縦縞のパジャマ
信さん、けじめの覚悟の時が来たみたいやな。帰れや!
これは、3・11震災の年に書いたものである。被災地から出る人もあれば、帰る人もある。 原発事故で無人になってしまった町の映像がテレビに映った。捨てて出てきた家が映っていた。物干しに信吾が愛用していた〈縦縞のパジャマ〉が干してあった
p1 大阪テント村
大阪城の見える公園にある青テント村は村と呼んでいい。大阪でも一番大きなホームレスのたまり場である。鶏を飼って卵を食に載せる者や、大胆にも一畦の畠を作り野菜を食卓にのせる者あり、電燈線から電気を引き、テレビをつけているものありであった。洒落て、「盗電これ東電」と云ったのは、向かいのテントの笠本先輩である。
ここの村で住めば、一日前でも先輩は先輩、まして年長者となればなおさらだ。といって、いたって民主的。選挙もなければ、独裁もない。何となくテント村の世話役をやりたい奴も出てくる。 一緒に安酒をくみあわせば、人格骨品おのずから知れる。何となく、一年交代になっているようである。前任者が後を指名する。後任者をほとんどが了承する。特別なメリットはないが、共同生活の大切さは、皆知っている。 笠本先輩は皆から〈笠っさん〉と呼ばれている。3年前の世話役で、西の国が初めての信吾の世話を何くれと焼いてくれた。歳は一廻り違うが、何故か話しがよくあった。笠っさんは地元、大阪の出身で、機関銃のようによく喋る。国家の政治、経済に一見識を持っている。笠本三十四、〈三銃士、ではない、さとしと読む〉太平洋戦争の南方で戦死した父の死んだ歳で、笠っさんはこの年、昭和19年に生まれた。 笠っさんは、またテント村の情報は隅から隅まで把握している。何よりいいところは、相手に同意を求める話し方でないこと、偉そうぶらないこと。そして何より話が楽しい。笠っさんの周りには何時も人の輪が出来る。
笠っさんの自慢話は、高校野球で甲子園に出たこと、酔うと必ず、「1回戦、1回裏、ツーアウト満塁。サードゴロや。俺は〈しめた〉と取ってファーストに投げた、白いボールはファーストミットのはるか上を飛んでいった。結果その回に5点が入って6対2で負けた。人生の無情をあれ程感じたことはなかったでぇー」と何時も語る。 「プロ野球の話もあったが、無情の世界には住みたくないと断った」は、どうも眉にツバを付けたほうがよさそうである。
人の輪に疲れたときは、信吾のテントに酒を持って訪れる。笠っさんのテントは、TV,冷蔵庫、洗濯機、レンジ、オール電化されている。勿論これらは拾ってきたものだ。これで電気代が〈ただ〉だからこたえられない。地下でお前にも配線してやるといってくれたが、慎吾は丁重に断った。ばれて、お縄を戴きたくなかったし、それより必要な時に使わしてもらえれば十分だった。
野村信吾はこの村に流れ着いて、かれこれ3年になる。まだ、新兵の口である。 ホームレスの生活の糧がアルミ缶のリサイクルで成り立っている事は、今や皆が知っていることである。夜中に自転車で自動販売機の横のプラスチックの空き缶入れをあさっていることをイメージされる人が多いと思うが、あれは本当に効率が悪く、殆ど稼ぎにならない。
飲食店、ホテル、病院等の施設からの回収を抜きには語れない。大口、安定供給先なのである。この大口先の開拓、維持の営業マンが笠っさんなのである。当然得意先への付け届けは欠かせない。でも一番は、やはり人間関係と、約束を守る事である。 回収に来たり来なかったりでは、相手が困ってしまう。約束の定時には必ず行く事、置いてくれている場所の清掃、そしてホームレス自身が、出来るだけ清潔な身なりを心がける事である。これらの事には、笠さんは厳しい。ルーズをすると他に回されてしまう。
p2 テレビに映った故郷
新入でも村でいきなり生活できるのも、笠っさんが早速に得意先をあてがってくれるからである。笠っさんは見返りも要求しないし、そのことで特別威張りもしない。営業マンとしてプライドが保たれればそれでいいのだ。皆は親しみと若干の尊敬をこめて〈村長〉と呼ぶ。 酒を飲んでの喧嘩は絶えなかったが、テント村の生活は何も持たない者同士が暮らすには、「穏やかで暮らしやすい」と信吾は思っていた。テント村の住人達も程度の差はあれ、同じような思いだったに違いない。
