第172話 二人の時間
それから十数分後、キッチンワゴンに戻って来た幹太は、一人でいる澪を見つけて慌てて駆け寄った。
「ハァッ!ハァッ!ひ、広川さん、ど、どうして一人なのっ!?」
「な、なんでかな〜アハ、アハハ…」
「ごめん。俺、今までぜんぜん気がつかなくて…」
「仕方ないよ。追い出した時のアンナちゃん、すごい勢いだったし」
「うん。確かに…」
「それで芹沢君、片付けはどうしたらいいのかな?」
「いや、この場所ではイスとテーブルを片付けるだけだよ。
あとはウチでやった方がいいし…」
「じゃあ車に積んじゃう?」
そう聞きながら、澪は目の前にあるイスに手をかけた。
「うん。よろしくお願いします」
「はい♪」
そうして二人は客席を片付け始める。
「芹沢君、ちょっと聞いてもいい?」
と、澪は二人で長テーブルを運んでいる最中、幹太に話しかけた。
「うん。なに?」
「芹沢君はどうしてアンナちゃんの国に住もうと思ったの?」
一応アンナから説明は受けたものの、澪は幹太に直接そのことを聞いてみたかったのだ。
「ん〜?やっぱり一番の理由は、向こうでラーメン屋をやりたかったんだよ」
「フフッ♪やっぱりそうなんだ♪」
「うん。一からラーメンを広げていくって、こっちでラーメン屋やっててもできないことだろ?」
「うん。そうだね♪」
「それにさ、向こうで屋台をやってると、生まれて初めてラーメンを食べた人の顔がたっくさん見れるんだよ♪」
「そっか…私、初めてラーメンを食べた時がいつかわからないや」
「ハハッ♪普通はそうだよなぁ〜♪
だけど、向こうじゃ大人だってまだ初めて食べる人の方が多いんだ。
こっちでラーメン屋をやってる人たちには申し訳ないけど、あの瞬間を見た時の喜びは向こうでないと絶対に体験できないだろうなぁ〜♪」
幹太が向こうの世界で初めて迎えた客は、名も知らないサースフェー島の漁師である。
「けど俺、そのおっさんの顔を今でも思い出せるんだよ」
「アンナちゃんたちの世界でも、ラーメンの味は一緒で大丈夫なの?」
「うん。こっちと同じ調味料がなかったりするから、全部同じとは言えないけど味は一緒」
「そうなんだ…芹沢君、頑張ったんだね♪」
そう言って、澪はニッコリと笑った。
「えっ?広川さん、アンナに聞いたの?」
「ううん。そんなには聞いてないよ。
でも、向こうでも大変だったんでしょ?」
「うん。まぁそうだけど…どうして広川さんはそう思ったのかなって?」
「ん〜?なんでかな…?
けど今の話を聞いて、芹沢君はどこにいても芹沢君なんだろうなって思ったの…」
澪は、日本で幹太がラーメン屋を始めた当初の苦労を知っている数少ない人間である。
「たぶんアンナちゃんの世界でも、芹沢君は一生懸命ラーメンを作ってたんだろうなぁ〜って…」
そう言う澪の脳裏には、額に汗を流しながらラーメンを作るいつも幹太の姿が浮かんでいた。
「そっか…なんか嬉しいな」
「そう?だったら良かった♪」
「うん。ありがとう広川さん」
などと話しているうちに二人は客席を積み終え、キッチンワゴンに乗り込んだ。
「広川さん、家でいいよね?」
「えっ!もう終わ…ううん!まだお手伝いするよ!」
「そりゃ助かるけど…いいの?」
キッチンワゴンでの営業初日で早く店じまいしたとはいえ、時間は夜の十時を過ぎている。
「うん。今日も由紀ちゃんちに泊まることになってるから…」
もちろん、その予定はたった今決まったことである。
「そうなんだ。
それだったら、とりあえずウチでいいのかな?」
「う、うん。よろしくお願いします」
「よし。そんじゃ行くか」
幹太は広場を出て、家へと車を走らせた。
『わっ!わっ!私、芹沢君の車に乗ってる!』
幹太の他にほとんど男子との交流のない澪は、父親以外の男性が運転する車に乗るのは今回が初めてだった。
『なんかいいな…』
助手席に座る澪は、隣で真剣な顔をして運転する幹太を見ながらそう思う。
『芹沢君と夫婦になるってこんな感じなのかも…』
アンナの国に一緒に行けば、それも夢ではないのだ。
『そしたらずっと一緒にいられるかな…』
まだどうなるかわからないが、少なくとも向こうに行けば一緒の街に住むぐらいはできるであろう。
「…広川さん?」
「は、はい!なにかなっ?」
「いや…こっち見てるから、なにか聞きたいことでもあるのかなって?」
実は幹太に話かけられた時点で、澪の妄想は彼との間に長女が生まれるところまで進んでいた。
「せ、芹沢君、向こうで色んなラーメンを作ってたんだっけ?」
「そうだなぁ〜けっこういっぱい作ったぞ」
「フフッ♪たとえばどんなの?」
「まず最初は〜っと、あぁ、パイコー麺だ」
「あのトンカツの?」
「うん。そんな感じのやつ」
ちなみにパイコー麺の揚げ物の衣は、パン粉でなく片栗粉である。
「そうだ…アンナとクレア様のラーメンも考えなきゃ」
「えっ?お姫様のラーメンってこと?」
「うん。こっち風に言うと、二カ国の王女のコラボラーメンっていうのかな?
