第三話
「ここでさぁ、我輩が『フフ……カッとなってアイツの術を解いてやったのだ』とか言ったら良い話がダイナシじゃね?」
そんな声が響いた。
「アレかな。元々スッゲー改造を拒否ってたからかな。うーん。でもここは麗しく『奇跡が起きた!』って事にしようぜ! だって、君達、そーゆーの好きでしょ? 愛と感動と夢と希望ってサ……ホラそこ、『ご都合主義乙』ってひねくれな~いのっ! 寧ろご都合主義じゃない世界なんてこの世にあるのかい? 重箱ツツキマクリーヌのアラ探しより宝探しに出かけようぜ」
暗い暗い空間の中。声はただただ陽気だった。
「ん、ん、常識的じゃないから却下? こんなの許せない? 認められない? 駄目ったら駄目? 変だからアウト? まぁた、もぉ。いいかい、人を祝福するのって案外悪くないでっせ。思い出してごらんよ……君にもそんな時代があった筈だ! 子供の様にピュアッピュアで! うんこネタでも大爆笑できてた時代が!! あっ、下ネタはアウトですかぁ? ソーリーソーリーヒゲソーリー」
誰に向かって。何を言っているのか。声は笑う。理解を求めながら、理解を拒否する舌の上。
「楽しいよ。常識の中でしか生きられない人を非常識のプールに突き落とすのは。ねぇねぇ知ってるかい。わからないって、わからないってことがもうすでにわかっているからわからないっていうのはわかってるってことなんですって。誰かが言ってましたよ」
さて。さて。
暗転したままじゃ物語が進まない。
それじゃあライトアップといこうじゃないか。
とっておきの拍手喝采で迎えておくれ。とっておきの罵詈雑言で祝福しておくれ。
神は言った。「光あれ」。こうして、光が出来た。
エリ、エリ、レマ、サバクタニ。
斯くして明転。
それはボンヤリとした橙色の光だった。豆電球のそれのようだ。
照らし出されているのは、長い長いテーブル。真っ白いテーブルクロス。火の無いキャンドル。瀟洒なデザインのティーセット。お茶会。座っているのは二人だけ。対極に、向かい合って。
「何の意味がある? 一体何が? 何故なんだ?」
片側の極に座る人間が問うた。その顔は髑髏で黒く、表情は見えない。フードも目深に被って目線を悟られる事すらも拒否している。拒絶の男。だらんと垂れた片方の手には赤いカッターナイフ。血が滴る。まるでカッターが血を流しているかのように延々と流れ、ポタリポタリと暗黒の床に滴る音を響かせた。
「その問いに我輩が完璧で疑い無く幸福な返事をしたとして。それで君は、はたして、かくして、納得をするのかしら?」
反対の極に座る悪魔が答えた。その顔は『(笑)』の赤い文字が陣取った白色で、表情は一切見えない。それでも楽しそうだ。愉悦の悪魔。人間の皮を漂白し加工した帽子に外套に手袋に靴に、ツギハギばかりが灯りに目立つ。背中から生えた翼が、臀部から生えた尻尾が、暗い中でゆらゆら揺れた。
「まぁ、まぁ。さっきからずーっとバトルばっかだろ? 流石にだれちゃいますよ、我輩。だってどうせバトルになっても正義の味方が勝利して大団円なんだから」
空っぽのティーカップを指先で突きながら悪魔は笑った。人間は虚ろな目で、ドス黒いヘドロで満ちたティーカップを眺めながら言った。
「負けを認めるのか?」
「あれ? いつ誰がどこで地球が何回まわった時に『我輩は正義の味方じゃないです』って言ったのです?」
「お前は悪だ」
「その通り」
「矛盾している」
「悪いかい? だって悪いから」
「……14年前。何故、俺の町を壊した」
「新しい皮が欲しかったからね。それ以上もそれ以下も無いよ。仰々しくて壮大で大スペクタクルでしかつめらしい理由じゃないと納得できないかい? 君は行動に一々理由を付けるのかい?」
「何故、マリを殺した」
「たまたま殺したのがマリでした」
「何故、お前はこの町を壊そうとする。この世界の秩序を乱そうとする」
「我輩は『悪』ですからね。我輩は徹底的に悪ですからね。悪ったら悪ですからね。生まれ付いての悪ですからね。そうせざるをえないのさ。そうあるものなんですよ。雨が降った後は晴れるように。沈んだ太陽が再び昇るように」
「……難しい」
「だろうね。まぁ、考えすぎると頭が痛くなりますわよ。君達が思っている以上にね、日々ってのはテキトーなもんですよ。それはそうと、君ばっかり質問してちゃアレだから我輩からも質問してもいいですかぁ?」
「何だ」
「どうして君は正義なの?」
「悪が許せないからだ」
「どうして悪が許せないの?」
「悪は大切なものを壊し殺し奪うからだ」
