あの空間にはとても入れない
誰かがぼくを呼んでいる。
うたた寝から覚めたのはそのためだった。
土曜日の昼過ぎ、暖かかったのでついうとうとしていたのだった。
「はーい……」
「こんにちは、戸森さん」
「うえっ!?」
廊下に出たぼくは思わず固まった。
玄関に立っていたのは柴坂さんだったのだ。
ジャージに長袖シャツ。動きやすさを重視した服装だ。髪の毛も月海先輩を真似ているのかポニーテールに束ねている。お嬢様というから、もっとおしゃれな格好をしてくるかと思ったが……。
「貴方が月海先輩の家の近くに住んでいるとは聞いておりましたが、まさかお隣だったとは思いませんでした」
「表札見て、別の戸森って可能性は考えなかった?」
「ええ。この辺りではそうそう出会う名字ではありませんから」
「そ、そっか。ところでなぜうちに? 先輩の道場へ行くはずじゃ?」
訊いてみると、柴坂さんがもじもじし始めた。
「き、来てはみたものの、なかなか門をくぐる覚悟が決まらないんですの。それで、戸森さんに協力していただこうかと……」
「一緒に来いと?」
こくっと柴坂さんがうなずく。
ぼくはほとんど迷わなかった。
頼清さんにも来てくれと言われているのだ。理由が二つ重なった状況で行かないという選択肢はありえないだろう。
「わかった。案内するよ」
ぱあっと柴坂さんの表情が明るくなった。
「あ、ありがとうございます戸森さん!」
「ちょっと準備してくるね」
ぼくは部屋に戻ってジャージに着替えた。一緒にやろうという流れになった時のためだ。
外へ出ると、柴坂さんは玄関脇にいた。
壁に背中を預けて下を向いている。いつも強気な目が、今日はちょっと不安そうに見える。
「柴坂さん、それじゃ行ってみよう」
「よ、よろしく」
ぼくが先導する形で月心館道場に入った。
「ところで柴坂さん、甘やかされたくないって気持ちはわかるけど、なんで武術なの? 自分を鍛えるならスポーツとかでもよかったんじゃない?」
「いえ、武術こそ今の私に必要なものなのです。日本古来の精神を学び、個として独立する力を手に入れるためにも」
「へー」
そういえば月心流って発祥は何年なんだろう。古来から存在した流派なんだろうか。
「なんだか返事がいい加減ですわね。私、何かおかしいことを言いました?」
「いや、そんなことは。ただ、精神を学べるのかなって」
「私がすぐ脱落すると思っているようですね」
「そうじゃなくてさ……」
「なんです?」
「まあ、百聞は一見にしかずって言うから……」
柴坂さんが不思議そうな顔をした。
ぼくは不安なのだ。
頼清さんから武道の精神を教わる。あの頼清さんだよ。これまでの軽そうな態度を考えると心配にもなるじゃないか。
今日も道場の入り口は開けっ放しだった。鍛練中に泥棒が入ってきたら危ないな……。
「こんにち――」
呼びかけた瞬間、「はっ!」とかけ声。月海先輩の声だ。
強烈な踏み込み音が聞こえ、木と木のぶつかり合う音が、足が床を叩く音が連続して響いてくる。
止まらない。
二人は打ち合い続けている。音と音の間隔はひどく短い。それだけ二人の動きが速いのだ。
「覗いてみよう」
「え、ええ」
柴坂さんは明らかにひるんでいた。
戸の陰から二人で顔を出す。
背中を向けているのは月海先輩だ。棒を操っている。正面に頼清さん。今日も木刀だ。
よく見ると先輩の使っている棒には小さな鎌らしき物がついていた。そちらを使わず、何もついていない石突きの方で打ち合っている。
棒の真ん中を持ったり、移動しながら長めに持ち替えたりを繰り返し、先輩は棒を打ち出す。それを当然のように受ける頼清さん。退く時はたまに片手を離す。手と木刀の隙間を先輩の棒が通過していき、次の動きになだれ込んでいく。
「と、戸森さん……」
「はい?」
「あ、あんなことができるようになるまでどのくらいかかるのでしょう?」
「ちょっとわからないですね……」
つい敬語で答えていた。二人の迫力に呑まれていたのだ。
あんなすさまじい空間にはとても入れない。気力を一瞬で持っていかれてしまう。
頼清さんが踏み込んで木刀を振るった。先輩が退いた。その瞬間、棒をくるりと反転させ、初めて鎌を前に出した。小さな鎌が刀身の真ん中あたりに引っかかる。先輩が棒を内側へねじるようにしながら踏み込んだ。
そこで、ピタリと動きが止まる。
頼清さんがこちらを見た。月海先輩も振り返った。
「よう、来たかい」
「あら、こんにちは」
ゾクッ……。
「景国くん……と、柴坂さんね」
また睨まれた! 怖すぎる!
