K指防衛軍
人体は神秘に満ちている。現在でもなお、その全貌は完全には解明されていない。恐らく環境の変化に伴い、いらない器官が徐々に退化したり、あるいは新しい器官が生まれたり、そういったマイナーチェンジを絶えず繰り返しているのもあるだろう。さらに我々は様々な菌達とも共生している。全てを把握できるようになる未来はまだまだ遠いのではないだろうか。そして今日も誰にも知られる事なく、体のある一部を守る防衛軍が我々の為に戦ってくれている。
「こちら右足小指防衛軍支部。母体である小由季の起床を確認。どうぞ」
彼らは自身が所属している人間を母体と呼称している。
「こちら左足小指防衛軍支部。我々も確認した。今の所こちらに危険は無い。どうぞ」
「了解。この母体は毎回右足から地面に足を付ける。警戒をしつつ状況を観察する」
小由季はベッドからおり、大きく背伸びをした。そして眼鏡をかけてからカーテンを開け、降ってくる陽の光を全身に浴びる。
「うむ。日光で体を起こすのは良い事だ。活発に動き回ればそれだけリスクも高まるが、それを回避する為に我々は小指表面に存在しているからな」
「おっしゃる通りです、総督。母体が階段を下りました。排泄行為と思われます」
総督は両小指防衛軍を統率しており、助手が両小指陣営や体から伝達される情報を逐一総督に知らせている。彼らは小由季の利き足である右足小指から指令を出している。
「了解した。寝ぼけているときは普段の扉や柱の位置の把握も曖昧になる。気を引き締めていこう」
「ラジャー」
小由季がトイレの扉を開ける。そしてゴツン!と音がした。
「こちら左足小指支部!強い揺れと音を観測!何が起きた!?」
「こちら右足小指支部。恐らく右肩が壁に激突したものと思われる」
「なんだ、驚かせやがって。この母体は毎回危なっかしい」
無事用を足し、顔を洗ってから彼女は朝食をとるためダイニングへ向かう。ここはかなり危険が多く、両小指支部にも緊張が走る。
「来たか。かなりの難所だ。テーブルと椅子の脚が乱立している。しかも立ったり座ったり忙しない。以前この場所で歴史的大損害を被った事があるしな」
「はい、一ヶ月前の『ダイニングの悲劇』ですね」
小指が緊迫した状況である事を小由季はつゆ知らず、母の節美が作っている朝飯の匂いを呑気にかいでいる。テレビでは今日の占いをやっていた。
「母体の生年月日はいつだ?」
「八月生まれなので獅子座ですね。今日は二位で、恋愛運が特に好調です」
「母体は喜ぶかもな。だがこうやってうかれた時に事故は起きやすい」
母体の一親等が朝飯を運んで来た。二人の小指を守る総督達が連絡を取り合う。
「こちら小由季の小指防衛軍総督。今の所異常なし。どうぞ」
「こちら節美の小指防衛軍総督。我々も異常な……おい!どうした!」
にわかに節美の小指防衛軍支部の動きが慌ただしくなる。緊迫感が小由季陣営にも手に取るように伝わる。
「方向転換できるか!?転倒してもかまわん!」
スピーカー越しに尋常ならざる警報音が鳴るのが聞こえて来た。
「テーブル脚が接近!ダメです!回避出来ません!うっ!うわー!!」
けたたましい衝撃音の後、砂嵐のようなノイズ音が小由季の小指防衛軍支部に虚しく響き渡る。
「応答せよ!誰か!誰か!……おい……」
節美本体は小指を打った痛みでのたうち回っており、小由季はそれを心配そうに見つめていた。
「向こうの母体が小指をおさえてる為、通信が途切れた可能性もありますが……生存の確率は極めて低いと思われます。ちなみに節美は牡牛座で……今日の占いは……一位でした……」
「……クソッ。どうしてこの世はこうも残酷なんだ……」
