目覚めの香り
あくる日、意識の覚醒とともに、かすかに爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。
なんの匂いだろう。私はうっすら目を開ける。
と、そのすぐ目と鼻の先に、花咲きさんの寝顔が飛び込んできた。
な、な、な、何事!?
「ひえっ――」
咄嗟に両手で口元を覆い、思わず漏れそうになる悲鳴を押し殺す。
な、なななんで花咲きさんが隣に!? これでは間接添い寝どころじゃない。リアル添い寝だ。
私が感じた爽やかな香りは、花咲きさんの頭に咲くお花の香りだったらしい。
当の花咲きさんは、眼を覚ますことなく、かすかな寝息を立てている。
なんだろう。いつもの習慣で自分の寝室に来ちゃったのかな……私という存在を忘れて。
それにしても――と、花咲きさんが眠っているのをいいことに、その寝顔を観察する。
なんだか少し疲れているみたいだ。昨日も遅くまで仕事する予定とか言ってたし。
それでも綺麗な寝顔。眼を閉じていると、中性的な雰囲気が際立つ。思わず見とれてしまう。
はー、やっぱり私、この人のことが好きなのかなあ。
今になっても確固たる自信が持てない。いや、勿論嫌いじゃないんだけど、好き好き大好き超あいしてる! とまではいかないというか。
もしかすると、自分で気持ちをセーブしているのかもしれない。
だって、だって、もしも想いを伝えて、それが拒否されたら、きっと立ち直れない。だから私は無意識に「好き」という気持ちを心の奥に押し込んでいるのかもしれない。
我ながら面倒だな。と思いながら、花咲きさんの髪にそっと触れる。若草のような緑色の髪。さらさらとして触り心地は悪くない。
このままもう少し添い寝してもいいよね。なんて考えながら瞳を閉じた。
「おい、黒猫娘。お前、いつまで寝ているんだ? もう昼だぞ」
肩を揺すられる感触に、私は瞼をこじ開ける。
えーと……今、花咲きさんはなんて言った? 確か「もう昼」だとか――
慌ててがばりと身を起こすと、日は既に高い位置から街を照らしていた。
やばい! 完全に寝坊した!
「な、な、なんでもっと早く起こしてくれなかったんですか!?」
「お前がいつまで寝続けるのか知りたかったから。まさかこんな時間になっても起きないとは思わなかったが」
なにその理由!?
いや、ここは花咲きさんに腹を立てても仕方ない。元はと言えば私が花咲きさんの隣を堪能しようだなんて欲を出したのが原因なのだから。猛省せよ。ユキ。
慌てて身支度を整えると、昨日作ったカツサンドを花咲きさんに差し出す。
「これ、今日のお昼ご飯です。忘れずに休憩取ってくださいね!」
まくしたてるように伝えると、くるりと踵を返して外に出るドアに向かう。
と、その前に腕を掴まれた。
「待て、カツサンドを半分持って行け。空腹状態では仕事に支障をきたすかもしれないからな。それに、これなら走りながらでも摂取できるだろうし」
そう言って、カツサンドを半分紙ナプキンに包んで渡してくれたのだ。あのカツサンド狂いの花咲きさんが!
少し戸惑ったものの、空腹を感じているのも事実。私はありがたく受け取った。
「おせーぞネコ子! もう開店の時間だぜ」
「す、すみませんすみません。うっかり二度寝をしてしまいまして……」
レオンさんは苛立ったように髪をかきあげる。
「もういい、今日はお前はホールに出なくていい。現状クロードとノノンの二人でもなんとかなるしな」
「え?」
「代わりに罰として、お前は今日一日洗濯係だ。俺らのシーツとか洗っとけよ」
うわー、めんどくさい仕事を押し付けられた。この世界には洗濯板しかないから、洗濯はめちゃくちゃ大変なのだ。
しかし、私が遅刻してみんなに迷惑をかけたのも事実。仕方なく洗濯物の回収へと向かったのだった。
「らんらららんららら〜」
そうして「遠い日の歌」の一番盛り上がる部分(と言えばお分かり頂けるだろうか)を歌いながら、洗い終えた洗濯物を建物の裏手で干す。
しかしこの曲は便利だな。歌詞を忘れても「ら」でなんとかなるところが。
そんな事を考えながら、シーツを干していると、誰かが近づいて来る気配がした。
レオンさんかな?
