釣果カウント1は、人生転機の始まり
※この小説は、伊賀海栗さん主催の「インド人とウニ企画」参加作品です。
※2019.6.27追記:雨音AKIRA様よりシーン抜粋のイラストを戴きましたので、ページ最後に載せさせていただきました!とても素晴らしい絵です( *´艸`)
雨音さん、ありがとうございます!
※2019.7.2追記:秋の桜子様より扉絵を戴きましたので、トップに載せさせていただきました! 秋の桜子さん、ありがとうございます~(*´▽`*)
――おかしい、と思い始めたのは何時頃からだろうか。
動画配信サイトで釣りを楽しむチャンネルの動画を見るようになり、彼らが釣った魚やイカを捌き、自宅で食べて「うんめぇ~!」と団欒を過ごす様子を見ているうちに、俺はいつしか彼らのような生活をしてみたいと思うようになった。
もちろん、いきなり会社を辞めて「動画配信だけで生きてやる!」なんて無謀なことは考えない。
あくまでも今の生活を維持したまま、趣味として彼らの釣り生活をトレースしたくなったのだ。
魚を釣り、自分で捌き、好きなように食す。
寿司好きな俺としては中々に悪くない未来予想図だ。市場に売ってないだけで、食べれば美味い魚はそこら中にいる。釣りをする、ということは、そういった魚も自分の采配次第で食す機会を得られるというわけだ。
というわけで、半年前。俺は早速、形から入ることにした。
何事にも知識と準備は必要だ。
まず釣りに必要な竿を二種、ジギング用とアジング用を買い揃えた。ジギングというのはメタルジグという金属製ルアーを使う深い水域を泳ぐ魚を釣るための専用竿だ。サンマやマグロなどの回遊魚――いわゆる青物と呼ばれる魚を釣るための竿ってところだな。パワーのある回遊魚を釣るため、竿の強度もかなり強いものだが、その反面、引きの際の感度が鈍いため、小魚を釣ることには向いていないと言える。
対してアジングはその名の通り、アジなどをターゲットに作られた竿である。こちらはジギングとは逆に軽量の魚を釣ることに向いている竿と言えよう。ゆえに引きの際の感度も良く、小さな当たりでも慣れてくれば波との違いを感じ取れると聞く。また、アジングロッドではイカを釣るのにも向いているという情報を仕入れたので、こちらも購入したわけだ。根魚などをターゲットにする際もこちらの竿で問題ないだろう。
ふふ、釣りなんざ今まで釣り堀でしかやったことのない俺だが、ネット社会の今……海釣りに何が必要なのかを調べることなんて造作も無いことだぜ。
ルアーも各種、揃えた。
リールも竿に揃えて二種用意し、PEラインも予備含めて準備。
俺はてっきりこの釣り糸とルアーを結ぶだけでいいのかと思っていたのだが、念のため調べてみたところ、実はこのPEライン。摩擦に非常に弱いらしく、海底の障害物に接触しやすいルアー側にショックリーダーという摩擦に強い糸を挟まないと、すぐに切れてしまう代物らしい。事前知識の重要性がまさに試される場面であった。俺はショックリーダーも十分な数を用意した。
磯や砂浜で釣りをすることも考慮し、長靴からライフジャケットまで完備した。折りたたみのバケツ、保存用クーラー兼椅子も買い、持ち運び用の台車も買った。
……一分の隙も見当たらないほど、完璧な装備だ。ゲーム開始前に伝説の勇者の武具一式を揃えた気分だぜ。
しかし、ここまではあくまでも「釣る」時の道具であり、「釣った後」の道具としては不足が目立つ。
俺は引き続きネットの海を彷徨い、釣り専用サイトを巡回したり、投稿動画を見渡し、その末に吟味して選び抜いた道具も揃えていった。
包丁やまな板も新鮮な魚を捌くための調理道具を数種購入する。
また、釣った後の鮮度を保つため、血抜きと神経締めが必要だ。釣ってすぐの魚は当然ながら暴れだす。そうなると、魚は自傷行為により出血し、白身や赤身に血が混ざり込んでしまう。そうすると一気に鮮度は下がり、味も悪くなってしまうのだ。それを防ぐためには、血抜きをするのがベターであり、欲を言えば神経締めをするのが理想である(とネットに書いてあった)。
血抜きはもっとも血流が早い尾の付け根を切り、しばらく海水の中で泳がせるのが良い。もちろん海に返せば魚は泳いで逃げてしまうので、バケツの中に入れるか、磯ならば石を並べてから海水を入れて簡易的な堀を作り、その中で泳がせておくわけだ。
