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【駄菓子屋シリーズ】

【駄菓子屋シリーズ】Last wish.

作者: 恣意

 別に大したことじゃないと思ってたんだ。


 教室の蛍光灯を交換しようとして、脚立から足をすべらせるまでは。



 ―― Last wish ――



 気がついたら、炎天下の見知らぬ場所にひとりで立っていた。

 田舎の農道がいびつに真っ直ぐのびていて、両側には草原が広がっている。

 やたらと見晴らしが良いせいか、爽やかな風が吹いてきて、制服のシャツの裾がぱたぱた揺れた。

「――……あれ」

 ざざ、ざざざ、とノイズような、拍手のような、草原がさわめく音に首をかしげる。

 ――なんでこんなとこにいるんだろう。

 俺さっきまで教室にいたはずなんだけど。

 突っ立っていても仕方がない。前後を見ても、ただ広がる草原ばかりで何もない。

 ため息ひとつついて、勘で前に向かって歩き出す。

 トラクターでも通るのか、わだちはやたらと固くてでこぼこしていて、踏み均されていない道の真ん中には雑草が生えていた。

 時々人の気配に驚いて、小さなバッタみたいな黄緑色の虫が飛び出してくる。

 ――教室の蛍光灯が切れて、ちかちかしだしたんだよ。

 最後の記憶を思い起こす。

 蛍光灯の交換は、担任か用務員に報告することになっているのだが、クラスの女子がうるさかった。だから、交換してやるよ、って勝手に脚立と蛍光灯を持ってきて、登ったんだ。

 それで、足を滑らせて、――そこから覚えていない。

 夏の太陽は日射しが強くて、視界が白くくらむ。

 やがて、低い丘を越えた先に、ぽつんと建物が見えた。

 小さな平屋は見るからに、間違えようもなく、

「……駄菓子屋?」

 気になって近づく。

 最初の印象から間違いもなく、そこは駄菓子屋だった。

 古びた平屋建て、張り出されたひさしの下には、カプセルトイが並べられていた。

 その横には縦長の冷蔵ジュースケース。中にはラムネのビンやら、普段見ないようなカラフルなジュースが入ったビンが並んでいて、その上には薄汚れた段ボールが乗せたままになっていて、かすかにモーター音がこうこうと響いている。