帰れないと思っていた故郷がテレビの映像に映っていた。彼の家がその映像の中にあったのだった。あの日、家を出たままが映っていた。違うのは、誰も住んでいないガラーンとした町の気配だけであった。 3階建ての小さな家、玄関脇の駐車スペース。その脇に妻が苦労しながら狭いスペースに洗濯物を干していた。信吾が着ていた縦縞模様のパジャマが干してあった。信吾が最後に家を出るとき目にした光景が、そのまま、そこにはあった。一瞬の映りだったが、信吾には静止画像のように長い時間に思えた。
信吾の家は、福島県双葉郡大熊町。原発の20キロ圏の中にあった。信吾はこの町で小さな印刷工場を営んでいた。妻は春菜といった。小学校からの同級生で、親友だった和田泰明の妹だった。 家も近所で幼いころからよく一緒に遊んだ。春菜は兄、泰明にいつも金魚のフンのようにくっ付いていた。信吾たちは仕方なく遊びに入れるしかなかった。変な意味でなく、春菜はほとんど、男遊びしか知らない。小さいときはかくれんぼ、缶けり、木登り、川遊び。春菜は生き生きしていた。
川遊びで、春菜には忘れられない思い出があった。皆で葛尾村の清流に遊びに行った時のことだった。泰明たちは小学校5年生で、春菜は2年生だった。散々遊んで、さぁー帰ろうとなった時、泰明がポケットをもそもそして、そして川底を探し出した。ポケットに入れていたお金がないという。春菜の分も含めて帰りのバス賃だった。ポケットに穴があいていたのだった。 皆で探したが、その内、皆は帰りのバスの時間が気になりだした。余分なお金など持つものは当時なかった。田舎のバスは本数が限られている。皆は急にそわそわ、泰明の顔は今にも泣き出しそうであった。その顔を見ていると春菜もどうしていいか、泰明が泣いたら一緒に泣いであろう。
「僕が、残るよって、みなバスで帰り。暗くなったら、僕が泰明と春菜を送って行くよって」と云ったのは、普段おとなしい信吾だった。泰明は勉強もスポーツもよく出来たが、方向音痴であった。結局、落としたお金は見つからず、3人は歩いて帰ることになった。 別かれ道にくると、信吾は幼い日、父と一緒に来た日の記憶をたぐり、「こっち」と云って、何とか無事帰れた。少年と少女の足では何時間もかかった様に思われた。空には月も、星も出ていた。春菜は何故かその日の記憶がズート鮮明に残っている。人家とてない暗がりで怖くなったときは大声で歌を歌った。「赤とんぼ」だの「夕焼け小やけ」だの、「七つの子」を歌ったときは、3人泣けてきて途中でやめた。
大きくなっても、春菜はソフトボールのチームの一員であった。相手チームから「女を入れんと、メンバーが組めないのか?」と野次られたが、春菜はセカンドで、守備だけでなくバントや盗塁で欠かせない2番でもあった。兄の泰明はエースで4番、信吾はライトで9番。信吾はあまり上手ではなかった。 男たちが中学生になって、軟式野球に切り替わっても、春菜はセカンド2番であった。信吾は相変わらずライトで9番、ドタドタ前進、バタバタ後退、そしてポロリであった。
一度、地区大会の決勝試合、0対0で9回表、トップバッターだった信吾は四球を選んで出塁した。ピッチャー、次のバッターに投げた。何を思ったのか信吾が二塁に向かって走った。皆は目をつぶった。信吾の鈍足を知らないものはない。 「ワァー!」と歓声が上がった。何事?と見ると、信吾はセカンドベース上でにっこり。ボールはセンターの前に転がっていた。信吾の盗塁?が効いて、1対0で勝った。信吾のセカンド上での得意げな表情を春菜はよく覚えている
p3 突然の求婚