「正義って何?」
「正しい行いだ」
「正しいって何?」
「許せない事以外のものだ」
「哲学だね」
「知ったこっちゃない」
「でも十人十色なんでしょ、知ってる」
「だろうな。俺も知ってる」
「我輩達って気が合うね」
「だが殺す」
「そうかぁ。残念ですよ」
「良かったな」
「ねぇ、普通って、正義が勝つじゃないですか」
「当然だ」
「でね、もし悪が勝っちゃったらどうなるのです?」
「そんな事はありえない」
「『もし』の話ですよぉ。その場合は、悪が正義になっちゃうって事かしら?」
「勝った奴が正義、か」
「そうそう」
「ならば、どちらが正義か決めようじゃないか」
言いながら、人間はカッターナイフを持った手を振り上げた。赤い色が鈍く光った。
振り下ろされる。
それはテーブルの上、ヘドロの入ったティーカップを叩き割って。
飛び散った。
飛び散った。
滅茶苦茶に。塗り潰した。
「……――」
閉じていた目蓋を、緩やかに開いた。
「シロさん、シロさん! ちょっと、息してます!?」
直後に耳に届いたのは和束の心配した声である。「生きている」と答え、シロはぐらつく意識を明瞭にさせる為に頭を振った。
「ビックリしましたよ。エレベーターが真っ暗になったかと思えば……皆倒れてしまって。シロさんも突っ立ったまま動かなくなっちゃいましたし……」
和束にそう言われて、ようやっと明瞭になってきた視界で周囲を見てみれば。自分以外に立っている人間はいない。特殊部隊の者も、美崎達チンピラも、ことごとく。ギョッとしてしゃがみ込んで様子を見てみたが息はしていた。外傷も見当たらない。気を失っているだけか。ゆすってみたが、起きる気配も無い。
「一体何が起こったんですか……?」
「幻術かその類だろうな。大規模な魔法陣を使ったとはいえ、スマイリー・ジョーはこの町の一般人の意識を丸ごと操る様な奴だ。おそらく、元からそういった精神干渉系の魔法が得意なんだろうよ」
故に、先のもそれだろう。暗い空間。橙色の灯り。ヘドロで満ちたティーカップ。悪魔の声。頭痛の残滓が脳で笑う。
「成程……。私は『その場』にいないのでかからなかったのですね。よかったよかった」
「全くだな。一般人のお前が直接喰らったら精神崩壊もありうる」
「……うわぁ」
明らかに和束が顔をしかめた声を発した。
さて……シロは目の前の扉を見る。エレベーターの扉だ。鈍い銀色。あのエレベーターが動いている時の独特の感覚が無い事から、止まっている事が窺い知れる。到着したのだろうか。扉はシンと黙している。
シロはそれに手を伸ばし、力尽くで開こうと試みた。だが扉は彼の手が触れる前に一人でに開く。けたたましい駆動音と共に。
「……!」
視界に広がったのは広い円状の空間だった。一面が硝子張りだ。夜の下、雨に打たれるDisの光景が一望できる。
そして――そこに、いた。白い人皮の悪魔。『(笑)』の赤文字。悪魔尻尾をくねらせて。周りに改造少女を10人程、侍らせて。
「こんばんは。久しぶり。また遭いましたねぇ。よく来ましたねぇ。ネッ、シロ君?」
悪魔、スマイリー・ジョーは愉快気な口振りで手にした悪魔三叉をくるりと回した。周囲の少女達がくつくつと含み笑う。凶暴な色を眼光に湛えて。
「改めまして、Disをメッタクソにしている張本人ならぬ張悪魔、スマイリー・ジョーでございます。そして彼女達は殺戮少女部隊、可愛い我輩の娘達でございます。
さて。ご託は止そう。もういいだろう。ダラダラ焦らすのも良くないからね。大丈夫、先に言っておくけど裏ラスボスとかはいないです。我輩がちゃんと黒幕でラスボスです。我輩を倒せば全部全部終わるのさ。何もかも。呆気なくね。……で、準備は良いかい? それじゃ始めよう」
それはまるで食事を始める様な自然さで。気軽さで。
スマイリー・ジョーが指揮をするかの如く三叉をシロへと突き付けた。瞬間。キャハハハハハハハハと少女達が笑い、背中の悪魔羽を広げ、セーラー服を翻し、一斉にシロ目掛けて突撃を仕掛けてくる。
「シロさん、頑張って下さいね!」
「当然だ」
和束の声援を受けながらシロも大きく踏み出した。後ろに気を失った仲間達が集団でいる以上、彼女達を通す訳にはいかない。
指を銃に改造された少女が弾丸を放ち、背中からドリルアームを生やした少女が突進してくる。
シロはそれらを横に飛んで回避しながらカッターナイフを振るった。飛翔する斬撃。ドリルアームの少女のセーラー服が血に染まる。