 風に吹かれて、氷、と一文字書かれた小さな布地の看板がぱたぱたと揺れていた。

 店内をのぞけば薄暗く、アイスの入った冷凍ショーケースが見えた。

「……なつかしー」

 ふらりと店内に入れば、狭い店内には商品が雑多に並んでいる。

 猫ビンに入った丸いガムやらざらざらした色とりどりのヒモがついたアメを眺めていると、奥手から、

「いらっしゃい」

 声が聞こえて飛び上がる。人の気配など感じなかった。

 顔を上げれば、室内の奥に、暗い紺色の甚兵衛を着た男性が丸イスに腰かけて、組んだ足の上に新聞を広げて読んでいた。

 目が合うとみるみる表情がくもり、それから「なんだ」と眉をひそめて「客じゃないのか」と新聞をたたんで、店のレジの奥に見える座敷にそれを放り投げた。

 黒い髪の毛は長くて、後ろでひっつめていて、ポニーテールにしている。

 外見は若いのに、雰囲気は年寄りじみていて、年齢の見当がつかない。

「死に損ないに用はない」

「……死に損ない……?」

 問えば、その男性は呆れたように腕組みをして、後ろの柱に寄りかかる。

「記憶もないのか。手に負えないなあ」

「だからここはどこ……、死に損ない……、え? 俺死んだの?」

「しかも馬鹿ときた」

 その男性は柱から背中を離すと、今度は組んだ足に肘をのせて、背中を丸めて頬杖をついた。

「死に損ないって言えば、死んでないって意味だ。さっさと帰れ」

「だって帰り道わかんねーもん」

 気がついたらここにいた。死に損ないは帰れと言われても困る。

「――ボクちゃんは迷子か」

 茶化すような口調に、むっとしながら言い返す。

「おさむって名前がある。それに、勝手にわけのわからない説明されても困る」

「――おさむ。――……かじか、おさむ?」

 河鹿理。名前を唐突に呼ばれて目を丸くする。

「十七?」

「な、なんで……」

「なんではこっちの台詞だ。寿命はまだあっただろう? なんの手違いだ」

「は、はあ……た、多分、脚立から落ちたから?」

「頭でも打ったか。まったく世話のやける奴だ」

 やれやれ、と頬杖をついたまま、男性は理を見てため息をつく。

「……私は、ここの主だ」

「はあ、店長ですか。名前は?」

「ない」

 短い答えで会話が止まる。

「はあ?」

「うるさいなあ」

 店長はわざとらしいしかめっつらを浮かべると、小指で耳をふさいだ。

「名前は必要ないからないんだ。好きに呼んでくれ」

「ここはどこなんだ?」

 店長は体を起こして、にや、と笑う。

「ここは、今際のものが来る最期の場所。たどり着けた者の願いをひとつだけ叶える駄菓子屋だ」

 今際――つまり、死者か、と理解して理は沈黙して、それでも質問を繰り返す。

 それは店の目的であって、場所ではない。

 質問の答えになっていない。

「……ここは、どこなんだ?」

「天国か地獄の一丁目」

 やはり、答えになっているのかいないのか、良く分からない答えが返ってきた。

「願いを叶える?」

 微妙に噛み合わない会話をしてくる店長に、質問の答えがまともに返ってくるとは思えなかったが、理はそれでも気になったことを質問する。

 店長は「んー……」と生返事をしながらぱたぱたと体あちこちを叩いて、前身頃のポケットから煙草の箱を出した。少し潰れたソフトケースの煙草の箱を振って、少し出た煙草をくわえて引き抜く。

