第三話
「マリエル! 土谷!!」
声が響いた。
半壊したホテルにようやっと辿り着いた男の声。
赤い柄のカッターナイフが夜に煌めく。
雨雫に濡れた黒衣が揺らめいた。
髑髏の顔が見澄ましたのは、暗い廊下に立つ胡乱な背中。悪魔の翼をもつ白い背中。
「!!」
そこへカッターが突き立てられる寸前、振り返った顔は『(笑)』。跳び下がって一撃をかわす。
「貴様――」
「あぁ、シロちゃん? ナイスタイミング」
降り立つ黒い男の名はシロ。応える白い悪魔の名はスマイリー・ジョー。
――雨が降っていた。
降りしきる雨が、その建物を包んでいた紅炎を消し去ってからどれほどの時が経っただろうか。
それまでの間、髑髏の男は懸命に走っていた。雨の中、夜の町。無表情の灰色を蹴って、襲い来る下級悪魔達を薙ぎ払いながら。
そうして。
辿り着いた。
ようやっと。
だと言うのに。
だと言うのに。
だと言うのに!
「『遅かった』ですねぇ」
笑う悪魔の半身は赤色だった。
血だらけの生々しい皮で覆われていたから。
では、それは何の皮か?
「この子に焼かれて服がダメになっちゃいましたからぁ、直してましたのです!」
答えは、そう言って敬礼の仕草をしてみせるスマイリー・ジョーの足下。
そこには、皮を剥がれた人間の死体が転がっていた。
真っ赤な。真っ赤な。けれど唯一、顔の皮だけが残っていて。横を向いていた。シロにはちょうどその顔を確認する事ができた。
そしてシロはその死体の名前を知っていた。
「……土谷」
呟いた。和束はただ、目を見張って息を飲む事しか出来なかった。
「そんな、馬鹿な……」
「バカ? そんなバカなコト言っちゃあいけないよぅ和束ぴょん。これがサプライズパーティーに見えるのかい? 現実さ、君達が『間に合わなかった』っていうね」
言いながら、スマイリー・ジョーはシロの方へと土谷の骸を蹴っ飛ばした。そのまま流れる動作で手を広げ、高らかに詠いあげる。
「さ~~そんなこんなで改めまして初めまして! 我輩の名はスマイリー・ジョー! ようこそ、Disへ! Disは君達を歓迎するッ!!」
悪魔の声。されどそれはシロにほとんど届いていなかった。物理的には届いている。だが彼の脳はそれを認識していない。その目はじっとうつむき、皮の無い土谷の骸を灰色に映していた。
皮の無い。肉の組織が露出して真っ赤な色の。
見覚えがあった。
この『殺され方』に。
皮を剥がれる――皮を――赤い――
『いたいよ……痛いよ……』
脳裏に蘇る少女の声。心臓が強く縮み、頭痛と共に吐き気が襲う。半歩よろめく。
何か、何か、何か、思い出してしまいそうな。思い出せない。何かが。気持ちが悪い。
「シロさん……シロさん!?」
違和感に気付いた和束は驚いた様子でシロの名を呼ぶ。おかしい。死体や血にショックを受けるような人物ではないと知っているからこそ。
だが悪魔にはショッキングでグロテスクな光景に吐きそうになっているのだと映っていた。カラカラ笑う。
「我輩は人間の皮が好きでしてねぇ! コレクションいっぱいあるんですよぉ。色々オシャレに加工してね、ソファにベッドにカーテンに……あ、この服、全部全部ぜ~んぶメイドイン人間! いや~人間の皮はチョーイイネ! サイコー!」
見せ付けるように片手で白いコートを叩く。ツギハギだらけの漂白コート。この悪魔には蒐集癖がある。人間の皮マニア。人間の皮を剥ぎ取って家具や服にするのが大好き。理由は知らない。好きだから好き。
まぁそんなこんなで。そう続けたスマイリー・ジョーは大仰な身振りでシロを指差し。
「君の皮、貰うよ」
それにシロは答えなかった。緩やかに顔を上げる。奈落のように暗い感情を湛えた目。