その後に魚の神経を締めるための針を使い、切った尾の付け根から見える神経に上手く刺す。そうすると神経が麻痺したままの状態になるので、鮮度が長く持つ……らしい。
この辺りは正直、色々な話がネット上に転がっていたので、俺にもどれが最善なのかは悩みどころだった。「神経締めるなら血抜きはいらない」とか「血抜きするなら神経締めなくてもいい」とか、色んな論点があったが、さすがにその辺りの判断はできないため、俺は万全を期すために両方行えるよう、装備を整えることにした。
魚によって神経の場所も違うため、俺はその後、多くの神経締め動画を眺め、知識を取得していった。
費用にして20万円弱。しがない平凡な社会人の俺にとっては手痛い出費だったが、まあ……初期投資と思って今後の釣りライフで取り返すこととしようと決心した。
さてここまで来れば準備万端、さあ釣りに行こうぞ! と思いがちかもしれないが、俺は油断しない。
道具を揃えたところで、釣り方を学ばなくては意味がないのだ。
ルアーの投げ方、竿の動かし方、ルアーによる巻きのタイミング。その全てが釣る魚によって異なるケースが多い。
俺としては手始めに、アオリイカやマゴチなどの根魚を標的に定めていたので、そちら方面の動画を中心に情報収集の日々を送った。
何度も動画に合わせて、手首だけでイメージトレーニングを繰り返し、俺の脳内では既にバケツに入りきらないほどの釣果で溢れかえっている。――自信が漲ってくる、そう感じることができた。
ついでに魚図鑑も買い、毒魚などの対処法も学び、何が食べられて何が危険なのかを念入りに調査していく。船を持っていない俺が釣り場とするのは堤防か磯、もしくは砂浜になるわけだが、そこで釣れる魚の中で特に危険なのはフグだ。だが、フグなんて独特な形状の魚は見ればすぐにわかるので、釣れたら海にリリースすればいい。
毒魚で一番ヤベェと思ったのはツムギハゼだった。比較的浅瀬に近い砂浜などにも生息しているハゼの一種なんだが……何がヤベェって、普通のハゼと見分けがつかねえ……。ハゼと言やぁ天ぷらが絶品と聞いて、そりゃ釣りするならいつか釣って食べたいと思っていたんだが、正直、釣った奴がツムギハゼだった場合を想定すると釣る勇気が湧かなかった。このツムギハゼ、フグと同じ毒で、致死率50~60%だとよ……怖ぇ怖ぇ。
オニカマスなど猛毒を持っている海の魚だが、コイツも普通のカマスと何が違うんだって感じだ。ちょっと顔が怖ぇな程度の違いしか分からん……。ま、俺みたいな素人は、こういう毒魚と見分けがつかない系統の魚は狙わないのが無難だと思う。仮に釣れたとしても即リリースが鉄則だな。
アオリイカにもアニサキスっちゅう寄生虫の危険性はあるが、コイツは視認できるし物理攻撃も熱処理も利く相手だ。肝をこさずにそのまま食べようとさえしなければ、細心の注意を払っておけば大丈夫だろう。イカは他にも精莢ちゅう危険器官があり、誤って食べれば――釣り針のような返しがついた精子に口の中がズタズタにされる恐ろしい事態に陥ることもあるが、まあ……これも注意して取り除けば大丈夫だろう。
あとはカサゴなどの針毒、ウナギなどの血毒、シガテラなどの食中毒ぐらいだろうか。カサゴなどは針をハサミで切れば美味しく戴けるので、注意点は切った毒針を釣り場に落とさないことだろう。毒針は切った後も毒を持っているため、誰かが誤って刺してしまわないよう海にきちんと戻すことが釣り人としてのマナーである。
ウナギは釣るつもりはないし、そもそも生で食おうなんて思う奴はいないだろう。シガテラはまあ……当たったら運が悪かったということで。シガテラは熱帯海域に生息する毒性のプランクトンが原因で、そのプランクトンを食べた小魚の中に毒が入り、その小魚を食べた大型の魚の中に圧縮された毒素が溜まることで食中毒にまで発展するやつだ。熱帯海域、つまり沖縄で取れる大型魚が一番ヤバい。関東近郊で釣りをする予定の俺に注意する必要は無いのかもしれないが、最近、水温が上がってきている関係で関東でもシガテラの症状が出た人もいるからな。こればっかりはアタリを引かないよう祈る他ないな。
――よし、装備は万端、知識も上々。もはや俺に死角なし。
あとは魚たちが食事を開始する時間帯――朝マズメ(夜明けから日の出までの前後1時間程度)か夕マズメ(日没前後の1時間程度)を狙ってフィッシングするだけだぜ!