こっちに戻ってくる時に、作ってみたらどうかって話になってさ」
「フフッ♪なんだかすごいラーメンになりそう♪」
「参考までに、広川さんの二人のイメージってどんなのか教えてくれる?」
「アンナちゃんとクレア様かぁ…」
「そう。
よく知っちゃってる俺よりも、知り合ったばかりの人のイメージってどんなんだろうって思ってさ」
「えっと…まずはどっちもすっごく可愛い♪」
「ハハッ♪まぁそうなるよな」
「芹沢君もそう思う?」
「あぁ…俺なんか、アンナと初めて会った時は妖精かなんかかと思ったぐらい」
「あ、ちょっとわかるかも…」
普通なら嫉妬しそうな場面であるが、幹太にぞっこんな澪にとってはこの素直さこそが彼の魅力である。
「あとはね、二人とも繊細そう…かな?」
「えぇっ!繊細っ!?」
と、澪の抱いた印象に幹太は驚いた。
「ど、どちらかというと大雑把とか豪快な気が…」
「そうなの!?
私には二人とも、すごく周りに気を遣ってる感じに見えるけど…」
「あ〜なるほど…」
確かにアンナもクレアも、常に国民から評価され続ける立場である。
「そりゃあるかもな…」
幹太はその印象も、できればラーメンに取り入れようと決めた。
「だからアンナちゃん、私にも自分の世界に来てって言ってくれたのかな…?」
「アンナの話ってそんなことだったの?」
「う、うん。そう…」
「そうか、広川さんも向こうにか…」
「せ、芹沢君はどう思う?」
「ん〜どうかな…?
俺はラーメンが作れればどこでも大丈夫って感じだったからなぁ〜」
「…こっちの人たちに会えなくなるのは平気なの?」
「あぁ…確かに由紀が一緒っていうのも、すんなり向こうに住むって決められた理由ではある…と思う」
と、幹太は恥ずかしそうに頬を掻きながらそう答える。
「…そうなんだ」
「まぁ親父と母さんがいたらまた違ったのかもしれないけど…」
「うん…」
「広川さんはその辺りはどうなの?」
「私の家族?たぶん反対されると思うけど…」
そう言って、澪は苦笑する。
「まぁ普通はそうだよな…」
「だって異世界だもん。
ウチの両親なんか、ぜったい信じてくれないよ…」
「でも、そうやって聞くってことは、何か行ってみたい理由もあるんだろ?」
「…うん」
そう返事をしながら、澪は腹を括り始めていた。
「あ〜やっぱりな。
それって俺に言えること?」
「うん…っていうより、芹沢君にしか言えないこと…かな…」
なんとなくではあるが、この話の終着点はそこになるだろうと予想していたのである。
「お、そりゃ由紀とか臼井さんにも言えないってことか?」
「そ、そうです…」
運転する幹太からは見えていないが、膝の上で握りしめられている澪の手は細かく震えている。
「おぉ〜!それは光栄ですな。
んで、その理由ってのは…」
「私、芹沢君が好きなのっ!」
「へっ?」
「ずっと!ずっと前から!あなたのことが好きでしたっ!」
澪はギュッと目を閉じて、広い車内に響き渡るほど大きな声でそう叫んだ。
「ひ、広川さん?それっていわゆる恋的な…?」
「はい!思いっきり恋愛的な意味ですっ!」
実を言うと、澪はずいぶん前からこの辺りまでしっかり告白のイメージトレーニングを行っていた。
自身への好意に疎い、悪く言えば乙女の気持ちに鈍感な幹太には、ここまでしないと自分の気持ちは伝わらないと、初めから思っていたのである。