そうだ、自分は、この声を、聴いた事が、ある。
いつ? それはあの日。
あの日だ。
全てが壊れたあの日。
フラッシュバックする光景――赤い色。燃える町。
思い出した。思い出してしまった。
そうだ――こいつは――こいつは……。
「……」
シロはおもむろに深く被った上着のフードを取り払った。髑髏の覆面。顔の無い男の顔。それに片方の手をかけた。
ゆっくり。少しずつ。
男の手が、自らの『顔』を剥ぎ取ってゆく。
「……!」
きっと悪魔は人皮覆面の奥で目を見開いただろう。シロが覆面を取り去ったそこ、彼の顔面、そこには――爛れて崩壊しきった顔があった。
「『貰う』だと? ふざけるな。今度は俺がお前の顔面を剥ぎ取る番だ」
引きつった顔面が動き、低い声が暗い廊下に響く。「あぁ」とスマイリー・ジョーが手を打った。
「いつどこのだれかは存知あげないけど、その顔はあれだね、我輩の仕業ですねぇ。いやはや。なんて奇妙な運命!」
「……そうやってマリエルも殺したのか」
「マリエル? あー、あの……我輩が『子供』にあげようと思ってたオモチャの事かぁ。それは置いといてオトナの事情で言えんですなァ」
「殺したんだろう! 土谷のように――マリのように!!」
心の底にて澱んでいた感情を露呈させて。声を荒げた男は『顔』を直すと同時に地面を強く蹴って飛び出した。破壊の赤いオーラをまとった刃が暴力的に叩き下ろされる。その一撃は凄まじく重く、悪魔が槍を構えて防御しても衝撃に吹っ飛ばされるほどだった。
「くそ! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!! ブチ殺してやるクソ悪魔がァアアアアアアッッ!!」
ケダモノのような咆哮。怒り。憎しみ。それらは全て殺意に収束されて、放たれるのは疾風怒濤の猛攻撃。殺してやる。殺してやる。吐き散らす呪詛。殺されたモノより何千倍も無惨に殺してやる。
それは自他を全く省みない猛撃だった。反撃に悪魔が魔法を放とうが、それがシロの身を裂き肉を抉ろうが彼は前進を止めず、ただただ攻撃の為に噛み締めた歯列から呻り声を漏らし刃を振り回す。一切の防御を捨てた絶対攻勢。
「ぬおっ……マジか」
防御の魔法陣すら切り裂いて行われた攻撃に肩口を深く切り裂かれながら悪魔は驚きを見せる。魔法で召喚した剣が四肢に突き刺さろうが人間は凶器を振り上げるのだ。正に狂気的。爆発した怒りに痛みも躊躇も感じないのか。
「あぁ、人間ってホント、時々悪魔がドン引きするぐらいの『アレ』ですねぇ」
言いながら、三又槍を振るうと共に魔法弾を発射した。しかしそれはシロに命中する事はない。
「ハズレだ。死ね悪魔」
「そうかな。死ね人間」
人は怒り、悪魔は笑う。
シロのカッターがスマイリー・ジョーを捉えんとした――刹那。
大きな爆発。それは先程シロがかわした魔法弾によるものだった。
巻き起こる爆風がシロをブッ飛ばす。シロだけでない、この半壊した建物も。
「貴様――」
「のほほほほ、我輩脳筋ではないのでーす」
スマイリー・ジョーは最初から建物を壊す事が目的だったのだ。シロがその事に気付いた時にはもう、悪魔は呪文を唱え影の中へ溶け入るようにその場から姿を消していて。
「逃げられると思うなよ! この俺から!!」
「シロさんッ、逃げないとマズイですよ!」
「くそ――くそ、分かってる!」
和束の声に返した舌打ち。しかしそれは、崩壊する瓦礫の音に飲み込まれ――
轟音と暗転と。
「シ……シロさん、シロさん!? 大丈夫ですか! 生きてますか!?」
和束が見るモニターは真っ暗。青ざめる顔。いかに覚醒者と言えど、建物の崩落に巻き込まれたらタダでは済まないだろう。溢れる嫌な予感に和束は唇が渇くのを感じた。