そう意気込んで、釣りを始めたのが半年前の出来事であった。
――そして、現在。
俺の通算釣果は――――未だにゼロだった。
おかしい、こんなはずではなかったのだ。
土曜日の深夜。金曜の終電に乗り込んで、飲み帰りの連中と入れ違うようにして俺が近くの港まで足を運ぶ。簡易コンロに火をつけ、沸かせたヤカンのお湯をカップラーメンに流し込み、夜食を食いながら朝マズメの時間帯まで身を潜めた。
寒い。夜の海辺はマジで冷え込む。心も冷え込む。
クーラーボックスを椅子代わりに、月灯りの揺らめく波の動きを眺めながら、俺はジッとその時を待った。
半年前に買った包丁類は、いまだ未開封の箱の中。血抜き用のハサミや神経締めの針だって、毎度持ってきてはいるものの、未使用の状態だ。今日こそ、アイツ等に日の目を見させてやりたいと心に決めつつ、俺は遠い地平線から朝日が顔を覗かせる時間を待つ。
正直、舐めていた。まさか釣りが……ここまで難しいものだとは。
ズルル、とラーメンを啜りながら、寒い場所で食うカップ麺ってマジで美味いよな、なんてどうでもいいことを考えながら、冷え込む風を耐え忍んでいく。
やがて。
朝マズメの時間帯が来て、俺は竿を振った。
何度も何度も何度も。根がかりで貴重なルアーが海の藻屑に変わり果てても、隣のおっちゃんが息を吸うように釣果を上げていても、俺は振り続けた。
しかし釣れない。
アプローチを工夫し、色々な攻め方をするが、全く以って反応がない。唯一の反応は根がかりぐらいだ。隣のおっちゃんはついに憐れみを浮かべた視線を俺に向けているような気がしたが、俺はそれに気づかないフリを続けた。
朝日は昇り、朝マズメの時間帯は通り過ぎ、温かな陽気が港を照らす午前10時ごろ。気付けば隣のおっちゃんはとうに帰っており、逆に家族連れやカップルなど、釣果を求めるのではなく、釣りの雰囲気を楽しむグループが増えていた。
「……………………………………」
俺はそっと竿を引き、虚しく海水をポタポタと落とすルアーを眺め、ため息をついた。
「帰って、寝よ」
そう呟いて、帰り支度を始めようかと思った時だった。
「オー、ウニー」
何とも間の抜けた明るい声に、俺は思わずそちらに視線を向ける。
いつの間にか少し離れた堤防に、やや日焼けした女性がしゃがみ込み、海の中を覗いている姿があった。
顔立ちからして日本人ではない? そんな感想を抱きつつ、俺はその人から眼を離せないでいた。なぜかって? いや、あまりにも身を乗り出して海面を覗きこむ姿が、今にも落ちそうでおっかないからだ。決して整った顔立ちに見惚れていたわけではない。
しかし見たところ、釣り道具の類は持っていないようだが、何しに来たのだろうか。彼女の傍には100円均一で売っているような青い丸バケツ一つあるだけだ。
「お魚……たくさん」
独りごちながら、姿勢を低くし、右手を海面に入れてバシャバシャし始める。幸い彼女の近くで釣りをしている人が俺だけだから良かったものの、下手をすれば迷惑行為で喧嘩になりそうな行動だ。言動からして足元を泳ぐ小魚の群れを手で掬おうとしているのだろうか。右手を引き上げて、その掌に何も乗っていない様子を見て、彼女は少し落ち込んだような顔をしていた。
いやいや……手で掬えたら苦労しないだろう。
半年釣果ゼロの俺の前で、道具なしで小魚といえど釣果を上げられた日には立ち直れそうにないぞ。
「ウニー」
そのまま観察していると、今度は彼女、もっと身を屈めて何かを取ろうとさらに右手を伸ばした。
ウニーって、ウニのことか? こんな場所にウニなんているはずが……いや、待て!