 それから「あれ」とぼやいた。

「……火、持ってる?」

「ねーよ。てかそこにあるじゃん」

 レジの前にあるガラスのショーケースには煙草も陳列されていて、そのショーケースの上には色とりどりのやすりライターがならべてあった。赤や緑の安っぽい色が、外からのわずかな陽光に透けている。

「おお」

 店長は商品に迷いなく手を伸ばすと、その中から手前の青色のライターを取り出して、親指でやすりを回す。シャ、と金属音と同時に火がともる。安全装置などついていなさそうだ、と店の古さを意識して、答えるつもりはないのかな、と考えていると、吸った煙をぷかりとはいて、店長が口を開いた。

「願いをかなえるって言っても、駄菓子屋だから。大したものではないけどなあ」

「ところで、俺帰れるんですか?」

「うん。さっさと帰れ」

 冷やかしごめんだ。と店構えと真逆のことを口走り、店長はあくびをした。

「帰り道わかんねーっス」

 来た道を戻っても帰れる気がしなかった。なんとなく、ではあったが、確信じみた『なんとなく』は、下手に外に出るのはやめた方がいい、と囁いてくる。

「じゃあその内帰れる」

「ところで、俺の願いって叶えてもらえるんスか」

 投げやりな答えに、別の質問をすれば、

「お前は馬鹿だなあ」

 二回目の馬鹿が飛んできた。

「叶えてやっても良いが、死ぬぞ?」

「変な店っスね」

 足元に逆さまにして置いてある黄色いビールケースに腰かける。本来用途とは違うが、ここに置いてあるということはそういう意図だろう。そんな理の想像は正しかったのか、店長は何も言わない。

「死に際にここにきて、願いをかなえてもらっても、結局死ぬんスよね。生き返りたいとかは?」

「駄菓子屋にンな大層な願い事されても困るなア」

「どの辺ぐらいまでいけるんだ?」

 煙を呑んで、「そうねえ」とつぶやいてから煙をはく。

「嫌いな奴を消すことぐらいはできるかな。あるいは誰かを引っ張ってくるか。ただし一回こっきり、願いは増やせないし、取り消し撤回もきかないな」

「死人しか増えない願いだな」

「――生命力強い人には効かないよ」

「……しかもかなわないこともあるときた」

「駄菓子屋だから」

 それって言いわけになるのかね。呆れながら、理は目の前にある小さな箱に入った赤い三角クジを指でかき混ぜる。

 その時ふと、背後に気配を感じて振り返る。

 そこには、――見知らぬ中年男性がぽかんとした表情で立っていた。

 すこしシワのできたスーツに、ふわりと不釣り合いな女物の香水の香りを嗅ぎ取って、理はわずかに眉をひそめる。

「いらっしゃい」

 店長は笑顔でその『客』を迎えた。

「あたり棒をお持ちだね」

 その言葉に、その中年男性は「ああ」と合点がいったような声をあげながら、スーツのポケットに手を入れると、古びたアイスの棒が出てきた。

「いやあ、お客さんは運がいい。外も暑いから中にどうぞ、煙草は呑む? 俺のマイセンでいいかな?」

 客には愛想が良い。理はぼんやりとふたりのやり取りをながめる。

 中年男性は理と違って、死に損ないではないということだろう。変な店だな、と思うと同時に、この中年男性が何を願うのか気になって、視線を合わせないようにうつむいてじっとしながら会話に聞き耳を立てる。