隊員の一人が無念で顔を歪ませている。
「くよくよするな。彼らは立派に戦った。敬礼!」
総督の言葉で防衛隊全員が涙ぐみながら、殉職した(と思われる)同胞に敬意を捧げた。悲しい沈黙が防衛軍支部を包み込む。
「だが、こうしてばかりもおれん。我々は引き続きこの母体の小指警護をしなければならない。これは遂行しなければならない任務だ。散っていった仲間の為にも全力を尽くそう」
「はい!!」
このような事態が起こっているのを知らない小由季は、歯を磨き、二度目の排泄と着替えを済ませた。
「今の所順調だな。現在母体は紺色の靴下を履いているが、これではまだ防御力が十分ではないな。早く革靴を履いて欲しいものだ」
「はい、総督……あれ?」
「どうした」
「階段を下り終わった母体が引き返しました。ああ、スマートフォンを忘れたようです」
家の中にドタドタと鈍い足音が鳴り渡る。
「まずい!焦りは禁物だ母体!」
「総督。母体には聞こえていません」
「ううっ、分かっておるわ。小指に危険が生じたらアレを作動させろ。足全体と連携をとるんだ」
「ラジャー」
隊員達が両小指支部から出動し、綺麗な隊列を組み、足裏へと向かい始めた。無論、勇猛果敢な彼らを視認出来る術など我々は持っていない。小由季が自分の部屋に着き、携帯の置いてある勉強机に向かって左足を踏み出す。その次に、後ろにある右足は振り子の様に、必然的に左足より前へ移動しようとする。この時ベッドの脚がその軌道を邪魔しているのを、小由季は気づいているはずもない。携帯をとる事しか頭に無いからだ。そして右足小指がベッドの脚に直撃しようとした刹那、小由季の左足がつるりと滑り、彼女は盛大に尻餅をついた。ドスン!と大きな音がする。それを聞いた節美が大声で娘の安否を確認し、小由季がそれに応答した。
「ふう。『踵返し』が間一髪で成功したようだ」
「はい、総督。靴下も摩擦力軽減に役立ちました。ただ母体は臀部を強打したようです」
「尻の肉は分厚いから問題ないだろうが……あとで臀部防衛軍支部に釈明せんとな」
「了解しました。小指支部名物『薄皮小指饅頭』を準備しておきます」
「頼んだ。そうだ、臀部支部の蒙古斑ラーメン、辛くて美味いんだよな」
尻餅をつきながらも無事携帯を確保した小由季は革靴を履いた。そして玄関で節美に「行ってきます」の挨拶を交わそうとしたその時だった。
「……ジジッ、ジジジジ」
「総督、僅かではありますが電気信号を感知。節美の小指からとだと思われます」
「なんだと!すぐ音声に変換しろ!」
「了解しました」
適切な周波数に合わせると、不明瞭ではあるが声が聞こえて来た。
「こ$ら、節美n・小指+衛=’部……甚大な被*を被っ?が我”は無事であr……健@を祈:…」
「おおっ無事だったか!貴殿の言葉受け取ったぞ!皆、彼らにもう一度敬」
「敬礼!」と言おうとした所で革靴を履いた小由季は外へ飛び出した。彼ら防衛軍には仲間の生存を喜ぶ時間すらまともに無いのだ。壮絶な仕事である。節美の小指防衛軍支部の総督は、すでに居なくなった小由季の小指防衛軍支部に向かって、
「ご武運を……」
と涙ぐみながら敬礼した。
防御力の高い革靴を履いている間は、彼らにとって休息をとれる数少ない時間である。母体が起床した時から張りつめていた緊張の糸も緩む。隊員達は爪の垢煎茶をすすりながらミニ小指エクレアを食っていた。
「いやあ、節美部隊が生きていてくれて本当に良かった。彼らは母体こそ違うが、志を同じくする戦友だからなぁ」
「ホントに。でも私達も気をつけないとね」
スピーカーを通して左右小指防衛軍支部で他愛ない会話をする。
「それに総督の『踵返し』は実に見事だった」