決して披露されることの無かった俺の知識の中で、堤防近くで見られるウニのような生物に思い当たるものがあった。
「ちょっと待て! それに触れるな!」
慌てて竿を放り出し、俺は女性の両脇に腕を入れ、彼女を思いっきり後ろへと引き戻した。
「きゃっ!?」
「どわっ」
焦りすぎたせいか、力加減を誤り、俺は派手に背中を打ち付け、その上に女性が乗っかる形となった。
「す、すみません……! あー、ソーリー、ソーリー!」
「……っ!? ……っ!?」
何が起きたのか分かっていないのか、間近で見る彼女はあたふたと俺を見たり、周囲を見たりと忙しなく視線を動かしていた。
さすがにこのままだとマズイと感じた俺は、すぐに彼女から体を離し、悪意がないことを証明するために「ソーリー、ソーリー!」と何度も謝った。
やがて俺の意思が正確に伝わったのか分からないが、彼女は「オオゥ……大胆な、日本人」と呟きつつ、俺の顔をマジマジと見上げてきた。とりあえず誤解を解く前に叫ばれる……という事態は回避できそうな気配に俺はホッと息を吐いた。
「あー、申し訳ない。えっと、別に君を襲おうとか、そういうわけじゃないんだ。その、アレだ。君が手を伸ばそうとしたウニ。アレは危ないやつなんだ。分かる? 危ない、危険」
「危ない……ウニ、危ない? でも、美味しい、よ」
首を傾げる女性。たどたどしい日本語ではあるが、どうやら俺の言葉は通じているらしい。見た目的に……インドかどこかの女性だろうか。あんなことをした後なのに、警戒心は既に薄れており、小首をかしげる仕草が普通に可愛い女性だった。
彼女の関心は既に俺でなく、再びウニに戻ってしまったのか、ちょこちょこと歩いて再び堤防の下を覗きこむ。
また手を伸ばしたら止めようと思いつつ、俺も彼女の横に並んで海面下を見下ろした。
晴天のため、比較的クリアに見れる海の中には、小魚たちの群れが泳ぎ回っていた。遠目に小魚を追うシーバスの魚影も見え、俺は心の中で「もういっそのこと網で掬いてぇ」と愚痴った。
視線を堤防の壁際へと移動すると、確かにウニのような影が幾つか確認できた。
まあ、知らなけりゃ確かにやけに棘が長いウニにしか見えんわな、ありゃ。
「あれはガンガゼって言ってな。ウニの仲間だが、あの長い針には毒があるんだ。食用のウニは掌に載せても刺さらないけど、あれはマジで刺さる。しかも毒による激痛も走るらしい」
「ウニー、ちがう?」
「ウニの友達だけど悪い奴、って感じかな?」
「悪い子ー、食べれない?」
「あー、確か食べれたと思うけど……味はどうなんだろう。少なくとも好んで食べる話は聞かない、かな」
「おおー、物知りー」
パチパチとはにかみながら拍手をする女性。それにつられて褒め慣れていない俺は、思わず照れてながら後頭部を掻いていた。
そうこうしていると、クイックイッと袖を引っ張られる。
スッと視線を上げれば、間近に女性の顔があって、驚く。端正に整えられた睫毛まで見える距離に、30歳を超えても魔法使いになれなかった俺の心臓は跳ね上がる。
そんな俺の心情など気にもかけずに、女性は嬉しそうに袖を可愛く引っ張りながら、海面の方を指さした。
「ねえねえ、あれはー」
「え、あ、あ~っと……多分だけどボラとかの幼魚とか、じゃないかな?」
「へぇ~」
キラキラと日光を反射させながら、複数種の幼魚たちの魚群が絶えず足元を泳いでいる。おそらくボラに限らず、イワシやアイゴなどの幼魚も混ざっているのだろう。
「あっ! アレ、アレは?」
「え、どれ?」
水面の眩しさに負けず劣らず、純粋な目を輝かせて女性は次の獲物へと指をさす。
一瞬、どれを指しているのか分からず問い返すと、彼女は「あれ、あれ」と嬉しそうに人差し指を振る。