泰明や信吾が高校に進んでチームはなくなり、春菜は彼らとの遊びとは縁がなくなった。春菜が高校に上がった時は、泰明は歯科医の後を継ぐべく、仙台の大学に進んだ。泰明の祖父も医師で泰明の家は地元でも名門であった。信吾は高校を出ると家業の印刷屋を手伝った。信吾の家は両親に職工が2人ほどの小さな印刷屋であった。 高校の帰り、作業服を着て自転車に乗った信吾に出逢っても、信吾は目礼するだけになってしまった。春菜は何か話しかけたかったのだが、信吾の避けるような素振りを見ると慮った。
春菜は高校を卒業すると、兄、泰明と同じ大学に進んで、歯科医の道を選んだ。泰明は4年生だった。歯医者になりたいより、兄と一緒の大学に行きたかった方が大きい。 あれは、大学2年生の夏だった。高校時代、信吾はよく泰明を訪ねて遊びにきていたが、泰明が大学に入ってからは、学校の休みに帰って来ても、信吾は来ることはなかった。その信吾が訪ねてきたのだ。
玄関口に出た春菜は兄の不在を告げた。「今日は春ちゃんに話があって来たのや」と思いつめた調子で信吾は言った。玄関に母が出てきて「久しぶりじゃね、信ちゃん」と云って座敷に通した。冷たい麦茶を春菜が持っていくと、両手をついて、「春ちゃん、印刷屋を手伝ってくれんけ」と頭を下げた。あとは春菜の目を見つめたままの沈黙であった。その言葉が求婚の言葉であることを理解するのに、春菜はしばらく時間がかかった。
泰明が帰って来て、春菜はそのことを告げた。泰明はさして驚いた様子もなく、「お前はどうなんだ?」と訊いてきた。「突然やから、びっくりしてしまって…、考えさせて下さいと言うつもりやったのに、うんと首を振ってしまったの」と答えた。何故首を振ったかは自分でもわからなかった。あんな真剣な思いつめた顔を見せられたら、とっても横には振れないと思ったのだった。
「同情では、結婚出来ないからな!」と泰明が云った。春菜は、葛尾村の川遊びの件を話し、「同情も愛情の一つだと思う」と答えた。 「歯医者の件はどうする?」と訊かれて「お兄ちゃんが後を継ぐし、何がなんでも歯医者になりたいわけでもないよ」と春菜は答えた。同じように、信吾のお嫁さんに何がなんでもなりたい訳でもなかった。ただ、首は縦に振った。別に取り消そうと思わないだけだった。
「わかった、親父や母には俺が話そう」と泰明は言ってくれた。両親は多少の不満はあったようだが、跡取り総領の意見は無視できなかった。信吾の性格も分かっているし、「同じ町やからいいか」になった。信吾の親は、勿論申し分なかったが、ただ、信吾の突然の行動に驚き、本当の話か直ぐに信じ難かった。果たしてお嬢さん育ちの〈春菜〉に印刷屋の女将さんが務まるかどうかを案じた。あくる年の春3月に二人は祝言を挙げた。
p4 競馬場
一緒になってから、「道で逢っても話もしなくなって、だのに何で突然尋ねてきて、求婚になったの」と春菜は訊いた。信吾の答えは「春ちゃんは小さい時から好きやった。ライトでポロリ、ポロリしたんは、下手ではなくセカンドの春菜を見てばかりいたからだ」と何時にない冗談を言い、 「春菜が高校の制服を着るようになって、結んだ胸元のリボンに目が行くようになって、異性として完全に意識してしまった。そうしたら口が聞けなくなって、口が聞けなくなると、思いは膨れて、心臓が風船の様にはちきれそうになって、このままでは死んでしまうかと思って、絞ますために出向いた。まさか、首を縦に振るなんて考えもしなかった」と話した。 「春菜は何で首を縦に振った?」と訊いてきたので、春菜は「いっしょ」と答えておいた。
春菜の妻ぶりは申し分なかった。両親を気遣たし、従業員には配慮が行き届いたし、てきぱき指示を与え、元気な男の子と女の子を産んで、よき母であった。信吾が苦手とした帳簿類もこなした。福島に何軒か大口の得意先が出来、従業員も増やして5人になったのも、春菜の営業努力の賜物であった。 泰明も卒業して帰って来て、医院を継いでいた。丁寧な治療と、優しい気配りは、若先生の方がいいとなって、泰明の父の診療室は暇になった。「彼奴は、俺の商売敵だ」と老医師は喜んだ。