「ああ、すまないね」

「いいのよ。遠路はるばるよく来たね。今日は仕事だったのかい?」

 腰を上げて、煙草とガラスの大きな灰皿を持った店長が歩いてくると、理が座っているビールケースに蹴りを入れてきた。

 どけ、と言わんばかりの態度にしぶしぶながら立ち上がり、入れ違いに店長が座っていた奥のイスへと移動して座る。

 ビールケースに灰皿を置いて、煙草吸いふたりは世間話を始めてしまう。

 理は、なんかこの話長くなりそうだな、と思いながら丸イスに座る。

 やはりその場所は店と生活空間の境目のようで、レジカウンターの隙間に人が座れる程度のスペースと、その背後にあがりかまちの段差があって、和室に上がれるようになっていた。

 和室にはちゃぶ台とポットや急須がセットでおかれていて、天井からはぶら下がりの蛍光灯がつるされている。長いヒモが下に伸びていた。初めて見る蛍光灯だな、と理はそれをながめてから会話に意識を戻す。

「ああ、事故は怖いねえ」

「そうなんですよ。ボタンを押したら物凄い音がして、気づいたらここにいてねえ。あっけないもんだ」

 ――死因の話になっていた。

 『客』は自分が死んだ事を知っているのか、と考えてから、理は出合い頭に、店長に『記憶もないのか』と呆れられた会話を思い出す。

 記憶がない客の方が珍しいのかもしれない。

「願い事は何にする?」

「そうだなあ、ひとつだけだろう?」

 中年男性はアイスのあたり棒を店長に差し出しながらうーん、とうなる。

 この店の『仕組み』も自然と理解しているらしいことを不気味に思いながらも、死に際は何でもアリなのかもな、とどこか遠くに納得する。

「残す妻子が心配でなあ、苦労をかけるし、何か残せないかな?」

「ああ、そのぐらいならお安いね」

 店長は受け取ったアイス棒を両手で包んで、それから丸める。明らかに棒の長さより手が小さくなって、手品でも見ているような気分になる。

 何が出てくるのか。と、理も気になってその手元へと視線を向ける。

 再び開いた手のひらには、長方形のシワがよったカラフルな紙が見えた。

 それは理にも見覚えがあった。中年男性もそうだったようだ。

「――宝くじ……?」

 男性がまばたきをして、うん。と店長はうなずいた。

「なんと夏の宝くじ一等券。何億だったかな? まあいいや、ともあれ、これがあれば金でなんとかなる願いは、大概なんとかなるだろう」

 それを軽く手渡されて、中年男性は目を丸くしながら紙片に視線を落とす。

「それがあれば、君の妻子は食うに困らず幸せになれるだろうね」

 楽しそうに笑顔を浮かべる店長の横顔を見ながら、あまりのうさんくささに、理の脳裏には、詐欺師みたいだな。という感想しか浮かばない。

「あ、ありがとうございます!!」

 中年男性は疑いもせずに、煙草を灰皿で揉み消すと、その宝くじの紙片を受け取り、笑顔でポケットへと宝くじを入れた。そして、

「じゃあそろそろ」

 あっさりと言いながら頭を下げた。

「良い旅を」

 店長も挨拶をすると、その中年男性が店から出て行くのを手を振って見送る。

 そしてそのまま伸びをした。背中からぽき、という関節の音が聞こえる。

「今日も良い仕事したな」

 店長ら腰に手を当てて立つ。そのツッコミどころ満載の店長の背中に、思わず疑問を口走る。

「――アレ、本当に当選宝くじなのかよ」

 店長の動きが止まる。背中まで伸びる髪を揺らして、店長が肩越しに振り返った。

 店の外の逆光も手伝って、その表情は良く見えない。

「鋭いね」

 やっぱり、と理は小さくつぶやく。

 詐欺師どころか嘘吐きだ。死にゆく者の願いを嘘の紙きれでごまかしたのか。

 腹が立って、遠まわしに店長をなじる。

「つーかひどくねえ? あのオッサンあんなに喜んでたのに」

 店長はその言葉に、ひどく穏やかそうな表情を浮かべた。

 理はその態度に、続く文句をひっこめた。

 失言を口走ってしまったような感覚に、怒らせたか、と肩を縮めて体をすくめる。

 なんというか、あんまり怒らせてはいけない人を怒らせてしまったような。そんな直観に上目遣いで店長の反応をさぐる。

「――やっぱり、お前は馬鹿だねえ」

 優しく罵倒される。

「だ、だって、あんなだますようなまねして」

「あの宝くじは本物だよ」

 え、と目を丸くする。

「本物の一等だ。駄菓子屋とはいえ、そこは嘘をつかない」

「だ、だだ、だって、さっき『鋭いね』って……!!」

「ひとの話は最後まで聞こうかね。続く言葉はこうだ『だけど、それで幸せになれるとは限らない』――生憎、願いをかなえる手伝いはするけど、中身の保証まではしないからね」

 意味が分からない。理の表情を悟ったのか、店長は、ふふふ、と笑う。

「それじゃ、あのオッサンの正体を教えてあげよう」

「――正体!?」

「結論から言えばね、彼は不倫の果てに、ここに来た」

 思わぬ言葉に、理は「え」と聞き返す。

「浮気だか不倫だか、まあ言葉の定義はさておき、あのオッサンは妻とは別の女性とも肉体関係を結んでいた。今日も今日とでしけこんだラブホで頑張ったようだけど」

 その言葉に理ははっとする。店にきた時に香水の香りがかすかに漂っていた。

 ひどく優しげな表情で店長は言葉を続けた。

「すっきりしてお帰りの際に事故が起きた。問題はその無許可営業のラブホだ。建物のメンテナンスもろくにしていなかったからね、エレベーターの事故であのオッサンは死亡したわけだ。ま、不慮の事故だね。これはまあ――不幸だね。実に不幸な事故だ」

「…………」

 わざとらしい同情の言葉に沈黙する。嘘っぽい口調だが、嘘ではないだろう。やはり勘がそう告げていた。

「――彼の妻子も、不幸なことだね。妻はワイドショーで事実を知ることになる。近所のスピーカーばばあが更にそれを近所に吹聴するから、肩身も狭くなる。妻の気持ちを代弁してあげよう『ああ、こいつがこんな死に方をしなければ』ま、当然だね。ヤケになった妻は、警察から返却されたスーツや宝くじの番号など、確認することもないまま捨ててしまうだろう」

