?何か困った事があればいつでも僕に相談してくれていいからね」
珍しくまともに心配してくれた係長に御礼を告げ、その日は解散となった。妻以外にも私の身を案じてくれる存在がいるとわかった為か、帰りの電車に揺られる身体は心なしか今朝よりも軽くなった気がした。
なんとか日付が変わる前に家に辿り着いたが、家には明かりが灯っておらず静寂に包まれていた。きっと妻は眠ってしまったのだろう、起こさないようそっと家へ入り、軽くシャワーを浴びてから私も直ぐに眠りに付いたのだった。
翌朝妻から、ゆうべはお楽しみでしたねと宿屋のような台詞でお叱りを受け、教会で祈りを捧げるシスターさながらの姿勢で許しを乞う悶着があったが、我が家の天使は心が広く、帰りにアイスを買ってくると約束をしたら快く許してくれた。
昨夜は途中で意識が飛ぶほど呑んだと思ったが、どうやら二日酔いにはならずに済んだようだ。これなら仕事に影響はあるまいと意気揚々と出かける際に、妻から今日も重箱を持たされた。
妻に礼を述べ、昨日同様風呂敷片手に駅へと向かうが、道中で何やら違和感を覚えた。はて、私は昨夜重箱を持って帰っただろうか?そう考えると重箱についてはっきりとした記憶がない、会社を出るときには持っていたか?居酒屋では?帰りの電車で身体が軽く感じたのは重箱を持っていなかったからなのでは?しかし忘れて帰ったのだとしたら今朝妻が渡してくれたコレはなんだ?
考え始めると気になって仕方がない、何故か緊張でバクバクと跳ねる心臓を深呼吸でなんとか落ち着かせながらも急ぎ足で会社へと向かった。
背中を汗でぐっしょりと濡らし会社へと辿り着いた。同僚への挨拶もそこそこにそそくさと自分のデスクまで早足で移動し、いつも弁当をしまっているキャビネットの引き出しに手を掛ける。深呼吸で一度は治まった心臓のバクバクに再び襲われる。
もしこの引き出しを開けて重箱が出てきたら…何故か妻は弁当を持ち帰らなかった事に触れない、それどころか新たな重箱を用意している事になる。いや、きっと勘違いに違いない、きっと私は昨日弁当を持ち帰ったのだ、そう自分に言い聞かせながら、意を決して引き出しを開けた。
……よかった、そこには何も入っていなかった。ふぅっと安堵の溜息が溢れる。やはり昨夜は呑み過ぎていたのだろう、だから持ち帰った記憶がないのだ、係長も私の身を案じるあまり持ち物にまで目が行かなかったのだ、もし重箱に気がついていたらあの係長がイジらない筈がないのだから。
そう言い聞かせ自分を納得させたが、決して係長に、昨日私は風呂敷を抱えていましたか?とは訊かなかった。