それはこいのはなし。
俗に言う、「事故物件」のワンルームマンションの一室が、俺の行動範囲。
どうして死んだか、どうやって死んだかは覚えていない。名前も、年齢も覚えていない。
自分の手や体を見る限り(鏡に映らないので顔はわからない)、男なのは確実。
年齢も解らないけど、たぶん二十代半ばくらいだと思う。
自分が幽霊になったということは、わりとすぐに自覚した。
声は出ないし、眠れないし、部屋から出られない(たぶん、地縛霊というやつだ)。
特に不自由は感じない。必要ないだろう。だって、幽霊だし。
年も、月も、日も、時間も関係ない。
そんな俺の世界で唯一の楽しみは、窓の外に生える大きな桜の木。
春には花、夏には葉をつけ、秋には枝になって、冬には雪を積もらせる。
生きている間のことは何も覚えてないけど、たぶん、俺はこの桜が気に入ってこの部屋を選んだんだろうな、と思う。
何年の間そうしていたのかわからないが、からっぽな部屋の窓辺に座って、いつものようにただただ桜を見ていたある日。
つぼみがついていたから、たぶん、春。
何年も開けられなかったドアが開いた。風が部屋に入って、床に積もった埃が舞う。
驚いて振り向くと、玄関にはバツの悪い顔をしたサラリーマンと、若い男が立っていた。
男は高校生、もしくは大学生くらいだろうか、幼い顔立ちをしている。
サラリーマンが止めるのも構わず、スニーカーを脱いでとことこと部屋に入り、俺の隣、窓に向かって走ってくる。
驚いて、細い足首に思わず手を伸ばしてみたが、俺が掴んだのは宙だった。
男は、舞い上がる埃のせいか、へくしゅん、と大きなくしゃみをひとつして、言った。
弾むような声だった。
「この部屋、桜めっちゃよく見えるじゃないすか!おにーさん、俺、ここがいいです!」
それを聞いたサラリーマンは、乗り気ではない様子を露わにした。
どうにかして男の気を変えようと、あれこれと説明している様子だったが、男は頑なだった。
「俺、ここがいいです!」
***
桜が満開になったころ、男は大量の段ボールと共に転がり込んできた。
大事そうに抱えた封筒の宛名と送り先を見て、男の名前が拓真であること、この春に大学に入学することを知った。
「上京してきて、初めての一人暮らし!!!」拓真はそう、SNSに書き込んだ。
しかし実際は、一人ではない。一人と、一体だ。
まぁ、知っているのは俺だけだけど。
拓真が持ち込んだ家具や小物が部屋に入ってきて、俺の生活に変化が起きた。
寝床にしていた窓から左側の壁には、小さなテレビが置かれた。
拓真は難しい番組はあまり好まないらしく、芸人が多く出る番組や、スポーツの番組ばかり見ている。
どんな人間だったか覚えてはいないが、俺もこういった番組が好きだったのかもしれない。
若手芸人のくだらないコントのオチに思わず吹き出してしまうと、同じタイミングで拓真の笑い声が重なるので、そう思った。
桜がよく見える窓辺には、薄い青色のカーテンがかけられた。
拓真が外出する昼間には、開いたカーテンの隙間から窓の外の薄い桜色がこぼれ、新しい寝床となった部屋の真ん中、低いテーブルと拓真のベッドの間の床から、青と桜色のコントラストを楽しめるようになった。
朝に弱い拓真は、たびたび寝坊をするので、慌てて開けられるカーテンの隙間は日によって広かったり狭かったりする。
そのうちあるだろうな、とは思っていたものの、本当にこうなると結構がっかりする。
今朝の拓真は、カーテンを開けずに出かけてしまった。
せっかくの昼なのに、薄暗い部屋の中で、唯一の楽しみである桜も見れない。
(「何て日だ!!!」…)
(…なんてな)
拓真が見ていたテレビで、芸人がこういうフレーズを叫んでいた気がする。
誰も見ていないし、と身振りも真似てみたところ、カーテンがかすかに動き、薄暗かった部屋に一筋光が差した。
一瞬のことだったが、初めて、ごく小さく軽いものなら触って動かせるということに気付いた俺は、せっかくだから幽霊らしきことをしてみようと思い立つ。
俺の唯一の楽しみを奪ったバツだ。
かすかに開いたカーテンの隙間から外を覗き、俺は拓真の驚く顔を考えて、くっくっと声にならない笑みをこぼす。
◇
その晩、拓真がキッチンに背を向けてテレビを見ている隙に、水切り台に置いてあったスプーンをシンクに投げ入れてみた。金属同士がぶつかる音が響く。
「うわっ!?」
びくん、と大きく体を震わせ、恐る恐る振り向いた拓真は、これまた恐る恐る立ち上がった。
そして、恐る恐るキッチンをすり抜け玄関に走っていき、恐る恐る覗き窓から外を覗いたあと、鍵の確認をして首を傾げた。
そっと玄関から戻る際、シンクに落ちているスプーンを見ると、ほっ、と息をついた。
「なんだー、落っこちちゃったんだぁ」
へらぁ、と安心したように笑う拓真は、年齢よりずっと幼く見えた。
スプーンを拾うと、落ちないようにきちんと水切り台に戻す。
慎重なその顔と姿に思わず吹き出しそうになったが、俺の期待していたリアクションはそれじゃない。