泰明はよく尋ねて来た。春菜は兄、泰明と信吾が「兄さん」「信ちゃん」と呼び合い、兄弟になったことが、ことのほか嬉しかった。一方、信吾は、春菜の〈歯科医〉の道を中断させてしまった、負い目をいつも持っていた。「お兄ちゃんと一緒の学校に行きたかっただけ」と春菜に聞かされていてもだった。 仕事場と住まいの両方は手狭になって、近くの古家を仕事場に借り、その裏に隠居部屋を作って両親を住まわした。信吾の父は好きな海釣りをもっぱらにし、忙しい時だけ手伝った。母は仕事場に出てくる春菜に代わって、家事や孫の世話に明け暮れた。信吾は印刷の機械も思い切って新しいものに切り替えた。
蓄えを叩いたのと、機械を担保にした手形で調達した。借入もなく堅実にやっては来たが、それが逆に銀行実績にならず、小さな印刷屋の大きな設備投資を銀行は相手にしなかったのだ。 明日までに80万円の決済金が要った。でないと、手形は不渡りとなってしまい、機械は差し押さえられる。福島の集金は営業を兼ねて春菜の役割であった。帰りには百貨店に寄って、買い物をしてくるのが春菜の月一の楽しみだった。 大抵は家族のための物だったが、たまには自分の洋服を買ってきて、「どうー?」と鏡の前でポーズをとることもあった。生憎その日は、上の男の子が熱を出して学校を休んだので、信吾が福島市内の得意先を回った。
その日は思いのほか順調に集金が出来、午前中に予定より20万円も多く集金できていた。魔がさすとはよく言ったものだ。気分がホットし、信吾は何故か直ぐに帰る気がしなかった。 真っ昼間から一杯やるわけにもいかない。気がつけば信吾は競馬場の中にいた。春菜と結婚して早々のころ一度競馬にはまって、家業を省みず春菜に苦労をかけたことがあった。二度と競馬場に近寄るまいと誓った。
だから、競馬のある福島市内の得意先の集金は春菜に任せたのだった。春菜は集金だけでなく、わずかあった得意先をつてに、何軒か開拓していたのだった。今回は明日までに必ず必要な金額だったので、春菜が行けないとなると、親方の信吾が出向くしかなかった。
久しぶりの競馬場の賑わいの雰囲気に、信吾は圧倒された。単調な日々の生活がどこか遠くに感じられた。午後のレースの一番目は2万張って6万円取れた。 取れたのはそれだけで、最終レースが終わったときには、10万円が残されただけだった。80万円を切ったとき思い切って帰ればよかった。僅かな金額を取り返そうとして深みに嵌ってしまった。博打とはそんなものだと懲りた筈なのに・・・。 途方にくれて競馬場の玄関前に立ち尽くしていた。
p5 水玉のワンピースの女
そんな信吾に「お兄さんも負けて帰りあぐねているん」と声をかけてきた女があった。白地に黒の水玉模様のワンピースを着て、古い黒のバッグを肩から下げていた。年のころは30半ばといったところだろうか、誰か、映画の脇役でよく出てくる痩せ型の女優に似ていたが、その俳優の名前は思い出せなかった。
「私も今日は全然ついてなくて、ステンテンのからから、車代まで使ってしまったわ。市内でスナックをやっているの。今日は店が休みの張り紙をしているけど、一人でアパートには帰りたくないの、お店で飲まない」と誘ってきた。 帰るに帰れず、困り果てていた信吾は残っていた10万円を頼りに「エーイ、飲んでまえ」と誘いに乗った。店はタクシーを拾らって遠くなかった。若いアルバイトの女性と二人でやっているという店はありきたりの造りだった。 「サー、貸切!2万円で飲み放題よ。うんくさい顔を捨てて飲んだ、飲んだ!」 信吾は1万円をプラスして払った。女の飲みっぷりはよかった。信吾は飲みながらも帰る手立てや、帰って何と春菜に言い訳すかを考えた。春菜への言い訳は成り立ったとしても、従業員や得意先の事を考えれば暗澹たる気持ちが押し寄せてきた。
どうして、春菜の実家、泰明を頼らない?たかが80万円の世界だ。大抵の人の場合そうするだろう。それが大人というものだ。そこを考えられない程、信吾も幼稚ではない。そう考えた。 面目や、意地とかではない。〈あるじ〉として、経営者として、全てを否定されるだろうことを思った。ふがいなさに、自虐の谷に落ちたのだった。帰る手立てはあった。ギリギリの時間まで…。最後に電話を一本取り上げさえすれば、信吾は助かるのだった。押しとどめたもの、それが自虐の谷だった。人はわかって、地獄の谷に落ちることがある。
