第312話 ロシュタニアンナイト
「ピ…ピンチって何がそんなにピンチなの?」
「まず問題なのはですね…」
「…姫屋の道具が盗まれたことなんだよ」
と、幹太はアンナの言葉を引き継いでそう言う。
「わかりやすいのは…これかな…」
幹太が手に取ったのは、このホテルにあった包丁である。
「見た目からしてぜんぜん違うけど…」
幹太が手にしているのは文化包丁のように先端のトガったものではなく、中華包丁のような長方形の包丁だった。
「なんかダメなの?」
しかし、仕事中の幹太をいつも見ている由紀からしてみれば、包丁の形が違うぐらいで幹太の腕は落ちないはずである。
「これ、めちゃめちゃ切れないんだよ…」
「あ、それは苦労しそうだね」
そう言って、由紀は苦笑する。
「ですね。ほとんど包丁を使わない私でも困るぐらいですから…」
「どれどれ…」
由紀は幹太から包丁を受け取り、まな板の上にあるキャベツを切ろうとする。
「う…これ、切れなすぎて危なくない?」
そう言う由紀が切ろうとしたキャベツは、包丁の下で潰れていた。
「と、思うよな。でも…」
そう言って、幹太はこのキッチンで働いている料理人の方を見る。
「…切ってるね」
「そうなんだよ…こっちの人ってあんまり包丁の切れ味を気にしないみたいでさ」
三人の見ている料理人は、葉物の野菜を腕を振り上げるようにして力一杯刻んでいた。
「じゃあ幹ちゃんが研いじゃえばいいんじゃない?」
「うん。おれもそう思って、砥石があるか聞いたんだけど…」
「えっ?砥石、なかったの?」
「はい…」
由紀の問いにそう答えたのはアンナだ。
「じゃ、じゃあ…このホテルの人たちはどうやって包丁を研いでるの?」
「どうやら、たまに研ぎ職人の方が行商に来るらしくて…」
「たまにって…それまで研がないってこと?」
ちなみに、幹太は少なくとも週に一度は包丁を研いでいる。
「えぇ…そうみたいです」
「そういえば、僕もサースフェー島に住むまで砥石は見たことなかったな…」
「えっ!マルコの実家にもないの?」
「ん〜?あるかもしれないけど、使ってるのは見たことないね」
「そうなんだ」
ちなみに二人の住むサースフェー島は、包丁の切れ味にかなりこだわりを持つ島である。
「もう…一時が万事そんな感じなんだよ」
「ですね。一つ調理するのにかなりストレスがかかります」
幹太とアンナは、久しぶりに並んでキッチンの端に置かれた椅子に座る。
「ん〜?幹ちゃん、まだ何か困ったことあるでしょ?」
「あ、やっぱりゆーちゃんにはわかっちゃうのか…」
「うん。すっごいわかるけど…」
そう言いながら、由紀は幹太の隣りにすわる。
「簡単に言えば、ご当地ラーメンのテーマをどうしようかって思ってて…」
「テーマ?」
幹太がこれまでこちらの世界で作ってきたご当地ラーメンは、何かしらのテーマに沿って作られていた。
「たとえば、ジャクソンケイブのご当地ラーメンは村の魅力の再発見だったし、街道ラーメンはどこでも好かれる定番の味ってのがテーマだったんだ」
「なるほどそういうことね♪
だったら、ロシュタニアでも…って、あんまり地元の食材がないんだっけ?」
「そうだな」
「そっか…砂漠だとあんまりないんだね」
「まぁ食材が地物でなくとも、この国の特徴のようなものがあればいいんですけど、それもなかなか…」
そう言ってアンナは両肘を調理台の上につき、その両手の上にアゴを載せた。
「そうなんだよな…市場にいる時もホテルでも、なんとなくヒントみたいなものはある感じがするんだけど…」
「この国の特徴かぁ〜」
そう言って、由紀はマルコへと視線を送る。
「…まぁウチの国の一番の特徴は湖だよね♪」
「そうね。綺麗だったわ♪」
マルコとハンナはこちらについて早々、湖畔デートをしていたのだ。
「湖か…」
「湖ですか…」
それを聞いたアンナと幹太は、揃って渋い顔をする。
「そりゃラーメンにしづらいな…」
「めっちゃラーメンにしづらいです…」
海ならまだしも淡水魚しかいない湖は、食材的にはご当地ラーメンの特徴にはし辛いのだ。
「それに…湖の青はリーズと同じになっちゃうし…」