唾を飲み込み、声を張る。
「シロさん! 応答して下さい!!」
「……やかましい、でかい声でわめくな」
苦しそうにくぐもった声であったが、それは彼が生きている何よりの証。和束は深い安堵に胸を撫で下ろす。
「良かったぁぁ……」
「この状況のどこが『良い』んだドアホ」
「あなたが生きていれば何もかも良いんですよ」
相変わらず画面は暗いが、返ってきたのは舌打ちだった。それに尚更、和束はホッとする。
しかしシロの言う通り状況は良くない。シロは崩壊した瓦礫に挟まれ動けない。崩落の所為で全身が痛い。それ以前に全身傷だらけの血だらけで、失血の為に少し意識がボーっとする。
「大丈夫……ではないですよね」
「何とかする」
呻くように言い、シロは握り締めていたカッターナイフに力を込めた。炸裂させるエネルギー。ずどん、と大きな音と共に炸裂する。瓦礫を吹っ飛ばす。
今だ――身体の自由を得た瞬間、シロは素早く瓦礫の中から脱出する。二次的な崩壊に巻き込まれぬ内に瓦礫片の散らばった道路へ転がるように飛び出した。そのまま何度も咳き込む。激しい疲労と痛みと傷にクラクラした。
くそ。シロは心の中で悪態を吐く。くそったれ。
「シロさん、シロさん!!」
最中に和束が焦った声でシロの名前を連呼した。周りを見てみろと言うので彼はふらつきながらも立ち上がって周囲を見――目を見開いた。
道路を封鎖するように並んだ装甲車。その周囲にいるのは完全武装した人間達。手に手に武器。シロを取り囲んでいる。
「これは――」
「警察の『対天魔覚醒者部隊』のようですね。さっき私にケンカふっかけてきた連中ですよ」
和束の忌々しげな声。対天魔覚醒者部隊、それは警察が設置している覚醒者のみで構成された特殊部隊であり、覚醒者や天魔による事件の解決が彼等の主な任務である。
そんな彼等が、物々しい雰囲気でシロを取り囲んでいる。そして彼等は、この町の人間は、スマイリー・ジョーの支配下にある。
つまり、そういう事だ。
「……撃退士シロ。よくもまぁ、ホテルに宿泊していた罪無き市民を虐殺してくれたな」
隊の中、流れる溶岩のように深い赤の髪をした壮年の女が冷然とした声でシロに声を放った。おそらくは隊長か。その佇まいには隙がない。
「寝言は寝て言え寝ボケ野郎。全ては悪魔の仕業だ」
「それ以上憐れまれる前に口を閉じるんだな、虚言症」
文字通りの問答無用だった。言葉が終わると同時に隊長が掲げた手を振り下ろす。
シロは舌打ちを噛み殺した。本能が告げる生命の危機。まずい。絶体絶命。だが死ぬ訳にはいかない。何か、何か突破口がある筈だ。諦めるにはまだ、まだ。
――視界一杯に、魔法使い達が放った魔法の鎖が唸り迫る。
「っぐが、!」
幾重にも幾重にも絡み付き、締め上げ、動きを拘束する魔の鎖。骨が肉が軋む。息が詰まる。
畜生、畜生畜生畜生め。
「おォあああああああああッ!!」
力尽く。髑髏男は魔法の鎖を振り解き、引き千切り、切り裂き砕く。
だが、片膝を突いた。体力の限界。垂れる血液。霞む視界。荒い息。和束の気遣う声。
それでもシロは倒れる事を自身に許さなかった。
「知ってるよシロちゃん。君は人間相手じゃ『本気』を出せない。チェックメイトなんだな」
特殊部隊の奥、隊長格の女の隣にスマイリー・ジョー。シロの刃のような睥睨はただそこにあった。
悪魔。悪魔を殺す。悪魔を殺さねば。
それが撃退士。人類の戦力。
人類の――……
「さ、蓮寺ちゃん。やっておしまい」
「了解」
人類の。人類の為に。
皮肉なものだ。
護りたい存在から攻撃を受けるのは。