彼女の指先は決して泳いでいる魚を指しているわけではなく、海底の岩を指している気がした。岩――よく目を凝らすと、空洞が中に出来ているようで、岩の隙間からニョロニョロと何かの触手が僅かに出ていた。
「なにか、出てるー」
「ちょっと待った……もしかして、アレって……」
俺はゾワッと背筋に走る感覚に思わず笑みを浮かべた。袖を掴んでいる彼女に断りを入れ、俺はまだ仕舞わずにいた竿を手に持ち、急いでルアーをエギ(エビの形をしたルアー)へと差し替える。
準備が済むと同時にキョトンとしている彼女の元に戻り、俺は彼女に今日一番の笑みを向けてルアーを慎重に例の小さな岩付近まで降ろす。そしてゆっくり……ゆっくりと小刻みに揺らしながら、まるでエビが海底を歩くかのように動かしていくと――シュルッと岩の中から触手が伸び、エギを捉えていく。完全にエギが触手の深くまで飲み込まれていくところまで待ち、俺はそこで竿を掴む手に力を込めた。
――キタァ!
目に見えている分、タイミングを測り易い。
軽く引いて大きな抵抗が帰ってきたことを受け、俺はそのまま一気にリールを巻いた。
「お、お? おおーっ!」
隣で歓喜の声をあげる女性。その気持ちは俺も同様で、釣果ゼロの男から抜け出す最大のチャンスを前に、俺の気持ちはかつてないほど昂ぶっていた。徹夜明けの疲労なんて、もう微塵も残らないほど吹っ飛んでいった。
岩の穴から出てきたのは、真蛸だ。触手の根元にある口腔でしっかりとエギに食いついた真蛸は、足で必死に岩にへばりつき、抵抗を試みるが、リールを巻く力の方が圧倒的に強い。やがて真蛸は徐々に岩から離れていき、ついには海面からその姿を現した。
「うおおおおおおーっ!」
「たこー!」
堤防の上まで引き上げた蛸を見下ろし、俺は思わず拳を突き上げた。名前も国籍も知らない中だというのに、純粋に喜んでくれる女性とハイタッチまでしてしまう。
彼女が見つけてくれたのは、天然の蛸壺だ。蛸はああやって壺型の岩場を好んで住処にする。不思議なことにこうして蛸を釣りあげると、次の日にはまた別の蛸が同じ場所を住処にすることが多いので、こうして蛸壺を見つけるというのは釣り人にとってかなり有益な情報となる。
「ニョロニョロー」
堤防の上で軟体を複雑に蠢かせる真蛸を、指でツンツンする彼女に自然と笑みが零れてしまう。
やっべぇ……マジで嬉しい! 嬉しすぎるぞ! これが俺の釣果第一号の真蛸くんだ! よ、よし写メ撮っておこう……!
10枚ほど様々なアングルを撮った後、流れで女性とツーショットの写真も撮る。
無論、食べる気満々な俺は下処理を開始するため、血抜き用のハサミを取り出し、蛸の足と胴体の筋を切り、不慣れながらも蛸の胴体を裏返していく。やがて出てきた内臓や墨袋を慎重にハサミで切り取っていき、それらは魚の餌になるので海へと戻していった。
蛸の締め方はこれで大丈夫なはずだ。あとは低温火傷しないように、クーラーボックスの氷の上にタオルを敷き、ビニール袋に入れた真蛸をその上に置く。
「よしっ!」
ガッツポーズをとる俺の横で、女性は口元に指を当てながらポツリと「たこー」と呟いた。その言葉に俺はハッとしてしまう。釣れた歓びがあまりにも大きすぎて、何度も夢見た自宅までの持ち帰りから調理へのルートを辿りそうになってしまったが、良く考えれば彼女無くしてこの真蛸を釣る未来というのは無かったのだ。
閉ざされたクーラーボックスの蓋を見つめながら、切なそうにする彼女に……俺は勇気を出して尋ねてみた。
「そ、その……」
「?」
俺の声に反応して、こちらを見上げる女性。
「い、一緒に……た、食べます? この真蛸……」
女性にこうした提案をすること自体初めてな俺は、少し上擦った声となってしまった。しかし言葉はきちんと発音され、彼女にも正確に伝わったようだ。
女性は徐々に破顔していき、最後はパァッと笑みを浮かべ「うん!」と返事をしてくれた。
くっそ、マジで可愛いな、オイ!
