林文代
瑠依君という青年は、雨の中駆けていった。
時折、私の方を心配そうに振り返るのはあの子の優しさなのだろう。
とても良い子でタオルまで貸してくれた。
本当……お爺さんの若い頃にそっくりだったわ。
目の下の泣きぼくろや、仕草…
何よりも雨の日に傘を貸そうとしてくれた優しさが…
お爺さんのお墓参りの後だったからかしら。余計に、あの子とお爺さんを重ね合わせて見てしまったのかもしれない。
お爺さんの名前は林拓海。
どこにでもある普通の名前。
私と彼は中学の同級生だった。
私は、その頃、外の世界が怖くて外に出られなかった。
学校にはあまり行かなかった。
だから、正直彼のことは覚えていなかった。
高校はみんなと違う離れた場所にした。卒業式も出なかった気がする。
高校に無事入学して、何ヶ月かすぎた頃だった。
本屋の屋根下で雨宿りをしている彼を見かけ、勇気を出して傘を差し出した。
それが私と彼の出逢い…
何度か傘を届けに行ったし、私が雨宿りをしているときは傍に来て
「どうぞ、文代さん」
と、優しい声で私を呼び、傘の下に一緒に入らせて貰ったこともある。
それから、たくさんの思い出を彼から貰った。
外の世界が嫌いな私に、世界冷たいだけじゃないと、ひどいことばかりじゃないと…
彼が……
拓海さんが教えてくれた。
雨が次第に止んでいく。
晴れ上がった空には……
「…あ、虹だわ」
そう、この目の前に広がる綺麗な虹も……
全部、全部、拓海さんが教えてくれた。だから、私は今も生きているの。
「あーあ、はれてきちゃったね」
「でも、にじ、きれいー」
「けれども、おそとでれなくなちゃったよ」
「んー、どうしよっかぁ」
耳元で小さな子供の声が聞こえた。
男の子と女の子。
髪は少し茶色っぽく、どちらもくっきりとした二重で、2人ともよく似ていた。
……双子だろうか。
2人ともしょんぼりとした顔で空を見上げていた。
あまりにも悲しそうだったので、私は声をかけた。
「こんにちは、何か困っているの?」
「こんにちは、おばあさん」
「こんにちはー。あのね、あたしとりんくん、おそとにでれないのー」
「だから、らんちゃんとひかげにいる」
女の子はらんちゃん、男の子はりんくんと言うらしい。
でも、会話が掴めない。
外に出れないってどういうことかしら。
「らんちゃんとりんくんって言うのね。
どうしてお外にでれないのかな?」
「あのね、あたしとりんくん、にっこうあれるぎーなの。
きょうはあめだったからおそとにでれたのに、はれてきちゃったから」
「だから、おそとにいけないんだ」
そう、男の子がしょんぼりとした顔で言った。
そうか。この子たちは日光アレルギーなのね。
よく見るとこの子たちはカッパと長靴姿で傘をさしていない。
このまま、お日様の下に出てしまうと多分危ないんだわ。
「おうちに帰れなくなってしまったのね。可哀想に…」
「ううん、なれてるよ。いつも、みんながおそとであそんでいるとき、ぼくたちはおうちのなかだから」
「うん、なれてるー」
男の子の落ち着いた口調と、女の子のあどけない笑顔の裏の寂しさに気がついたとき、胸の奥がちくっと痛くなった。
普通であることが普通ではないこと。
やりたいことを我慢しなければいけないということ。
小さなこの子たちにとっては、きっと何よりも苦痛なのだろう…
「でも、いつかは外に出れるときがくるわ。私だって、こんなふうに外に出れるときがくるなんて思っていなかったもの」
そうあの時は…
思ってもみなかったんだ。
私は2人に向かって言葉を続けた。
「だからね、いつかきっと、2人もお日様の下にいくことが出来るわ」
私は笑った。
2人も私につられたかのように、大きな目を輝かせ、笑った。
その目に、もう寂しさの色はなかった。
……いつか、いつか、この子たちにお日様の光が降り注ぎますように。
私は、空の上にいるお爺さんに向かって願った。
「じゃあ、らんちゃんとりんくん、これを使って」
「……かさ?」
「これ日傘にもなると思うの。これをさして、おうちに帰りなさい」
「いいの?それ、おばあさんのなのに…」
「大丈夫よ。この傘は誰の物でもないの。困った人のための物よ」
私は2人に傘を渡す。
らんちゃんとりんくんは、小さな白い手でぎゅっと傘の柄をもった。
その必死な姿がとても愛らしかった。
「ありがとう、おばあさん」
「ありがとうございます」
「いいのよ、気にしないでちょうだい。ほら、これ以上晴れる前に帰らないと…
あ、そういえば、2人は双子なのかしら?」
さっきから気になっていたことを聞いた。
2人はにこにこしながら答えた。
「ふたごだよー。でね、なまえは、おはなの蘭と…」
「りんきおーへんの臨」
まだ幼稚園の年中さんぐらいなのに、難しい言葉を知っているのね。
私はくすっと笑ってしまった。
蘭ちゃんと臨君は傘を挟み、2人で傘の柄を持って嬉しそうに帰って行った。
その姿を見送って、私は屋根下から一歩踏み出した。
太陽はきらきらと輝き、水溜まりに光が反射してとても綺麗だ。
ざぁぁぁ…
急に強い風が吹き、視界が遮られた。
その瞬間……
『文代さん、幸せ?
僕といて幸せだった?』
と、あの人の声がした。
聞き間違いかもしれない。
でも、それはまさしくあの人の声で…
目の前には、会いたくて仕方がなかった、愛おしいあの人がいて…
なのに、とても悲しい顔をして私を見つめる。
私は彼を元気づけるように微笑んだ。
「ええ、もちろんよ。
あなたと出逢えて幸せだった。
今も、これからも、ずっとずっと幸せよ。
あなたのおかげよ、拓海さん。
どんなに苦しくても寂しくても、死にたいと思っても、あなたがくれた大切な思い出を胸に生きてゆくわ」
そう言うと、拓海さんはふわっとした綿菓子のように甘く微笑み、すっと姿を消した。
きっと心配性のあなただから、私のことが気がかりで仕方がなかったんだわ。
空を見上げる。
青く青く澄んだ空は、美しく、とても綺麗だった。
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