女はカラオケで「函館の女」を歌った。澄んだ綺麗な声だった。函館は坂の街で、どの坂からも海が見えると…云った。連絡船の港の景色を語り、函館山の夜景の美しい事を話した。女の生まれは函館で、嫁いで新潟へ、婚家に男の子を一人残し、福島に来たと語った。信吾は酔いの回った頭で遠くに聞いていた。 女はあんたも歌え、と云ったので、森進一の「港町ブルース」を歌った。〈背伸びしてみる海峡を、今日も汽笛が遠ざかる…あなたにあげた夜を返して…〉もう1曲は何を歌ったのか覚えていない。
女の肩に担がれて階段を上ったのは、かすかに記憶はあった。喉の渇きに目覚め、気がつけば朝日がカーテン越しに射し、隣に女が眠っていた。 女は何も言わず、味噌汁と卵焼きの朝食を作った。昼はうどんを作り、夕食に秋刀魚の焼き魚と、菜っ葉の煮付けを用意して店に出て行った。 信吾は帰る手立てを考えたが、考えは堂々めぐり、結論は「金がないと帰れない」。事情を話して女に頼もうかと思ったし、女の留守の間にと変な考えも出たが、信吾にはどちらも出来なかった。女は夜遅く酔って帰って来た。 信吾の手持ちの時間は無くなっていた。
p6 山瀬良子の人生
ゴロゴロしていても仕方がないので、店を手伝ったが、一日で柄ではないと嫌になった。女も店に出るのを好まなかった。 そのうち店のお客さんの紹介だとかで、運送店の荷出しの仕事を女は見つけてきた。若い男の子と二人でこなす出庫作業は信吾が来てから、数段、段取りもよくなって、小さな運送店のドライバーは喜んでくれ、店主の評価も高くなり、本採用を勧められたが、このままのアルバイトでよいと断った。健康保険のこと等を考えるとそうもしたかったが、住民票などの手続が厄介だったのだ。
2年ぐらいが過ぎた頃だったか、女のスナックで店のドライバーと飲んでいるとき、しきりに信吾の方を見る客があった。信吾も名前は思い出せなかったが、大熊町で仕事の関係で2、3度会っている男だった。 その事を女に言って、信吾は店には行かなくなった。それから半年が過ぎた頃、女は仙台に居抜きで安い店が見つかったといって、仙台に越した。仙台でも信吾は運送店の出庫の仕事を見つけてきて働いた。5年、仙台で暮らした。
女の名前は山瀬良子と云った。良子は42歳になる夏、あっけなく亡くなった。腹痛を訴え、入院したが癌の末期で手遅れであった。 「ごめんね、あの時、声をかけなかったら、あんたは、家に帰れてたのにね…。おかげで、私は寂しくなかった…。亡くなったらこれを開けて」と云って、一週間後に、静かに息を引き取った。 果たして、良子と出逢ってなかったら、家路についていただろうか…。わからないことだが、そうとは思えなかった。信吾は声をかけられて、助けられたのではなかったかと思った。
封筒には、2通の通帳と、そして山瀬勇太と書かれた連絡先が入っていた。 紙に書いてあった連絡先に連絡を取った。仙台での何人かの知り合いを入れて、通夜と簡単な葬儀は済ませた。 葬儀が終わって、山瀬勇太と名乗った弟と良子の店で、二人で飲んだ。信吾は良子と知り合った日のこと、店での良子の仕事ぶりや家庭での料理の手際の良さなんかを話した。 山瀬勇太は函館で生家の水産加工の会社を継いでいると話し、姉は26歳で、世話をする人があって、新潟の同業の水産加工の家に嫁いだ事、結婚生活は3年で終わり、男の子を一人もうけたこと。離婚後、両親は函館の実家に帰って来ることを勧めたが、帰ってこなかったこと等を話した。