「ははっ、隊員の君たちが上手くやってくれたお陰だよ」
しかし上機嫌なのも束の間、回線が乱れる。
「こちら、右小指防衛軍「ラジ「現状報「左小「了「回線が「背骨出汁茶漬けに「あっ爪柱が立っ「白癬菌が!「
枯れる事を知らない瀑布の如き情報が、スピーカーからとめどなく流れてきた。
「なんだこれは!まさか満員電車か」
「そのようです。数多の小指防衛軍の通信が錯綜しております」
「しばらく回線を切っておこう。なぜ人間はこうも満員電車が好きなのか」
「了解しました。どうしてか分かりませんね」
彼らにはゆっくり話をする時間さえ無いのだ。過酷な仕事である。
小由季は学校で上履きに履き替えるが、革靴と同じく裸足で歩く時程の危険はない。
「ふう、ここまで来れば帰りまで安心だな。教室内の人数も満員電車なんかよりずっと少ないし」
「はい、総督」
しかし放課後、小由季と小指防衛軍は思わぬ事態に巻き込まれる。
「おい。何が起きている」
「全ては把握出来ませんが、どうやら同級生の男子に呼び出されたようです」
彼女は体育館の裏に居た。
「むむっ逢い引きか」
「正確には違います。女友達が影からのぞいており、小由季はそれを承知しております」
思春期真っ盛りの中学生にとってこういう話題は楽しくて仕方が無い。まあ、それは大人になっても大して変わらないが。そして呼び出した男子生徒が現れた。
「お、来たな。女子を待たせるとは、なかなか良い神経をしているな」
「待ち合わせの時間には遅れていないようです」
「そうか、ならよい。ではこちらも向こうに連絡をとってみよう」
「了解しました」
助手がつまみでをひねって周波数を合わせる。
「こちら小由季の小指防衛軍総督である。貴殿の所属を名乗られよ」
しばしの沈黙の後、応答があった。
「こちらアブドゥライエの小指防衛軍総督である。本日は貴殿らとの邂逅を光栄に思う」
「アブドゥライエ?珍しい名だな。異国の方か?」
アブドゥライエ陣が答える。
「母体の母がコートジボワール出身である。姓名は小日向アブドゥライエだ」
小由季側の陣営が沸き立つ。
「ほお。ハーフと言う事か」
「我が母体はしなやかな筋肉を生かしてサッカー部の点取り屋として活躍しており、さらにフランス語も堪能だ」
「バイリンガルか、素晴らしい。小由季は料理が上手いぞ。あと学業成績もかなり優秀だ。尻餅はよくつくがな」
笑いが巻き起こる。二人の小指陣営は和気あいあいとしたムードで縁談(?)が進んでいるが、決めるのは彼らの母体達である。アブドゥライエと小由季の間で何やら話しているようだが、どうも付き合う気配は無い。小由季陣営が彼女の反応を気にし始めた。
「おい、母体は返事をしないのか?」
「告白をされた訳ではなく、デートの誘いのようです」
「そんなのほとんど告白と一緒だろう。さっさとくっ付けば良いじゃないか」
両小指陣営の間ではほぼ話はまとまっていたので、彼女が戸惑っている事が総督には理解出来ないらしい。
「考える時間が必要なのでは?あと年頃の娘ですので、こう、じらしたり、あまのじゃく的な態度をとったりしたいんだと思います。ちょっとしたわがままです。多分」
助手の仮説に対し、
「めんどくさいなあ。とりあえずくっついて、ダメならさっさと離れれば良いだろう」
と呆れる。
「総督、もう少しデリカシーを……」
「分かった分かった。アブドゥライエ陣営、聞こえておるか?我が母体が素直でなくて申し訳ない。しばしの猶予を頂きたい」
「はい、聞こえました。我々は母体に口出しは出来ない故、こればかりはしょうがありませんね」
「全く困ったもんだ。小指に運命の赤い糸でもついていれば良いんだがな」