「きょ、今日はよろしくお願いいたします」
柴坂さんの声はかなり小さかった。彼女も同じように月海先輩の眼光を感じたのだろうか。
「どうぞ、入ってちょうだい」
二人は離れて一礼すると、こちらにやってきた。
「君が光の言ってたお嬢さんかい? 俺はこの道場の師範をやっている月海頼清という」
「はじめまして、柴坂未来生と申します」
「おう、よろしく」
黒の道着に身を包んだ頼清さんが言う。やはりポニーテールだ。……あれ、この場でポニーテールじゃないの、ぼくだけだ。束ねられるほど長くないんだよな。
柴坂さんはキョロキョロと道場を見渡している。
「あの、他のお弟子さんは……?」
「みんな仕事や家庭があるからねえ、なかなか来られないんだよ。平日の夜の方が集まるね」
「そ、そうなんですの……」
「まあ安心したまえ。ゆっくり基本的なことから教えていくからな。ちなみに今のは月心流の棒術だ。なかなかすごいだろう」
「は、はい。あの、とてもあのように動ける自信は……」
わはは、と頼清さんが笑う。
「最初からできるようならここに来る必要ないよ。光は小さい頃からずっと続けてるからね。今日はいつになく気合い入ってるけど」
頼清さんは先輩とぼくを見比べてニヤニヤしている。
「わ、悪い?」
「いんや、別に」
そうか……柴坂さんの様子を見るためにぼくもついてくると予想していたのか。だから先輩は気合いが入っていた。
「先輩、さっきのはこの前の棒と違いますね?」
「ああ、これ? 見ての通り鎌よ」
「俺が教えてやる。こいつは相手の獲物を巻き取る時に使うのさ。普通の棒術で戦って、相手が隙を見せたらすかさず鎌を前にして敵の武器に引っかける。鍛練では引っかけて、巻き取る動作に入ったところで終了だ。そこまでやれば相手は武器を落とすからな」
「なるほどー」
「月心流は色んな武器を使うが、光は長物を使うのが特に上手いな。戦い方も豪快だし、見てて楽しいだろ」
「楽しいというか、すごすぎて呑まれますね。次元が違う感じで……」
先輩はそわそわと居心地悪そうにしている。
「景国くん、無理に褒めるところなんか探さなくていいのよ」
「なんでそんなこと言うんですか。今だって本当に呑まれてたんです」
「そ、そう?」
「はい、使い手が絵になるから余計に見入っちゃうところもありますし」
「なっ――」
月海先輩が一歩下がった。
「か、景国くん、別にお世辞は求めてないわ」
「全然お世辞なんかじゃないです。本当に心から、先輩の戦ってる姿がかっこいいって思ったんです」
「う、うぅ……」
頼清さんのニヤニヤが止まらない。
「ホームグラウンドで褒められるのが一番苦手とかすげえ笑えるな」
「お、お父さんは黙って!」
「え? でも景国君はすごいって思ったんだろ?」
「はい!」
「やめて! 景国くんにその話振らないで!」
「景国君、光かっこよかったよな!」
「とってもかっこよかったです!」
「ああっ、だ、駄目……!」
「先輩、なんでこの話になると自分否定に入るんですか! 自信を持ってください!」
「待って景国くん、心を落ち着ける時間を――」
「もう一回、さっきの棒術見たいです」
「くうっ、み、耳が……!」
「えっ、大丈夫ですか?」
「あ、いけないわ景国くん、ちょっと離れて!」
「でも、いま耳がどうとかって」
「いいから! それ以上近づくと鎌をお見舞いするわよ!」
「せっかくなので寸止めください!」
「な、ん、で!? なんでここだと景国くんは積極的になるの!? 私を殺す気!?」
「違います、本心をさらけ出しているだけなんです!」
「とっ、トラウマになっても知らないから!」
ビュンッ!
「わああ、こ、これが間近で見る棒術の迫力ッ……! すごい、すごすぎますよ先輩!」
「お、おかしいっ、こんなのってないわ! こんなの私じゃない――」
† †
「柴坂さん」
「は、はい、先生」
「あの二人、ここだとあんな感じになるからよろしく」
「月海先輩のイメージが……」
「得意なものが弱点になるとは皮肉だよねえ」
「と、戸森さんも想像以上です。ずっと穏やかなだけの方なのだと思っていました……」
「あれは話してるうちにハイになっちゃったやつだ。冷静になったら絶対悶絶する」
「そうかもしれませんね……」
「体験始めるの、もうちょっとあとでもいいかな。だって――」
「ええ……入れないですものね。あの空間にはとても……」