いずれも良子より聞いていた事であった。勇太はそのとき水産大学校に入学したばかりで、両親からは詳しいことは聞かされなかったが、離婚は良子の方に落ち度があったらしい。そのことが、子も引き取れず、そして、実家にも帰らなかった理由らしいと語った。新潟で仕事を見つけ一人で暮らしていたが、暫くして連絡先も途絶え、行方が分らなくなり、心配していた両親も3年前にたて続いて亡くなったと話した。 「10歳も歳が違ったので、病気がちだった母に代わって半分、母のようでした」と、嫁ぐ前の姉の思い出を語った勇太に抱かれて、白木になった良子は、16年ぶりに生まれ故郷の函館に帰って行った。 思えば儚く寂しい良子の人生に思いやった。「寂しくなかった…」本当にそうなら良かったと信吾は思った。
良子はあっさりした気性だったが、夜の営みは違った。信吾は別人を抱いているようで、時折困惑した。良子が燃えて求めた男とは、どんな男だろうか?良子は子どもの話も、男の話も一切しなかった。 良子は、良子名義で5百万円、信吾の名前で3百万円を貯金していた。良子名義の分は、山瀬勇太に。彼は辞退したが無理やり手渡し、店を整理したお金を入れて5百万円を持って、仙台を後にして、東京、静岡、大阪と信吾は流れて来た。もし、帰る時があったとしたら、仙台を後にするこの時ではなかったかと信吾は思うのだった。
p7 縦縞のパジャマ
真吾の家が映った映像を見たのは、笠っさんのテントでテレビを見せてもらっているときだった。ニュースの特番をやっていた。避難地域20キロ圏内を記者が車で潜入し、レポートしていた。そのアングルの中に真吾の家が映り、真吾が着用していた縞模様のパジャマが物干し竿に架かっていた。避難するまで春菜や家族がそこにいた事をそれは語っていた。印刷の事業は続けられていたのだ。
縦縞模様のパジャマは二人で所帯道具のあれこれを、福島の百貨店に見に行ったとき、ちょっと高いけど奮発して買ったものだった。奮発しただけあってその肌ざわりはよく、気持ちよく眠りにつけた。洗濯で、別のものを着た日は何故か眠りづらかった。 それを春菜に云ったら、信吾の誕生日に同じパジャマをプレゼントしてくれた。擦り切れたらいけないからと2枚入っていた。そんな思い出がそのパジャマにはあった。
TVを見ていて思わず「家や!」と叫んでしまった。 笠っさんに、大熊町での暮らし、帰りそびれた経緯を話すしかなかった。良子の事も話した。 2日後、笠っさんに呼ばれて向かいのテントに入っていくと、笠っさんが「これ」といって封筒を手渡した。中に宇都宮までの新幹線の切符と10万円が入っていた。切符は笠さんの手配、お金は皆から集めた餞別だった。 「信さん、けじめの覚悟の時が来たみたいやな。帰れや!今を逃したら帰るときは二度とないで・・。信さんが家族のことを思っている以上に、春菜さんや家族はお前さんのことをどれだけ心配しているか?生きているのやら・・、生きていれば元気でいるのか・・心配の種は尽きへんのや。探し出して、元気な顔をみせたれ。それが今、信さんにできる最高のことだよ。敷居が高い、低いの問題じゃないんとちがうか?縦縞のパジャマが干してあった?今でも待っていますの〈黄色のハンカチーフ〉だとは思わんか」と、笠っさんは言った。
宇都宮の大学時代の友人に車で福島に入れる手配をしてくれていた。笠っさんは宇都宮大学の農学部出身なのだ。テント村で国立大学出は笠っさんぐらいなものだ。 笠っさんは「事業に失敗したら、途端に、嫁はんも子供も見る目が違って、家におれたものではなくなった。人間、金をなくしても、家族に愛してもらえるような生き方をせんとあかん。金でオヤジや亭主の位置を買うてたみたいなものや」と、ホームレスになった理由を語っていた。
ある日、信吾は夜中に目が覚め、酔いでのどが渇いて、枕元の水を飲んだ。 向かいの笠っさんのテントはまだ灯りがついていて、女の話し声が聞こえてきた。 「私が悪いのやから、頼むから家に帰って。まだ許されへんの・・・」 「許すと言って、許されへん自分が許されんのや」 女のすすり泣きが聞こえた。後は聞いてはいけないと、信吾は布団をかぶって眠った。