ガハハハと両総督が笑う。彼らの足の小指は、この二人の総督によって守られているのである。結局小由季は返事を保留にして帰路についた。
小由季は普段眼鏡をかけている。プラスチック製のピンクフレームのオーバル型で、色の白い肌によく似合っている。伊達ではなく本当に目が悪い。そんな彼女でも眼鏡を外さなければいけない場面がある。就寝時、そして入浴時だ。実際、目が悪いのに慣れてしまえば大した問題ではないが、小指防衛軍にとっては一大事である。風呂は彼らが一番神経を尖らせる時間なのだ。
「またこの時が来たな」
「はい、総督」
「入浴時は本当に慣れん。我々に出来る事はほとんどないからな。母体は極度の近視で、しかも現在は全裸だ。『踵返し』のような荒技は体へのダメージが大きくなるから使えん。ただ静観する事しか出来ない……」
「歯がゆいですね」
そして彼らにはまだ懸念材料がある。入浴とは即ち体を洗う事。言うまでもなく、体を清潔に保つ為には必要不可欠な行為だが、同時に人体の助けとなる菌も洗い流してしまう。小指防衛軍も例外ではない。
「……来たぞ、ボディーソープだ」
「全員防御態勢をとれ!小指にしがみつくんだ!全員生きて返るぞ!排水溝に流される事は総督である私が許さん!!」
「おー!!」
総督の激励に奮い立つ隊員達。きめ細かい泡をまとったボディータオルが小指へと接近する。
「来るなら来い!」
「イテテテテ!」
「ぺっ!苦い!いや、ちょっと甘い!」
「目に入った!痛いよー!」
隊員達の悲痛な叫び声がこだまする。しかし小由季には聞こえる訳も無い。指、指の腹、指と指の間と、丹念に洗われていく。そしてシャワーで泡が流された。
「皆無事か!」
「はい!」
しかし受難は続く。そう、小由季はまだ湯船につかっていない。そして彼女は長風呂である。
「もう一踏ん張りだ!あとはこの湯船に耐えればゴボボボボ」
「ラジ、ゴボゴボゴボ」
彼女の足が完全に湯船の底についた。小由季自身は鼻歌を歌っているが、小指防衛軍の状況は阿鼻叫喚の地獄絵図と言っても過言ではない。苦しいし、水圧で押しつぶされそうだし、まともに通信も出来ない。彼らはただひたすら小指にしがみつき、時が過ぎるのを待つしか無い。厳酷な仕事である。ようやく彼女が風呂から上がった。
「みんな無事か!?点呼!」
「……とり終わりました。全員無事です。ただ臀部防衛軍支部へ差し入れする為に用意していた『薄皮小指饅頭』が流されてしまいました」
「皆が無事ならそれで良い。饅頭はまた準備しよう」
「はい、総督」
危機は去った。しかし夕食時も勿論、警戒を怠らない。なぜなら彼らは妥協を一切許さないプロフェッショナルだからだ。そしてそれは就寝時も変わらない。小由季はベッドの中で携帯をいじっていた。
「母体が何をしているか分かるか?」
「どうやらアブドゥライエ氏との密会をのぞいていた友人に恋愛相談をしているようです」
「青春だなぁ」
「そして明日、母体はその友人の家へ赴くようです」
「なんだと!」
これは重大事だ。
「友人宅のマップは!?」
「ございません。完全な初見での攻略となります」
「ははっそうか。面白い。明日も大仕事になるぞ!分かったか皆の衆!」
歴戦の勇者である総督にとって難しい任務であればある程、血湧き肉踊るらしい。
「はい!」
隊員達もそんな総督を心から尊敬している。
彼らは自分の仕事に誇りを持っている。爪の垢煎茶を飲んでいるときも、薄皮小指饅頭を食っているときも変わらない。常に母体の小指を守る事を第一に考えているのだ。そして彼ら小指防衛軍は誰にも知られる事無く、今日も健気に任務を遂行している。