 くくく、と店長は口元に手を当てて小さく息で笑う。

「運命とは、絡み合った事象の結果だ。良いも悪いもない。それをひどいと断罪するお前は、一体何様なのかな?」

 楽しそうに話しながら、店長がゆっくりと歩いて理の前に立つ。軽いのに重い、その威圧感に言葉も出ない。

 そして、がっと襟首をつかんできた。

 細身の割に力が強く、そもそもその迫力に、既に理は戦意喪失――というか委縮すらしていた。

「上っ面の善悪しか見ない奴は大嫌いでね」

 うさんくさい笑顔を浮かべている分、余計に怖い。そのまま襟首を引っ張られて立ち上がる。

 店長が、鼻先がつくほどの距離に顔を寄せてきた。

「物事の本質を見ようともしない馬鹿は、さっさと人生やり直した方が良い、そう思わないかな」

 優しい笑顔が逆に怖い。理は迷わず両手を小さくホールドアップした。

「――ど、どうですかね。あと、暴力はんたーい」

 その言葉に、店長はふん、と鼻をならして乱暴に理の体をカウンターの間から引っ張った。

 どけ、ということらしい。

「殴る価値もないな」

 あっさりと言いながら、店長は理と入れ違いにスペースにおさまってイスに座る。

 理は仕方なくビールケースのイスに戻ろうとすれば、ガラスの灰皿が置いてあって、背後から「持ってきてくれ」と上からの態度で言われる。

 仕方なく灰皿を手にして振り返ると、店長は、足を組んで煙草に火をつけているところだった。

 手のひらの中で炎が揺らめいてから消えて、薄暗さが戻る。

 理がおそるおそる灰皿を持って近づけば、

「すまないね」

 と何事もなかったかのような態度で灰皿を受け取った。

 理がそろそろとビールケースへと戻ろうとした時に、店長が誰に言うともなしにつぶやく。

「――まァ、不思議なもんだよな」

 へ、と理が店長の方を見れば、つまらなそうな表情で、ふう、と煙を空中に吹いた。薄暗い室内で白く見える煙は、緩やかかに肥大して複雑な形を描きながら色を失ってゆく。

「――どうしようもない。本当にどうしようもないオッサンだがね。彼が最後に願ったことは、裏切っていた妻子の幸福なんだよなア」

 理は思いついた感想を言ってみる。

「罪悪感ですかね」

「さあね。――ひとつ言うなれば、この顛末で誰も幸福になれなかったってことだけかな。妻も番号ぐらい確認すりゃいいのにな?」

 ちらりと店長の視線が理に向く。

 一攫千金のチャンスを不意にして、もったいないにも程がある。どこか他人事の口調でつぶやく。

「――そのくらい頭にきたんでしょ?」

 言って気づく。そうだ、妻は頭にきたのだ。

 不倫されてそこまで頭にくるなら、そこに愛はあった、……のかもしれない。

 可能性の話でしかないが。

 真相は、もはや棺桶か、スーツをゴミに出す焼却場の中にしかないのかもしれない。

「……ところでお前はいつまでいる気だ。邪魔なんだがね」

 その言葉にため息をつく。帰りたいが帰り方が分からない。その内思い出すのだろうか。しかし、その間外をさまよいたいとは思わない。

「仮に、仮にだけどさ」

 ふと思い付いたことを口にする。

「なんだい」

 新聞を広げながら、店長が素っ気ないながらも返事をしてきた。意外に律儀なのかもしれない。

「帰るまでここで働きたいって言ったら、置いてもらえるかな?」

 店長は顔を上げた。

「……はあ?」

「だって帰り道思い出せねーし、だからって下手に外動くのもなんかヤバそうだし」

 言ってしまえば名案にも思えて、うん。とひとつうなずく。

「――仮にそんな奴がいたとしたら、」

 新聞に目を落としながら、店長は呆れた口調でため息混じりに仮定の返事をしてきた。

「――……そいつはだいぶ変な奴だな」

「お前こそ変な店の店長だろ。――答えは?」

 新聞から少しだけ顔を上げて、わずかに口角を上げて笑う。

「考えてやらんこともない。こう見えて仕事はたくさんある。人間以外の客もくるし、厄介な客はお帰りいただかなきゃならん」

「よし決めた。面白そうだし、じゃあそうする。いいよな」

 また馬鹿だな、と言われそうな気がしたが、なぜだか拒否はされない予感がしていた。

「――才能なさそうだけどなあ」

 ぺらりと新聞をめくりながら、店長がぼそりと言ってくる。馬鹿と言われるより地味に傷つく。

「うるせえ、だとしたらお前の教え方が悪かったってことだろ」

「なんだそれは。弟子をとるつもりはないぞ」

 嫌そうな顔をされたので、嫌がらせをしてやる、と腕組みをして胸を張る。

「じゃあ師匠って呼ぶ!!」

「なんでだ」

「名前ないって言ったろ、好きに呼べって言ってたし」

「だからってお前、それは反則だろう。言葉には言霊といってだな」

「あーはいはい、なあ師匠、このチューインガム食べていい?」

 猫ビンの中に入っているカラフルなガムはさっきから気になっていて、フタをあけながら言えば「聞いちゃねーな」と渋い顔をされる。

 折れたのは店長の方だった。

「――好きにしろ」

 許可が出た。

 やった、と思った時、誰かの泣き声が聞こえた。

 なんだなんだ、と耳を押さえて、声がした外を見る。

 服を引っ張られるような感覚と同時にめまいを感じて、ふらついてたたらを踏む。

「――なんだ、結局帰るのか」

 笑いを含んだしれっとした声音に、そうなのか、と理も気づく。

「二度と来るな」

 ありがたいんだか、ありがたくないんだかよく分からない台詞で見送られる。

 霞む視界に、店長の姿が消えて行く。

 良かった、と思う反面どこか残念でもあった。

 あの店長が意外に面白そうだったからかもしれない。

 やがて近づいてくるのは定期的なモニターの電子音だった。泣き声は聞こえない。

「ちょっと、ここまで声聞こえてるわよ」

「あー、行ってくるね。警察も遠慮ないんだから」

 困っちゃうわよね。そんな会話がぼんやりと聞こえて、間近で聞こえるぴ、ぴ、ぴ、とうるさいその音に、寝返りを打ちながら腕についた邪魔なコードを引っ張ると、その電子音がうるさくなる。

