閑話:魔が者達の王
――古い、とても古い、今となっては掠れゆくだけの記憶。
前世にて、俺に物心が付き、自らの意思が灯った時。
確か……一番初めに思ったのは、「臭ぇ」ということだった。
濁った瞳の住人。
淀んだ空気。
実際に臭気も酷く、道端に死体が転がっていることなど日常茶飯事で、衛生面も最悪だったことだろう。
まあ、俺が住んでいたのは人生の落伍者達が集る貧民街なので、さもありなんといった光景なのだが……今までずっとその場所で暮らしていたはずなのに、その日になって、何だか世界がエラく腐って見えたのだ。
そして、振り返るとそこにいたのは、死んだ目をした、雑多な種族の俺と同じガキども。
腹を空かし、何のために生きるのかもわからず、ただ本能がそれを求めるからと生き続けるガキどもだ。
親など誰もいないし、ましてや保護者となる大人なんぞいる訳がない。
ソイツらを見て、俺は、何とかしなければと思った。
この腐ったゴミ溜めから、コイツらを出してやらなければ、と。
なまじ、俺達のグループが幼く、日々残飯を漁って生きるような生活をしていたからこそ、そう思ったのだろう。
その日から俺は、足掻き始めた。
そこらに転がるゴミクズのような、何の意味も見出せない生へと、歯向かうために――。
* * *
「……ん……」
目が覚める。
霞む視界に映るのは、生活感のある小綺麗な部屋。
一瞬、自分がいる場所がわからず、戸惑いを覚えるが――そうか、ここは、俺の生きた魔界じゃなかったな。
セイローン王国の王都、セイリシア。
その中にある、何の変哲もないアパートの一室だ。
どうやら、夢を見ていたらしい。
今では思い出すことも少なくなった、古い記憶。
足掻きに足掻き続け、最終的に『魔王』と呼ばれるようになった男の一生である。
と、そこで俺は、自らにくっ付く何かの存在に気が付く。
横を見ると、俺の肩に頭を預けるフィルに、その俺達の間にすっぽりと収まり、俺の膝に頭を預けている千生。
二人ともすっかり寝入っているようで、小さく上下する胸と、寝息が耳に入る。
……そうだ、思い出した。
三人でソファに掛けて、何か子供向けの映画を見ていたのだ。
途中で千生が眠ってしまい、だが何となくで俺とフィルも見続けていたのだが、その内に眠ってしまったのだろう。
俺は、二人の寝顔をじぃっと眺める。
心地良い、二人分の体温。
熱、という以上のものが、確かにそこには存在しており、それがじんわりと俺の胸を温める。
――俺は、前世でこの光景を達成したかった。
誰も種族など気にせず、それぞれが好き勝手に生きる世界。
そのために、魔王なんぞと大層な名で呼ばれながら、世界の半分を相手に戦争を行っていたのだ。
結果的に負け戦となってしまい、付いて来てくれた奴らに目指した景色を見せてやれなかったのは、今でも悔いとして俺の中に残っているが……ま、俺の部下どもは、強かだった。
俺が死んでも、何とか上手くやったことだけは、知らなくてもわかる。
いや、実際強かに生きていたということは、俺の死後を生きたフィルから聞いて、知っている。
奴らもまた、足掻きに足掻き続け、俺が俺の人生を全うしたように自らの生を全うしたのだ。
だから――俺は、この世界を何も気にせず、生きることが出来る。
前世で神など信じたことは一度たりともなかったが、この世界でならば信心深く信仰しても良いと思えるくらいには、実は感謝していたりする。
世界を超えた転生などという信じられない奇跡に加え、前世において最大の敵でありながら、最大の理解者であるフィルが隣にいたのだから。
それが偶然なのか必然なのかはわからないが、恐らくその人知の及ばないシステムこそが、神と呼ばれる『ナニカ』なのだろう。
名も無き、本当にあるのかどうかすらもわからないソレには、今後も感謝を捧げるとしよう。
祭壇なんぞでも作ってやろうか。
そんなことを思っていると、俺が動いたことで目が覚めてしまったらしく、フィルが小さく身動ぎし、長いまつ毛に彩られた瞳をゆっくりと開く。
「ん、悪い、起こしちまったか」
「んーん……って、もうこんな時間」
可愛らしく目を擦り、俺に預けていた頭を上げると、時計を見てそう言うフィル。
俺は、その姿を見て、笑みを浮かべる。
「……? 何?」
「いや、お前、いい匂いだなと思って」
「は!? な、何さ、急に。というかユウヒ、それはセクハラだよ!」
「ん? ……それもそうか。すまん」
「……そんな普通に謝られても、困っちゃうんだけど」
もう、と照れたように笑い、俺の幼馴染は言葉を続ける。
「それより、早く晩ごはんの準備しよ。あんまり遅くなるといけないし」
「ん、了解」
千生を起こさないようゆっくりとソファに横たえてから、立ち上がる。
それから、彼女と共に台所に立つと、俺は言った。
「な、フィル」
「ん?」
「これからも、よろしくな」
「――うん」
元勇者の少女は、とても綺麗な笑みで、微笑んだ。