第189話 腐回
「す、すげぇ…」
それは開店してすぐのこと。
「たった一ヵ月で客層が変わってる…」
幹太は平日の昼だというのに、女性客が多いことに気がついた。
「お、やっぱりバレたか?」
というか、女性客しかいない。
「えぇ…」
普段だったら平日のこの時間は、この市場で働く男性客が多いはず。
しかし、いま姫屋のカウンターや周りのテーブルに座っているのは、市場で働く女性や、この店目当てに外からやってきた女性がほとんどを占めていた。
「なんか徐々に女の客が増えてな…」
「まぁ…よく考えたらそうなりますよね」
ニコラが地元の島でやっている屋台、小姫屋に来る客は、そのほとんどがヘルガソン一家を知っている地元の人達だった。
しかし、この市場の姫屋に来る客に、ニコラが何者なのか知る者はいない。
「ニコラさん、婚約の指輪ってどうしてます?」
幹太はそんなニコラの指に、婚約の指輪がないことに気がついた。
「えっ?そりゃ仕事ん時は幹太だってしねぇだろ?」
「…はい。そうです」
いくら既婚者であっても、店の厨房に立つ者が指輪を嵌めるのはご法度だ。
「はぁ…やっぱイケメンってすごいわ〜」
幹太は改めて、隣にいるニコラ・ヘルガソンというイケメンの実力を思い知る。
今、幹太の視界の中にいる女性たちは、明らかにニコラ狙いでこの姫屋に来ていた。
「最近じゃ子供を連れてきてくれる奥様方も増えてきてな、すっげぇ助かるんだよ♪
はい。お嬢さん♪」
そう言いながら、ニコラはカウンターに座る幹太と同じぐらいの年齢であろう女性客の前にお冷を置いた。
「あ、ありがとうございます…」
「キミ、確かこの間も来てくれたよな?
毎度ありがとう♪」
「お、覚えていてくれたんですか?」
「もちろんだよ♪」
と、ニコラはそう言ってウィンクする。
「あぁ、やっぱりすてき…」
女性客はニコラの笑顔に見惚れたままコップを掴もうとし、全く違う空中を握り続ける。
『マ、マジか…ウィンクして絵になるおじさんって本当に存在するんだ…』
そんなものはアニメや漫画の世界にしかないと、幹太は今まで思っていた。
「そうだ!幹太、売り上げ落ちてなかったか?」
「えっ?」
「だ・か・ら!お前がいない間の売り上げだよ!」
「…めっちゃ大丈夫です」
「おぉ!そりゃ良かった♪」
というより、むしろ後半は幹太が姫屋をやっている時よりもちょっぴり売り上げが上がっていた。
結果として商売が上手くいっているのだから、幹太としては文句のつけようもない。
『く、くやしい!
俺の作ったラーメンの味よりも、ニコラさんのビジュアルで売り上げが上がるなんて!』
と、幹太は心の中で地団駄を踏む。
実を言うと、幹太はこのような経験を以前にもしていた。
『…アンナと日本で屋台やった時もそうだったんだよな…』
イケメンと美人は、ただ店を開くだけで人が集まる。
それが世界の真理なのだ。
「そういや…今日は俺が麺でいいのか?」
「あ、はい。お願いします」
いつもなら師匠の幹太が麺担当になるはずだが、今日はタレや具をセットする側に立っている。
「もしかして…俺のやり方間違ってる?」
「今のところ大丈夫です。ニコラさんはしっかりやってます」
「おぉ、そりゃ良かった♪
けど、じゃあなんでそっちに立ってんだ?」
「たまにセットする側をやってみると、麺をやってる時には気づかない店の汚れとか食器のヒビなんかに気づくんです」
それはフラッと幹太の屋台に来た、伝説のどんぶりチェーン店の創始者から聞いた金言であった。
『店を色々な角度から見るために、私は今だに洗い場にも立つんだよ』
幹太の聞いた話では、伝説の創始者は店内をくまなくチェックするために本社でなく各店舗に通い、本当に洗い場や会計などの仕事をこなしていたらしいのだ。
「なるほどな…」
「なのでアンナと組む時も、たまにセットする側に回ってるんです」
「そうか…よし!そんじゃとりあえず今日の一発目!いくぜ幹太!」
と、幹太の話を聞き終えたニコラは、なぜか麺の入ったザルを天高く掲げた。
「えっ!ニコラさん!?」
「そぉ〜れ!ヨイショっと!」
驚く幹太にもかまわず、ニコラは掛け声と共にテボと呼ばれる深ザルを大きく振って湯切りをする。
「な、なぜニコラさんが天空落としを?」
そう。
彼は異世界人にも関わらず、なぜか日本のラーメン屋で行われている、高くテボを上げてから振り下ろす方法で湯切りをしていた。
「ニ、ニコラさん…どこでそんな技を覚えたんです?」
幹太は呆気に取られながらも、なんとかそう聞く。
「素早くきっちり水気を切るにはどうしたらいいか、俺なりに考えた結果なんだが…」
そう言いつつ、ニコラはさらに二つ三つと湯切りをしていく。
しかし、
