夕暮れ時の二重奏
僕は珍しく放課後に自分の教室で時間を潰していた。というのも、とある噂を確かめるためだ。
1ヶ月前くらいからか、うちの学校にはその噂があった。金曜日の放課後に使われなくなった旧音楽室からピアノの音が聞こえてくきて、覗きに行くとそこには少女の幽霊がいる、というものだ。僕はピアノを習っているというのもあって、その噂は気になっていたのだが、やっているピアノのレッスンが金曜日だったため結局確認はできずにいたのだ。
しかし今日、7月の第2金曜日は偶然にもレッスンが休みである。それでピアノの音色が聞こえてこないかこうして教室で課題をしながら待っているのである。
しばらく経ち時計はもうすぐ17時半を回る頃になったというのにピアノの音色は聞こえてこなかった。課題もやり終えて、やることもなく窓の外を見ていたが、流石に無駄だと思い荷物をまとめて廊下に出た。
「噂はやっぱりただの噂か...。」
荷物を持って廊下を歩いていると微かに何かの音が聞こえたような気がした。足を止めて耳を澄ませる。確かに音が聞こえて来た。微かな、けれど美しいそんなピアノの音色。僕は歩き出していた方向とは反対方向に向かって歩き始めた。
旧音楽室前で立ち止まり中を覗いて見る。
―そこには幽霊がいた。
「幽霊」というのはもちろん比喩表現だが、そこにいる少女の線の細さ、儚げな美しさはその言葉がとてもしっくりくるような外見だった。
僕は彼女の演奏が終わると同時に扉を開いて中に入った。彼女は僕に気付くと怯えるように逃げようとした。
「待って!」
僕がそう言うと彼女はビクッとしながら止まった。
「・・・なんですか?」
「君、ピアノやってるの?」
「・・・昔」
「そうなんだ。もう少しだけ聞かせてくれないかな?」
彼女は少しだけうつむいてからこくり、と小さく頷き再びピアノに戻った。彼女は一呼吸するとピアノでもう一度音色を奏で始めた。
流れてきたのは、聞き覚えのある懐かしい曲だった。それは僕がはじめてのコンクールで演奏した曲で、『流星』という曲だった。ただ、あの頃の僕よりも全然上手で表現力に富んだ、そんな演奏だった。いや、上手どころか県内トップクラスの実力であるのは間違いない、そう思えるほどの実力だった。いつの間にか僕は演奏に聞き入り、寂しい夜空を流れる流星をイメージしていた。
「どうでしたか?」
彼女は演奏を終えると自信なさげに言った。
「・・・すごかった。ありがとう」
僕は彼女の演奏にすっかり骨抜きにされてそれしか言葉が出なかった。実際、彼女の演奏はすごいなんてもんじゃなかった。演奏のテクニックはもちろんのこと、圧巻なのはその表現力だった。どうやったらあんな風にただ上手なだけじゃなく、聞いている人を引き込むような演奏ができるんだろうか。
「あの、あなたもピアノをやっているんですか?」
「あ、うん一応ね」
「少し弾いてみてもらってもいいですか?」
そう言われて僕は少し戸惑った。僕は彼女ほどうまくない。だが弾いてもらったのに自分が弾かない訳にもいかない。
「いいよ、同じ曲でもいいかな?」
「はい、お願いします」
彼女の演奏を聞いて懐かしくなった、というのもあるが自分の今の実力を知りたい、というのもあって僕は彼女と同じ曲を弾くことにした。
弾いていると本当に懐かしい思いに駆られた。あの時よりは確かに上手になっている。が、彼女には全く及ばない。もっと上手になりたい。そう思いながら演奏を続ける。演奏を終えると彼女は小さく拍手しながら上手ですね、と言った。自分の方が何倍も上手なのにその言葉からは嫌味のようなものは一切感じなかった。
「もう一回弾いて見てください」
彼女はさっきの弱々しい感じではなく、少し意思を感じさせるように言った。そのさっきと違った様子に圧されて僕はもう一度引き始めた。そして少し弾いたとこで少し待って、と彼女は演奏を遮った。僕が頭の上に?を浮かべていると彼女は弾いて見せながら言った。
「ここはこうするんですよ」
彼女のアドバイスは的確で分かり易かった。今通っているピアノの講師よりわかりやすいかもしれない。
そして、教えられながら1時間くらいが経った頃、校内放送が下校時刻を知らせた。
「そろそろ帰らなきゃいけない時間ですね…」
「そうみたいだね。今日は楽しかったしとっても勉強になったよ。ありがとう」
「いえいえ。あの、よかったらこれを受け取ってください」
彼女が差し出したのは古びた楽譜だった。楽譜を開いてみるとそれは連弾の曲だった。曲名は『Wonderful starry sky』だった。
「来週またきてくださいね」