リベンジとして翌朝、拓真が寝ている間に、テーブルの上にあった教科書二冊を払い落とす。
さすがに驚いたのか、布団がもぞもぞ動き出した。
しかし、目を擦りながら起き上がった拓真の反応はこうだった。
「………ありゃぁ、蹴ったかなぁ」
枕元にあった携帯を片手にベッドから飛び起きた拓真は、カメラで写真を撮り始めた。
「寝てる間に蹴っちゃった!俺、足なげーな!(笑)」そうSNSに書き込んで、また寝る。
違う。
拓真のリアクションに、俺はがっかりした。
そもそも、ベッドからじゃテーブルまで足届かないし。
お前、ちびだから、足がテーブルに着く前にベッドから落ちるだろうが。
なんか、ズレてる。
(わかった)
(こいつ、バカだ…)
何をしてみてもこんなふうなので、俺は、幽霊として琢磨に接するのを諦めた。
俺は人を驚かせて喜ぶタイプの人間(幽霊)ではなかったようだ。
拓真のほうも、何かを仕掛けるよりも一人で放っておくほうが面白い人間だった。
カップラーメンと雑誌を持つ手を間違えてラーメンをベッドに放り投げたり(思わず叫んだ)、朝寝ぼけて、けたたましく鳴る携帯電話の隣に置いたテレビのリモコンボタンを一生懸命押していたり、みじん切りにした玉ねぎを触った手で目をこすって悶絶したりと、見ていて飽きない。
慌てて新幹線のチケットを取りに戻ってきたかと思うと、肝心の鍵をかけ忘れて帰省したり、やかんを火にかけたまま学校に行ってしまったりと、青ざめることも何度かあった。室内から鍵をかけながら、ガスのスイッチを切りながら、(触れるタイプの幽霊でよかった)と何度思ったことか。とにかく、目が離せなかった。
こうした奇妙な(一方的な)同居生活を続け、一年。
不思議なことに、拓真は友達はおろか親兄弟でさえも部屋に入れたことはなかった。
たまに送られてくる郵便物や手紙の住所を見るに、実家は相当遠くにあるらしいから親兄弟は仕方ないとして、友達を呼ばないのは何か理由があるのだろうか。
もしかして、余りのバカさに、周囲から浮いてしまっているのかもしれないと少々不安になる。
友達がいないのだとすれば、それは俺も同じだ。拓真は同居人ではあるが、友達ではない。会話も、触れ合うことも、一緒に遊びに行くことさえできないのだから。
そう考えてみると、少しだけ、親近感が湧いた。お互いに干渉しない(できない)生活を続けてきたが、これからは少しだけ、俺の方から歩み寄ってみようと思った。
その晩からさっそく、拓真が帰宅する時間を見計らって、玄関に迎えに出てみた。
拓真は気付かない(当たり前だ)が、代わり映えのない毎日の中、日課ができたことで生活が変わった。
毎朝、拓真が出ていくのを見送ったあとは時計を見ながら、帰宅を待つ。
今まで意識したことはなかったが、こうやって待ってみると、帰ってくるのが待ち遠しくなる。
なんか、むず痒いような、不思議な気持ちだ。時間が迫ると、そわそわして落ち着かない。
無意味に部屋の中をうろうろしてみたりする。
そして、玄関の鍵が開く音と同時に、玄関に走る。
もちろん拓真は気付かないが、俺はそれから毎日、朝の見送りと、夕の迎えに出た。
それから一年も経つと、迎えに出るだけでは飽き足らなくなった。
愛着というやつだろう、と俺は思った。
家の中で過ごす拓真を見ているうちに、話したい、だとか、触りたい、だとか、そういう感情が芽生えた。
しかし、話しかけようとしても俺の口は声を発さないし、触ろうとしても俺の指は拓真の体をすり抜けてしまう。
物には触れるこの体も、さすがに人の体には触れないようだ。
せめて顔を見られれば、と思ったが、視線が合わないことが解っていながら顔を見続けることのほうが辛く思えてしまって、どうにも目の前に立つことができない。
明かりを消した、暗い部屋の中で、俺は拓真の枕元に膝をつく。目を閉じた拓真のまつげは、俺が思っていたよりずっと長い。
そう気づいたとき、泣きたくなった。
三年も一緒に住んでいるのに、俺は拓真の顔すらまともに見たことがなかった。
生前の自分が恨めしい。
自殺か、自然死かは知らないが、なぜ死んでしまったのだと問い詰めたい。
生前の俺にとって、その人生は捨てたいほど嫌なものだったのかもしれないけれど、今の俺にとってはそれでもいい。
とにかく生きていられさえすれば、拓真の前に堂々と立つことだって、名前を呼ぶことだって、頭を撫でることだってできたのに。
今、胸が苦しくなるくらいに愛着を持っているのに、その体温すら感じることができない。
「う~~~ん………」
拓真が寝返りをうち、かけていた布団がはだける。呼吸に合わせてかすかに上下する腹を見て、切なくなった。
俺の体は、肺も、心臓も、もう動いていない。
だって、幽霊だし。
今も、泣きたいのに涙は出ない。
生前の俺に問いたい。俺の人生って、今のこの状況より苦しかったのか?こんなにもどかしくて、遣る瀬無いのに、これ以上の苦しみがあるのだろうか?