「ニコラさん、それはやめましょう」
幹太はそう言って、高く掲げられたニコラの手を抑えた。
「あ…ダメだったか?」
「はい。ウチの麺は太麺ではないので、そうやって湯切りをすると麺が切れてしまうんです」
「えっ!そうなのかっ!?」
と、驚いたニコラが覗いたテボの中では、確かに数本だが麺が切れている。
日本でも勢いよく湯切りをしている店は、幹太の言う通り太麺や麺のコシの強い麺を使っている店が多いのだ。
「…すまん、幹太」
「はい。
どんなに忙しくても、ウチの麺は力強く湯切りしちゃいけないんです。
ちょっとぐらい時間かかかったとしても、ほんの少しだけ麺を早く上げれば済むことですから…」
「ほんの少しか…?」
「はい。ほんの少しです」
幹太はそう言ってニコラの前にある茹で上がる寸前のテボを取り、優しくリズミカルに湯切りをする。
「これで十分、水気は切れてます」
実を言うと、幹太はラーメン屋になった当初、様々な湯切りの仕方を試していた。
「俺の個人の結論ですけど、高くしても早くしても、切れる水気の量はあんまり変わらないんです…」
幹太はその時、色々なやり方で湯切りをした麺をひと玉づつボールに移して重さを測ってみたのだが、ほとんど重さは変わらなかったのである。
つまり麺に付いているお湯の量は、しっかりとザルを振れるのならどのように湯切りをしようとあまり変わらないのだ。
「ですから、ニコラさんは適度な力で優しくっていうのを心がけてください」
「あ…あぁ、わかった」
そう返事をするニコラには、先ほどまでの笑顔がない。
「…しかしニコラさん、すっごいかっこよかったですね」
「えっ?」
「いや〜♪俺の国でもああやって湯切りするお店はあるんですけど、ニコラさんみたいにカッコよく掛け声かけながらやる人はいないんですよ〜」
「か、幹太…?なんかニヤついてないか?」
「いえいえ♪そんなことないですって…」
「あ!もしかしてお前、バカにしてるな!?」
「イヤイヤイヤ♪そんなまさか♪」
「あー!なんだか急に恥ずかしくなってきたじゃんかっ!」
「だからカッコ良かったですって♪」
「く、くぅ〜!よしわかった!この恥ずかしさをずっと覚えておこう!」
「ハハッ♪ですね、そうしておきましょう」
と、二人が話を終えた頃にはニコラはいつもの表情に戻り、幹太に言われた通りの適度な湯切りで再び麺を上げ始めた。
『けど、俺なんかよりはぜんぜんマシだよな、ニコラさん…』
よく考えれば、ニコラがラーメン屋台を始めてまだ一年にも満たない。
しかも彼は、最初にほんのひと月ほど幹太からラーメン屋台の手解きを受けただけである。
その上、まだ数件しかラーメン店のないこの世界には、もちろん他に見本となるような人もいないのだ。
「…やっぱり大人だからかな?」
「ん?どうした?」
「俺なんて、初めはもっと失敗ばかりでしたから…」
「そりゃ…幹太は親父さんからキチッとラーメン屋のやり方を習ったわけじゃないんだろ?」
幹太がラーメン屋台を始めた理由を、ニコラは知っていた。
「えぇ、まぁ…」
「だったらしょうがないさ」
「そうですかね…?」
「あぁ。それに比べりゃ俺はお前が苦労して積み上げたものを一つ一つ丁寧に教わってるんだから、そりゃ失敗が少なくて当たり前さ。
今日の麺のことだって、親父さんから教わったわけじゃないだろ?」
「はい」
「あ〜そうだな、この際ハッキリ言っとくけどよ…」
ニコラは麺をかき混ぜる手を止め、振り返って幹太を抱きしめる。
「俺はお前みたいにラーメンに一生懸命なヤツがこっちの世界に来てくれて、本当に幸運だったと思ってるぜ…」
「あ、ありがとうございます…」
「だからもうちょい自信をもってくれよな、師匠♪」
そう言ってニコラは幹太の背中をポンポンと叩き、ニッコリ笑って調理に戻った。
と、その時、
「「「「キャー♪」」」」
っと、二人の抱擁を見た女性客から悲鳴が上がった。
「い、今の見た…?」
「み、見たわ…ニ、ニコラ様と自信なさげな青年が…」
「えぇ。しっかり抱き合ってたわね…」
どうやらどこの世界でも腐なお姉様は存在するらしく、先ほどのニコラの行動が彼女たちの妄想エンジンに大量の燃料を投下してしまったらしい。
ちなみにニコラが一方的に幹太を抱き締めていただけで、決して抱き合ってはいない。
「こりゃしばらく男性客は戻ってこなそうだなぁ…」
と、ニコラが島に帰った後を想像した幹太は、大きくため息をついた。
この話の湯切りのお話は、実際に私がラーメン屋だった頃に研究した結果です。
湯切りは大きく勢いよく振ってもほどほどで何度か振っても、麺の重さはほとんど変わりませんでした。
早めに麺を上げて少しゆっくり切るのが一番水気が切れました。