シロの視界から蓮寺と呼ばれた隊長格の姿が消える。否、消えたのではない。一瞬の内に懐へ潜り込まれた。速い。なのに何故かスローモーションに見えた。回避を。駄目だ。身体が動かない。振り上げられた相手の拳はガントレットで堅固に武装されていた。
一閃、鈍い鈍い衝撃がシロの腹部を強烈に貫く。盛大に吹っ飛ばされる。捨てられた人形のように力無く地面を転がる。
シロさん。シロさん。泣きそうな和束の声。地面にうつ伏せの人間。
「和束……」
ごほ、と逆流する血交じりの胃液に噎せながら。シロは言った。
「許せ」
ぶつん。
どこかの地にいる和束のモニターが真っ黒くなって通信できなくなったのは、シロが己と和束を繋ぐ通信機を破壊したから。
なぜか。それは、この通信機から和束の居場所が逆探知されて特定されてしまうのを防ぐ為。
和束を護る為。
大馬鹿野郎。叫んでテーブルを叩いたその音は、髑髏の男に届かない。
「さぁ~寄ってらっしゃい見てらっしゃい。この人間は『撃退士』。おっかなくっておっそろしい暴れん坊なのですよぉ~!」
連行されゆく人間を指差して悪魔が言う。意識を失った覆面の男。笑う文字が顔面にある悪魔。周囲には人だかり。街の住民。覚醒していない彼等の心は悪魔の意のまま。悪魔のお人形。じっと見ている。幾つもの視線。無表情。
「うーん怖いね怖いね。髑髏の顔なんかつけちゃってさ! でももう安心大丈夫、悪い子は牢獄往きですからねぇ~~~Disの平和とオマワリサンに拍手っ!!」
ぱちぱちぱちぱち。スマイリー・ジョーが手を叩けば、人だかりは急に満面の笑顔を浮かべて拍手喝采。自作自演。わぁーーっと雨の夜中に大歓声。口笛がはやす。
それらを、横目。特殊部隊の隊長は変わらぬ無表情のまま悪魔に問うた。
「……殺さないのですか」
あの男。覆面の黒い男。わざわざ生け捕りだなんて。その言葉に、振り返ったスマイリー・ジョーは悪魔尻尾をくねらせながら快活に笑った。
「あぁ、駄目駄目駄ぁ~~目! 分かってないですねぇ蓮寺さん。ここで『ヒーロー』を殺すのはチキンな三流ヒールがやることですよぉ? 王道は王道だから王道ザマス、王道に背を向けまくるのは良くないザンス。たぶん。たぶんね」
傀儡の喝采に囲まれ、それに応えるよう手を掲げながら。へらへらしながら、口調は淡々と冷然とそこに佇んでいた。傍若無人にふざけきっているように見えて、この悪魔にはどこか異様なほど客観的に冷え切っている部分がある。およそ人間には至れぬ極地。
スマイリー・ジョーは黄色い声を上げて己を讃える少女を気紛れに抱き寄せる。頭を撫でる。人間は悪魔の思うがままに笑っている。バンザイ。バンザイ。
「ぴーすぴーす」
ぶいっと悪魔は片手でVサインを作った。それを、笑う少女の顔にまぁるく二つある綺麗な青い色の中へ――
「ぐりぐりどーん。ぶしゃーぐちゃぐちゃーどろどろぼーん。つまりはこういう事なのさ簡単実に簡単なんだって。死亡フラグへの、限界への、ボーダーの向こう側への、王道への、己への、人類への、何かへの、全てへの、挑戦、挑戦さ、挑戦だよ、挑戦なのよ、お分かり?」
淡々々々。その間も悪魔に脳をヤられた少女は笑っていた。笑っていた。けらけらころころ。
「分かる?」
真っ赤に染まり切った細い指。用済みの人形をその辺にぽいっと捨てて。スマイリー・ジョーは『(笑)』の顔を傾げてみせる。
「うん」
返事を聞かずに頷いた。
「まぁ、あれだ、友情努力勝利、それから恋と冒険」
支離滅裂にして意味不明な言葉を吐きながら、スマイリー・ジョーは口笛を吹き歩き出す。喝采に包まれながら。蓮寺のひそめられた視線を浴びながら。笑いながら。
「今日も良いお天気なのですわぁ。死んでしまえ」
見上げた空は雨を返事に咽び泣いた。