と、振り返るも、そこにいたのは見たことのない一人の青年。
青味がかった髪が襟首まで伸びている。前髪は長めで、時折風に揺られて、その髪と同じ色の瞳を隠す。
詰襟の紺の上着に揃いのズボン。なんとなく以前にクロードさんが仕えていたというあの貴族……名前なんだっけ? まあ、あの人を連想させる格好だ。
おまけに腰からは繊細な細工の施された鞘に納められた剣まで下げている。
はっきり言ってかっこいい。
男性は
「なかなか歌が上手いではないか」
などと言いながら拍手してくる。
ていうか誰? いきなり敷地に入ってくるとか、ちょっと怖い。
「あ、あの、失礼ですがどちら様ですか?」
男性は少し驚いたように目を瞠ったが、すぐににやりと口角を上げる。
「余の顔を見忘れたか」
え、それって確か『暴れん坊プリンス』の決め台詞。この人は『暴れん坊プリンス』のファンか何か? プリンスになりきっちゃってるちょっと危ない人なの?
ここはあんまり刺激しないほうがいいかも……とりあえず調子を合わせよう。
「え、ええと……殿下でも構わぬ。お命頂戴いたしますぞ」
私の答えに、男性はしばらくこちらを見つめていたが
「どうやらお前がアラン・スミシーだというのは本当だったようだな」
え、な、なんで知ってるの!?
私のペンネームを知っているのは、花咲きさんに、レーナさんにノノンちゃんだけのはず……何者なのこの人。
そんな私の疑問に構わず、男性はこちらへとずかずかやってくると、私の手首を掴んだ。
「答えろ娘。どうして余の秘密を知っている?」
「は?」
え、何言ってるのこの人。秘密って何?
戸惑う私に男性は続ける。
「お前の本を読んだ。男爵家の三男とは世を忍ぶ仮の姿。その実態はとある国の第三王子であり、世直しのために城下町にはびこる悪を絶つ。まるで余の行動そのままではないか」
え? え? どういう事?
頭の中を整理する。
「……つまりあなたは王子様で、身分を偽って城下町を徘徊し、密かに悪を絶って回っていると?」
「そう言っているではないか! 何故だ、何故なんの接点もないお前が余の秘密を知っていたのだ!」
え、じゃあこの人はリアル『暴れん坊プリンス』ってこと!?
え、うそ、ほんと? 確かにどこと無く王子っぽい気品があるような、ないような気もしないでもない。
ていうか、そんな偶然ってあるんだ……
でも、今は目の前の王子様はご立腹のご様子。なんとか誤解をとかなければ……!
「ち、ちち違いますよ! 偶然です! たまたま偶然にも天文学的な数字で一致しただけです! だって、私はあなたの事知らなかったし……」
「確かに、余もお前の顔を見るのは初めてだ。だが、どこぞの悪の組織の間者かもしれん」
「だったら本にするなんて、そんな危険な事しませんよ。私から芋づる式に組織までたどり着けるだろうし」
目の前の、王子だと名乗った男性は、しばらく考えるそぶりを見せる。
「それならば、まことに偶然なのか……? にわかには信じがたいが」
「そんなの私だって同じですよ! まさか本物の王子様が、そんな事してるなんて思いもしないでしょ!?」
私の必死な思いが相手にも伝わったらしい。
「……すまなかったな娘。どうやら余の早とちりだったようだ」
王子様はそっと私の腕を解放した。
私は掴まれていた腕を軽くさする。
どうやら誤解も解けたみたいだ。
と、そこで私の好奇心が頭をもたげてきた。だって、本物の暴れん坊プリンスが存在するなんて思ってもみなかったわけだし。
「あの、聞いてもいいですか?」
「なんだ? 特別に発言を許そうではないか」
うわあ偉そう。さすが王子様。と言っていいのか……?
とりあえず発言のお許しが出たので質問する。
「どこまで似てるんですか? 私の『暴れん坊プリンス』の設定と。ええと……例えば、殿下に協力するセクシー美女と包帯美少年とかは!?」
私が二人の姿を探してきょろきょろしていると、王子様の背後に影が見えた。
「包帯美少年ってのは僕のことかな? もっとも、美少年というには過大評価だし、包帯なんて巻いてないけどね」
張りのある少年の声。今まで隠れていたのか、建物の陰からゆっくりと姿を現わす。
「……え?」
その人物を見て、私は思わず絶句する。
だって、そこにいたのは、ノノンちゃんだったからだ。