幹太が以前作ったリーズ公国のご当地ラーメンは、リーズの首都であるレイブルストークという町の特産品、レイブルブルーという青く美しいガラス製の器でお客に提供されている。
「…んじゃ、あとは砂漠?」
そう言ったのは由紀である。
「うん。そりゃ俺たちもそう思ったさ。
な、アンナ?」
「ですね。ただ…湖同様、砂漠の感じはラーメンで表現しづらいです」
「そうなんだよなぁ〜」
そうしてさんざん頭を悩ませた後、幹太はマルコに誘われて珍しく夜の街へと出た。
「あの…マルコさん?」
「ん?なんだい、幹太?」
「お、俺、こういうお店は初めてで…」
幹太はマルコの隣りに座る、知らない女性をチラチラ見ながらそう言った。
マルコが幹太を連れてきたのは、日本のキャバクラのように店員の女性がお客と一緒に席につくお店だったのだ。
「えっ!そうなの?」
「はい…」
「けど、ロシュタニアでお酒を飲むってなると、ほとんどがこういうお店なんだよね♪」
「そうなんですか?」
「うん。男性か女性、もしくはその両方って感じなんだけど、だいたいお店側の誰かが一緒に席につくんだよ♪」
「な、なるほど…」
「よし!じゃあ飲もうか♪」
マルコは隣りに座る女性となにやら話しながらお酒を作り、それを幹太の前に置いた。
「マルコさん、これって…?」
「これはロシュタニアで蒸留されてるお酒だよ。
一応、ロシュタニア産ってことで♪」
「あ、はい」
マルコはグラスを掲げ、二人は乾杯をする。
「しかし、ほとんどがこういうお店ってのはすごいですね…」
「幹太の国にもこういうお店はあるの?」
「あります。主に男性相手の商売ですけど」
「そうなんだ」
「あ!でもこれ…みんなにバレたらヤバいんじゃ…」
店に入ってからこれまで緊張していた幹太は、今さらその事実に気がつく。
「えっ!こういうお店って、幹太の国的にはよくないの?」
マルコは心底意外そうにそう聞く。
「そうですね…奥さんがいてなんの気兼ねもなくってのは無理です」
「そうなんだ…」
「もしかして…ロシュタニアじゃ結婚していてもこういったお店で飲んで大丈夫なんですか?」
「うん♪ぜんぜん大丈夫だよ♪」
「そりゃすごい…っていうか、今日のことはハンナさんには…」
「あ、しまった!僕、幹太と出かけてくるとしか言ってない!」
「…ロ、ロシュタニアでは大丈夫でも、サースフェー島ではどうなんですかね?」
幹太がそう言った途端、目の前にあるマルコの顔がサァッと一気に青ざめた。
「き、聞いてない…そ、そもそもこういうお店がダメって文化があるって知らなかったから…」
「そ、それってけっこうマズいんじゃ…」
「で、マルコのお友達はどこの人なの♪」
とそこで、マルコの隣りに座っていたコバルトブルーのドレスを着た女性が、幹太にそう聞いた。
「お、俺はシェルブルックから来て…」
「幹太はシェルブルックの王族なんだよ、サロメ」
「わ!すごい♪ホントに?」
サロメと呼ばれた女性は、グッと身を乗り出して幹太の膝に手を置く。
「ふぁ…あ、はい…一応、そういうことに…っていうか、マルコさんとサ…サロメさんは知り合いなんですか?」
幹太は前屈みになったサロメのドレスの間から見える胸から、なんとか意識をそらしつつそう聞く。
「サロメは僕の幼馴染だよ♪それに、このお店は彼女のお店なんだ♪」
そう言いつつ、マルコはサロメの手を幹太の膝からは引き剥がす。
「あぁ〜!もー!何すんよのよ、バカマルコ!」
「サロメ、彼はアンナ様の夫だよ」
「アンナ様って…妖精姫の?」
「そうだよ」
「えぇっ!ホントに!?」
「は、はい…ホントです」
初めて出会った酒場で働くオトナの女性の魅力にドギマギしながら、幹太はなんとかそう答える。
「ん〜?確か…アンナ様の旦那様ってゾーちゃんの旦那でもあるんじゃなかったっけ?」
「ハハッ♪そうだよ♪
幹太はゾーイの夫で、アンナ様の他にも二人の女性と結婚しているのさ♪」
「はは〜ん♪なるほど、そりゃあ大変だ♪」
サロメは妖艶な笑みを浮かべながら立ち上がり、ゆっくりとソファーに座る幹太の背後までやって来る。
「ちゅーもーく!みんな!この人、シェルブルックの王族だって!」
そして幹太の肩をがっしり捕まえながら、店中に響き渡る声でそう叫んだ。