そういう声がして顔をあげるとそこにはもう彼女の姿はなかった。
「本当に幽霊みたいな子だったな~」
そう思いながら楽譜をカバンにしまい帰ろうとして僕はあることに気付いた。
「あ、来週はピアノのレッスンじゃん…。どうしよう…」
僕はそのことを考えながら帰路についた。
◇
僕はその後その楽譜の曲の練習をした。この楽譜を渡してきたっていうことは連弾をしよう、ということなんだと思ったからだ。曲自体は簡単で1週間あれば十分に弾けるようになる曲だ。ただ、簡単だからこそ彼女のような優れた表現力が必要になる、と僕は思った。だからあの日彼女に教わったことを忘れないように練習した。ピアノのレッスンは講師に連絡して日付を変えてもらった。そしてすぐに金曜日はやってきた。
僕が放課後、すぐに旧音楽室に行くとそこにはまだ誰もいなかった。僕は楽譜を読みながら最後の確認をしていた。
「遅くなってごめんなさい」
声がして顔をあげるとそこには彼女の姿があった。気付けば時刻はこの前と同じ17時半くらいをさしていた。にしてもいつの間に来たんだろうか。まったく気がつかなかった。
「ちゃんと練習して来てくれたんですね」
彼女は心なしか嬉しそうに言った。
「それじゃあ早速弾いてみましょう」
そういいながら彼女はピアノの椅子につめて座った。僕も彼女が開けておいてくれたスペースに腰掛ける。そして彼女の身体に触れてドキッとしてしまう。もちろんこの椅子は2人掛けで作られてるわけではない。だから2人で座ると身体は少なからず密着してしまう。彼女の体温は僕をドキドキさせるには十分すぎた。
「どうかしましたか?」
彼女が訊いてきたが僕は気付かれないようになんでもないよ、と答えた。
そして彼女の最初の音から連弾は始まった。僕と彼女の演奏ははじめてとは思えないほど噛み合っていて楽しくて仕方がなかった。しかし演奏している途中、とあることに気付いた。
(彼女の指が透けてる…?)
目が疲れているんだろうと思い、気にせず演奏を続ける。
そして楽しい2人の演奏会は終わった。そして彼女の方を見ると、そこには身体の透けた彼女がいた。
「え…?」
「・・・ごめんなさい。私、幽霊なんです」
彼女は僕に向けてそう言った。僕には理解できなかった。さっきまで一緒に演奏していて、ぬくもりも感じた。なのに彼女は自分が幽霊なのだと言い、実際に消えかけている。
「本当にごめんなさい。でもあまりに楽しかったから。この曲、私が作曲したんです。だからどうしても誰かの中に残しておきたくて。それが未練できっと私はここにいたんだと思うんです」
そう言ってる間にも彼女はどんどん透けていく。
「待ってよ!僕はもっと君と演奏したいよ!」
僕がそういうと彼女は少し嬉しそうにはにかんだ。
「私もです。でも、もう時間みたいです。この曲、忘れないでくださいね」
そう言いながら彼女は一筋の涙を流して消えて行った―。
◇
それから一週間が経って、次の金曜日を迎えた。僕はピアノを弾く気になれず、レッスンそ休むことにして教室にいた。彼女と過ごした時間はごく僅かだったが、思い出はとても濃く心に残っていた。あの連弾を思い出すと、どんな演奏も霞んでしまうように思えた。もしかしたら全て幻だったのかもしれない、とも思ったが手元には彼女の存在した証拠の『Wonderful starry sky』の楽譜がある。それだけがあの出来事の証明だった。
時刻は今日も17時半くらいを回った頃。ピアノの音が聞こえてきた。きっと音楽室かどこかで合唱曲の伴奏の練習でもしているんだろうと思った。しかし聞こえてきた曲は合唱曲ではなく『流星』だった。
それに気づくとすぐに僕は廊下に飛び出した。そして耳を澄ませる。聞こえる方向は音楽室の反対側、旧音楽室の方向だった。僕は思わず全力で走って旧音楽室を目指した。そしてドアを思いっきり開く。
―ピアノのところには誰もいなかった。
僕はフラフラと歩くとピアノの椅子に腰を下ろした。
「気のせい、だったのかなぁ・・・」
はぁ、とため息をついた。
「もう、急にドア開けるからびっくりしちゃったじゃないですか」
急に後ろから声がして僕はすぐに振り返る。
―そこには幽霊のような、いや幽霊の少女が立っていた。
「消えたんじゃ・・・?」
僕は驚きのあまりうまく声を出すことができなかった。
「そうだと私も思ったんですけど、気づいたら何故かまたここにいたんです。きっと、もっと演奏したい、っていうのが未練になっちゃったんですね」
彼女はそう言ったあと、少し笑いながらこう言った。
「これからも、また一緒に演奏しましょうね」
Fin.