同級生の近藤誠さんは大学時代の笠っさんのことを車中で話した。笠っさんや、近藤さんらの大学時代は全共闘華やかりし頃で、宇都宮大学もご他聞にもれず学生運動が激しかったそうだ。近藤さんは空手部で、運動は運動でも純粋な運動であったが、笠っさんは寮の寮長をやり、バリバリの運動家だったらしい。退学処分も食らっている。復学が許されたのは2年後ということだ。 近藤さんは空手をやっていただけあってがっしりした体格であった。軽の車がさらに軽に感じられた。どこかで見た顔?頬骨がはって、顎ががっしりとして下駄のような顔、〈柴又〉の主人公を思い出した。目だけはサイの目ではなかったが、誠と書いたのぼり旗を持たせて、着物を着せれば名前通りの新撰組隊長が出来上がると信吾は思った。
「3百人近い血気盛んな男子を纏め上げていく事は大変な事だった」と、自治寮の運営の苦労振りを、懲罰委員長を経験した近藤さんは懐かしそうに話した。 学校では、笠っさんの女性フアンは多かったが、笠っさんは見向きもせず運動家の道をまっしぐらだったらしい。「俺だったら、そんな勿体ないことはせんけど」と、笠っさんになりかわって残念がっていた。
テント村での笠っさんの様子を語ると、「あのときの寮長の経験からすると、テント村を纏め上げるぐらいは軽いものだ」と、云わんばかりに近藤さんは頷いていた。 「ホームレスになっても寮の同窓会に来るのはあいつらしいが、何でホームレスになったんやろ?事業に失敗したのが原因だと思うが、それぐらいでホームレスになる奴やないんだけどな」と喋って、近藤さんは真吾もホームレスであることに気がついて、「すいません。別にホームレスを特別視しているわけではないんですよ。人にはそれぞれ事情がありますからねぇ」と信吾に謝った。 笠っさんは大学時代の友人にも、家を捨てた本当の理由を言えていないのだ。
p8 放射能の街
東北自動車道は福島まで開通していたので、郡山まで自動車道を使い、郡山から海のほうに向かって288号線を走った。山地を抜け平野部に出てしばらく行ったとき、目に入った光景に信吾は絶句してしまった。テレビで見てはいたが、実際に震災、津波の町の瓦礫の惨状を目の前にして、震災というより、戦災直後の写真を見ているようであった。
「ここから先は一応立ち入り禁止ですがどうします?」と近藤さんは訊いてきた。この時は避難指定区域であったが、立看板があるだけで、別段どうってことはなかった。正式に立ち入り禁止地域になったのは暫くしてからであった。 とりあえず、家に帰って、あのパジャマを着てゆっくり眠りたかった。後のことはそれから考えようと信吾は思った。人影も、人の気配もしない町だが、紛れもない信吾が生まれ育った町だった。
「家はどっちですか?」と近藤さんが訊いたので、咄嗟に、右を曲がって突き当たりを左と云った。家はもうすぐ…あと少しだ。 その時、近藤さんが「今晩、泊めてもらえますか…ロウソクも、食べ物も、酒も用意しています。放射能の町で一泊したと、皆に言いたいんですわ」と云った。二人で揃いのパジャマで寝ると思うと、何故か信吾は笑えてきて、元気な気持ちになった。
家に入る方法は一つあった。泥棒だってわかりはしない。家の持ち主だからこそ知っていることだ。近藤さんは懐中電灯で照らしてくれた。用意万端であった。家の中はあの日と何にも変わっていないように思えた。 「慌てて逃げたわりには、えらい綺麗ですなぁ~」と、近藤さんはロウソクに火をつけながら感心した様子だった。 「我家で食べるカップラーメンと焼酎の味は格別でしょう」と、近藤さんは云ったが、信吾は泣けてきて、ラーメンが涙で塩味になり、旨いのやらなにかわからない味だった。見ると近藤さんも泣いていた。
信吾は少し湿っていたが、干してあったパジャマを着、近藤さんにはタンスの引き出しに仕舞ってあった、同じ柄のパジャマを着てもらった。 「あっ、放射能のパジャマ、それを着たかったのに」と、近藤さんは何だか浮き浮きした感じであった。大事なお客に放射能を着せるわけにはいかない。勝手知ったる我家、遠慮する家族も今はいない。二人は並んで寝た。