はだけた布団をかけ直して、触れられないのを承知で拓真の頭を撫でる。
細い髪の毛一本ですら、俺には動かせなかった。
それからさらに一年、大学四年生の拓真は、卒業と同時に地元に帰ることになった。
荷造りをする拓真の気配を天井裏から感じながら、俺は思う。
この感情は、愛着じゃなく、恋だったのだろう。
幼かった顔立ちは、大人のそれになっていたし、細かった手足も今はがっしりしている。
始めて会った時とは、体格も、服装も、喋り方も何もかも変わってしまっているのに、変わらず愛しいと思う。
「男同士なのに、おかしい」なんて、もう思わなくなっていた。一年以上この調子なんだ、これが「おかしい」の一言で片付けられて、たまるか。
声でも、動作でも、引き止めることのできない自分自身に腹が立つ。
もし声が出たら、「行くな」と言ってやるのに。
いや、それよりも先に、名前を呼びたい。
拓真、拓真、拓真。
口を動かしてみても、やはり音は出ない。
***
拓真が出て行く日になった。
俺は、数日前から天井裏に篭り切っていた。
出て行く準備をする姿を見ていられなかったのだ。
俺がここにいた長い年月のうちのたった四年だが、毎日見ていた顔が見られなくなると思うと、出ない涙があふれそうになるし、出ない嗚咽がこぼれそうになる。
来た時よりも増えた段ボールが運び出される音がして、そのあと掃除をする息遣いや衣擦れの音が、ほうきや掃除機の音に混じって聞こえる。
本当に出て行ってしまうのかと、聞きたい。
本当に俺を置いていってしまうのかと、聞きたい。
ざり、と玄関で靴を履く音がして、たまらず天井裏から床まで下りた。
靴のかかとを直しながら、拓真がふと顔を上げる。
そんなはずはないのに、視線が合った。
拓真の目から、目を逸らせない。拓真も目を逸らさない。
なんで、と口を動かすが、もちろん声は出ない。
拓真がにこっと微笑んだ。
「これまで一緒に住まわせてくれて、ありがとね」
予想だにしなかった言葉に、俺は胸がいっぱいになった。
何で今まで、教えてくれなかったのか。
それとも、俺が気づかなかっただけなのだろうか。
(見えてたのか)
言葉が出ず、口をはくはくとさせるばかりの俺に向かって、拓真が続ける。
「俺ね、一人暮らし不安だったけど、君がいたから寂しくなかったよ」
「毎日、見送ってくれて、出迎えてくれて、ありがとう」
「目を合わせてくれなかったことは、寂しかったけど」
「君、たまにいたずらするけど、優しいから、きっと次に入って来る人とも仲良くなれると思うよ」
そう言うと、拓真はドアノブに手をかけた。
(待って)
聞こえたはずがないのに、拓真は手を止めた。
(拓真)
「………さくら?」
俺は首を横に振る。
(拓真、好きだ)
「さくら、好きだ?」
俺はまた首を横に振るが、琢磨はそれを見て、一瞬きょとんとした顔をする。
そして、黙って微笑んだ。
「………俺も、好きだよ」
指差した先は、俺の体か、その背後の窓の外、満開の桜の枝か。
わざとかと聞きたくても、聞けなかった。
背を向けた拓真が開けたドアの外には、拓真と同じ年頃の女の子の顔が見えたから。
そこで俺は初めて気づく。
拓真は家に呼ぶ人がいなかったんじゃなくて、俺に気を遣って人を呼ばなかったんだと。
そして、大事な人がいながら、毎日必ず家に帰ってきてくれていたのだと。
拓真は、幽霊の俺にさえ寂しい思いをさせないように気を遣ってくれていたのに、俺は、幽霊だとか、人間だとかのどうだっていい違いに囚われて、拓真と目を合わすことさえしてこなかった。
バカだったのは、俺の方だったのかもしれない。
拓真の故意にも、気付けなかった。
気づいていれば、この桜を一緒に見れていたかもしれないのに。
俺は窓辺で、去っていく拓真の後ろ姿を眺めながら、出ない声を殺して泣いた。
満開の桜は、四年前より少しだけ鮮やかに見えた。
それは恋(故意)の話
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