 ピーピーうるさい音に、目ざまし時計がうるさい、と目をこすれば、

 ベッドサイドで点滴を交換しにきていたらしい看護師と目が合った。

「――あれ、ここ病院スか」

 硬いベッドと枕の感触に問えば、白い白衣を着た年かさの看護師が「そうよ。先生呼んでくるわね、大人しくしてて」と動じた様子もなく答えて、カーテンに囲まれた空間から出て行く。

 やっぱり結局薄暗いその空間は、人の気配があるのに静かで、カーテンがふわふわと揺れていて、どこか遠くに号泣する女性の声が響いていた。

 少しして、さっきの看護師と、首に聴診器をかけた白衣を着た若い男性の先生がやってきた。

「気分はどう? 痛いところとか、しびれは?」

 起きるように促されて、看護師に手伝ってもらいながら体を起こすと、服の上から聴診器を当てられる。

「――特にないっス」

「うん、検査も問題なかったから。でも、今日はこのまま病院にいてもらって、明日また検査をするからね。まだベッドの準備ができてないから、もう少しここで待ってて」

 ここはベッドじゃないのか、と眉をひそめれば、聴診器を首にかけなおしてから、その若先生は苦笑する。

「ここは救急外来の処置室。病室はまた別だから、ちょっと居心地悪いけど我慢してくれよ」

 その時に、若先生の背後のカーテンが揺れた。

「先生、警察が、ちょっと話を聞きたいって……」

「ああ、はいはい。それじゃあ、ここで待っててね」

 そして肩を揉みほぐしながら、その医者っぽくない医者は看護師に連れられて去ってゆく。

 側に残った年かさの看護師は、「ごめんね」と明るく笑った。

「準備できたらまた声かけるから、横になってて」

「あの……泣き声が聞こえるんですが」

 その言葉に、その看護師は困ったように視線をそらした。

「ああ、うん、他の患者さんがちょっとね」

「中年のオッサンじゃないですか。エレベーター事故の」

 その言葉に、その看護師はわずかに表情をくもらせた。

「聞こえてた?」

 その確認に、左右に首を振って否定する。

「――……さっき会った」

 変な駄菓子屋で。そこを伏せて短く言うが、意味を理解したのかその看護師が微妙な表情を浮かべた。

「あの、メモ用紙とかありますか」

「え、ああ、――はい」

 戸惑いながらも、その看護師はポケットの中からクリップに挟まれたメモ用紙とボールペンを差し出してきたので、受け取って、膝の上に置く。

「お願いなんですけど、もし伝えられたら、いや、無理だったらいいんです。タイミングがあえば伝えて欲しいんですけど」

 メモ用紙に『ご主人のポケットの宝くじ、一等ですよ。ご主人より』と、迷いながら書く。

「奥さんに、渡して下さい」

 余計に怒らせるだろうか。

 傷つけるかもしれないし、苦しめるかもしれない。

 しかし、理の中で確信じみた何かは、先ほど見ていた夢が夢ではないことを告げていた。


 『――ひとつ言うなれば、この顛末で誰も幸福になれなかったってことだけかな』


 店長の言葉が脳裏をよぎる。

「無理だったら、このメモごと捨てて構いません」

 そのメモ用紙を受け取った看護師は、見るからに困って迷っていた。

「なんか、さっき会ったご主人が言ってたんです」

「――そ、そう」

 その声音に、明日の検査項目は増えるかもしれないな。と思いながらも、もう考えるのも面倒になって、

「じゃあ、ちょっと休みます」

 そう言いながらゆっくりと横になる。

 看護師がそのメモ用紙をポケットに入れて、カーテンを抜けて出て行くのを見ながら、耳をすませば聞こえてくる女性の泣き声にため息をついて天井を見上げる。

 何か変わるかもしれない。変わらないかもしれない。

「古びても、愛があったんだよ、多分」

 自分と脳裏の店長に言い聞かせるように小さくつぶやき、理は目を閉じた。

 お気に召さないなら、せめて換金して寄付でもしてくれよ。

 誰も幸せになれない顛末なんか、あの店長もきっとのぞんでないんだからさ。

 それでいつか、あのいけすかない店長に、ざまあみろ、って笑ってやるんだ。

 寝がえりを打って、薄い布団を肩まで引っ張り上げる。

 馬鹿だな。という店長の声が聞こえた気がした。


終。


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