思わず口元を手で覆いながら、悶えてしまう。
何となく俺にとって「釣りの女神」的な存在になった彼女と、もっと長く居られるのは願ったり叶ったりなのだが、問題は調理場所だ。まさか今日初めて出会った彼女を一人暮らしの我が家に連れてくるわけにも行くまい。
そのことを相談すると、彼女は「わたしの家! 店! カレーのお店!」と返してきた。これはつまり、彼女の家にお邪魔していいということなのだろうか。
その後、釣り道具一式を片付ける間に、色々と話をした。
彼女は予想通りインド人の子のようで、19歳らしい。7歳までインドで住んでおり、それからは日本で店を開きたいということで来日した両親についてきた形らしい。日本語の聞き取りは完璧だが、イマイチ流暢でない理由は7歳までインドにいたためだろう。
名前はダーシャという。
ダーシャが何故こんな漁港に一人で来ていたのか、疑問に思って聞いてみると、彼女の自宅兼カレー屋で何でも両親が新しい料理を開発している話へとシフトしていった。
漁港が近いことから、シーフードカレーを新たなメニューに入れようと最近計画しているみたいなのだが、新鮮な魚介類を捌いたことが無かった主人は、市場から仕入れてきた魚に四苦八苦。それを影から応援していたダーシャも「何かしたい」と強く思った。
その結果がダーシャも魚介類の捌き方を練習して、少しでもお父さんである主人の負担を減らすことだった。
それがどう漁港に来ることに繋がるのかって話だが、どうもカレー店の経営はあまり上手くいっていないようで、材料費も色々と切り詰めているという厳しい現状があるらしいのだ。新商品開発もそういった背景があっての挑戦なのだろう。
あまり我儘を言って両親に負担もかけたくないダーシャは、こうして漁港に一人で赴き、何かしら魚介類を獲ってきて、自分でも色々と試してみようと思ったんだとか。それで手近なところに生息しているウニの仲間であるガンガゼに目が行き、獲ろうとしていたわけだ。
なんという親孝行な娘だろうか。
俺はその想いに心がグッと熱くなり――、
「だったら俺がダーシャさんの店で魚介類を捌くよ!」
と思わず言葉を口走っていた。
言ってから「あ」と我に返る。あまりにも後先を考えない発言な上に、まるで……プロポーズにも聞こえるような言葉だったじゃないか!
俺はダーシャに呆れられるんじゃないかと冷や汗を掻きながら、何か言葉を紡ごうとするが――その前にダーシャが俺の右手を両手で包み込み、「ほんと!?」と喜色を露わにした。
その笑顔があまりにも眩しく、俺の小さな悩みを諸々吹き飛ばす威力があるものだから――俺は自分の心のままに「うん」と答えていた。
最初は魚を釣って、自分で調理して、美味しく食べたいと思って始めた――釣り。そのために身に着けた知識や情報は魚が釣れて初めて役に立つとばかり思っていたけど……人生、本当に何がどう転ぶか分からないものだと実感した。
俺はこの日、真蛸だけに関わらず、最大の釣果を上げることになったのだ。本当に初めて尽くしの記念日となった。
それから4年後。
俺はお義父さんと肩を並べて包丁を滑らせ、愛する嫁の応援を背に、カレー店の繁盛のために汗を流している。
もうすぐ新しい家族が増える。ある程度大きくなったら、家族全員で釣りに出かけるのもいいかもしれないな。
店の隅には、あの偶然の出会いを彷彿とさせる――カレー屋には似つかわしくないウニと蛸のぬいぐるみが仲良く肩を並べていた。
企画の条件の一つに「重苦しい(任意)」というものもありましたが、全く重くなりませんでした(笑)
(むしろ、フワッフワですわ~\(^o^)/)
ガンガゼ「……出番、少なくないっすか?」