暗がりの中で近藤さんは訊いてきた。 「信吾さん、今、何を考えてます?」 「笠っさんが云ってくれた〈黄色のハンカチーフ〉の意味を考えています。春菜は、気の弱い僕がついそこまで帰ってきても、やっぱり家に入れないことを考えて、毎日汚れてなくても、代わる代わる洗濯して干していたんだと思っています。このパジャマの温もりが、そう語ってくれています」 「そうですね、僕かて、同じパジャマを着てますから、春菜さんの気持ちがわかるような気がしますよ。」 二人は暫く無言でパジャマと布団の温もりを味わった。
p9 漬物の重し
「笠っさんから大体のことは聴いてるんですが、分からんコツを聞いてよかですか」、熊本生まれという近藤さんは、緊張すると九州弁がたまに顔を出す。 「信吾さんが帰れなくなった気持ちは、男だったらわかるコツあるがです、信吾さんの〈春菜さん〉に対する気持ちはどげんだったのですか?」 心臓が風船のようになって、はちきれそうになって、春菜の家に行った日のことを信吾は思い出していた。
「まさか、その日に首を縦に振るなんて考えてませんでしたよ。僕は断られて、それで風船をすぼめて落ち着きたかったんです。春菜は暫く僕の言ってることが解らんという顔してました。次に、困ったという顔でした。そして、僕の目を見て首を縦にしました。二人の間にはその時会話は無かったです。黙っておじぎをして、玄関を出ました。玄関で春菜もおじぎをしました。帰り道、普通なら飛上らんばかりに喜ぶことなんでしょうが、そんな気持ちはいっこも起きませんでした。僕の思いつめた顔を見て、自殺でもされたらかなんと思ったのではないだろうか。なんだか脅迫したように思えてきて、春菜には歯科医になる夢や、いっぱい色んな夢があるだろうに、僕は自分の苦しさだけを考えていて、春菜のことなんかいっこも考えていなかったことに気がつきました。困らせたんやったら、取って返して謝ろうかとも思いましたが、春菜のあの苦しそうな顔を思い出したら、足は後ろに向きませんでした。兄の泰明がいなかったら、結婚に至らなんだと思います。結婚してもその思いは消えませんでした。近藤さん、ここからです、解ってくれますか。帰って打ち明けて、多分、春菜は兄泰明の助力を頼むでしょう。春菜は表立って、決して責めたり、詰め寄ったり、恩に着せたりしないでしょう。寧ろそうされた方がどんなに楽か、近藤さんわかりますか?困った顔はするでしょう、哀しい顔もするでしょう。それもいたたまれませんが…万が一、蔑みの表情が走ったら、僕は生きていけないと思ったのです。僕は春菜の愛情の本当のとこに気付かなんだし、自信を持っていなかったのです。妻の深い愛情にも気付かない、自信も持てないそんな生き方しかしてこなんだのです。だから大事なお金を持って競輪場になんか行くんです」
暫くして、近藤さんは「良子さんのことは、どげん思っています?」と聞いてきた。信吾は競馬場の表で思案にくれ、帰りあぐねていたあの日のことを思い出しながら…、 「声をかけられて、正直ホットしましたね。暫くは話し相手があって、思案にくれずに済むとでも思ったのでしょうか…、良子との生活は春菜に対する〈重し〉みたいな物を抱かずに済んだ分だけ楽でした。楽な分だけ一緒の生活は楽しかったのです。 その代わり、良子の方が、声をかけなんだらこの人は〈家に帰れた〉のにという〈重し〉を抱いていた事を最後の言葉で知りました。勝手に〈重し〉なんて作ちゃいけませんね」
「重しね…。家にも漬物の重しはありますけど、他にもあるんでしょうかね、勝手な重しが…ところで、明日はどうします?」 「近藤さん、まずはよく寝て、起きてから考えましょう」 「そうですね。信吾さん十何年分の睡眠を我が家で取ってください。ただし、朝は目を覚ましてくださいよ。そのままなんて嫌ですよ」 十何年…、何年になるんだろう信吾は指を折って数えた。 近藤さんは疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえてきた。
了
津波と原発事故はショックだった。テレビに映った無人の町、何か書きたかった。まず書けるモノからと・・このあと「津波」「キャベツの花」「切り取られた日付の町」と書くことになる。