千生《3》
千生の試し斬りを終え、訓練室を出て生徒会長と別れた俺は、肉体的な疲れよりも精神的な疲れを感じながら、帰路を歩く。
全く……あの人、生徒会でもいつもあんな感じなのだろうか。
生徒会の諸君は、きっと日々大変な思いで彼女と一緒にやっていることだろう。
……いや、けど、あの人学園だとちょっと堅物っぽい雰囲気があるんだよなぁ。
意外と、生徒会でも猫被りしてたりするのかもしれない。
俺の前でも、猫被っていてくれないものだろうか。
「おはな」
そんなことを考えていると、通りがかった公園で、俺が肩車している千生が綺麗に管理されている花壇を指差す。
「ん、そうだな」
ふむ……ちょっと寄り道するか。
千生が興味を引かれているようだったので、俺はそのまま彼女を連れて公園に入ると、花壇の道を歩く。
暖かな陽光。
舞う蝶と、風に揺れる草花の音。
仄かに甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
この花壇は数種類の色とりどりの花が植えられており、規模はそんなに大きくないのだが、花なんて特に興味がない俺でも綺麗だという感想が脳裏に浮かぶ。
こういう公園一つとっても、やはりこちらの世界が平和なのだということが、よくわかる。
「おはな、いろ、いっぱい」
肩車から降ろすと、刀の幼女は花壇前にしゃがみ込み、まじまじと観察し始める。
「あぁ。こんな感じで、花には色んな種類のものがあるんだ。綺麗だろ?」
「ん、きれい」
そうして彼女は、花の匂いを嗅いだり、おっかなびっくりの様子でツンツンと突いたり、飛んでいる蝶をボーっと眺めたりする。
まだ、千生の感情はそこまで読めないが、これは楽しんでくれていると見ていいだろうか。
「いっぱい、いろいろ、ふしぎ」
「はは、世界にはもっと色んな不思議があるぞ。これからいっぱい、知っていこうな」
彼女はコクリと頷くと、じぃっと俺を見上げる。
「……ゆー」
「おう」
「いっぱい、いっぱい、ありがと」
俺は笑って、ポンポンと彼女の頭を撫でた。
* * *
最初は、ただ全てがぼんやりとしていた。
よくわからない、漠然とした感覚。
感じるのは、暗さと、全身を包み込む冷たいもの。
流れる時。
感覚は少しずつ少しずつ鋭敏になっていき、徐々にリアルさが増していく。
それから、どれだけ経ったのかわからない程の時が過ぎた頃、ようやく自らの周囲の環境を理解する。
――世界が、ただ深い青だけに染まっていることを。
静寂が支配する世界。
ゆらゆらと、揺れる世界。
深い青にあるのは、それだけだった。
時折、よくわからないものが近くを泳いでいくのを見て手を伸ばすが、しかしすぐに逃げていき、何もいなくなる。
誰も、こちらには近付いてこない。
ただ、独りきり。
そのことを自覚した瞬間、何か痛みが、胸をジュクジュクと蝕む。
キュゥ、と締め付ける、胸を穿つ痛み。
それから逃れようと叫ぶが、しかし何も返って来るものはなく、空しく自らの声だけがどこまでもどこまでも響いていき、そして消える。
そこは、無だった。
何もなかった。
――あぁ。
自分は、どれだけの間、誰も聞く者のいない声を響かせていたことだろう。
もはや、自らを蝕む痛みに慣れ始め、それでも溢れ出る感情を止められず、すすり泣き――そしていつの間にか、温かな光が目の前に立っていた。
* * *
「あぁ。こんな感じで、花には色んな種類のものがあるんだ。綺麗だろ?」
「ん、きれい」
不思議なものだ。
数多の色の組み合わせで、こうも見ていて面白いとは。
香りも甘く、どことなく気分が良くなる。
その花の周りを飛び回っているのは、蝶と呼ぶらしい、おかしな色合いをした生物。
これだけ甘く、美味しそうな数多の花の中をヒラヒラと気ままに舞うのは、さぞかし気分が良いことだろう。
ふと見上げれば、そこにあるのは透き通る青と、眩しく、温かく世界を照らしている光。
太陽と呼ぶらしいアレの、こんなに心地が良い光を受けているからこそ、地上を生きるものは、恐らくこれだけ多彩な色に溢れているのだろう。
何と壮大で、美しいのであろうか。
この世界は、こうも広いのか。
空から視線を逸らし、次に、自らの所有者である彼を見る。
彼がいなければ、自分はずっと、あの海の底に独りで居続けたのだろう。
いったいどうすれば、この感情を伝えられるのだろうか。
「……ゆー」
「おう」
「いっぱい、いっぱい、ありがと」
教わった言葉で色々考え、だが上手く出て来ず、ただそれだけしか伝えられなかったが――彼は笑い、大きく温かな手でこの頭を撫でる。
その笑みは、頂上で燦然と世界を照らしている、あの陽の光のように輝いていた。
――千を経験し、生きる。
千生。
この身に付けられた、この名を胸に刻み、彼の剣としてこれからを生きるとしよう。