数が多い。敵の数は13。どれもその辺の悪魔より強力。攻撃を回避するだけでも至難の技。ましてや隙など見せやしない。
「殺戮少女部隊。どうだい、中々キレッキレでクールなネーミングセンスでしょう?」
人間と、13の悪魔少女。その戦いを見守りながらスマイリー・ジョーは言う。
「もう気付いてると思うんだけど、その子達はシロ君がおっかけてた事件の子ですよ。我輩がね、スカウトしたのさ。まぁエミちゃんは特例なんですけど。んじゃスカウトって何かって? そのままの意味さ。我輩があっちこっちでお誘いしたのさ。『ちょっとそこなお嬢さん、その力をもっと素敵にしてみたくはないかい?』」
普通である人間が『異能』の力に覚醒する。いつ、どうやって、どんな条件で覚醒するのかはいまだ解明されていないが、唯一言える事実は『覚醒者は選ばれた人間である』という事。
普通でないのだ。素晴らしいのだ。何もかもが他よりも優れているのだ。力が。判断力が。記憶力が。基礎的な力の上昇だけでなく世間で言う超能力や魔法と呼ばれるものまで使用できるようになる。人間に出来ない事が平然と出来るようになるのだ。
それを手に入れた者が心から清い者ならば、それを世の為人の為と喜んで揮うだろう。
だが、悲しい事に、欠片も邪念も抱かない者などどこにもいないと言えば嘘になるのがこの世界で。
誰しも、抱いてしまうのだ。ふっと想像してしまうのだ。
『この超常の力を自分の為だけに使ったらどうなるんだろう?』
『こんなに凄い力があったら真面目に働かなくっても生きていけるんじゃないだろうか?』
『銀行強盗も殺人もあまりにも容易にできてしまうのではないか?』
『思いっ切りこの力を使ってみたらどうなるんだろう?』
それは力への渇望。大きな力を持ったが故の破壊衝動。一般人への優越感。
素敵な服を手に入れたら早速着てみたくなるように。美味しい食べ物を目の前にしたら今すぐ口に入れたくなるように。
それは覚醒の影の部分。
ましてや、精神的に未熟な少女達など。
だからこそ、彼女達は、自らの力を持て余していた者達は。乗ってしまったのだ。嬉々として。悪魔の言葉に。スカウトに。新しい世界が見たくって。自分の力を思いっ切り発揮してみたくって。何故なら、自分達は選ばれた人間なのだから。普通に生きる必要なんて、もう、ないのだから。
「言っとくけど、無理矢理殴って蹴って妖しい薬を嗅がせて拉致したなんてありませんからねぇ? 我輩ったらジェントルメーン。皆々喜んでましたよ。楽しみだって。素直で良いと思うよ。うん」
少女の鎖付き棘鉄球の腕で強かに殴られ吹っ飛んだシロを見、ツギハギ悪魔は続ける。
「質問する余裕なんてなさそうですけど、君はきっとこう思っているね。『なんでそんなことをするんだァーッ』ってね。お答えしよう。ズバリ今は戦争中だからね。クリーククリーク。天界VS冥界。悪魔の我輩として、天使達はクソ鬱陶しいのよねん。殺したいのよね。悲しいけどこれ戦争なのよね。じゃあ戦争だから兵士が要るよね。造ったよね。しかも人間使えばコストはかからないし覚醒者使えばメチャ強いのが出来るよね。その為にあの天使っこを拉致って肉喰わせて天使の肉の味を覚えさせたかったのにっ! まぁそれはそうとしても我輩エッラーイまじ天才だわ~」
殴打音が咲き乱れ。血華が散って。首を掻き切られた一人の少女が鮮血を噴き出しながら倒れる傍ら、息を弾ませる人間が悪魔の『(笑)』の顔を睨ね付ける。
「……ド腐れ糞外道が」
「最高の褒め言葉です。で、今の話聞いてさ。君はどう思います? この子達は、ワルモノ? 絶対に殺さないといけない存在?」
好奇心とちょっとした反骨精神で堕ちてしまった少女達。嫌々ながら改造されたのではなく自ら望んでそうなった子供達。
ひょっとしたら自我とか取り戻すかもね。スマイリー・ジョーが小首を傾げる。ウルトラCが暴発して奇跡でも起こりまくればね、と付け加えた。
奇跡は、何度も起こらないからこそ奇跡なのであり。
「殺すし殺せる」
圧倒的な断言だった。シロだけでない。精神攻撃で気を失っていた人間達も一人また一人と立ち上がり、武器を構えて。
殺せるし殺す。無情で不条理だからこそ、不敵に笑って引き金を引くのだ。クソッタレと心の中で吐き捨てて。嗚呼、Dis(最底辺)の名にふさわしい様相。
立ち上がった特殊部隊の一人がシロへ回復魔法を飛ばし、シロは傷の癒えた脚で踏み出した。刃を振り下ろした少女の腕をカッターで受け止めて、そのまま一閃。赤血。また一人の少女が倒れる。
少女は確かに強力だが、それは単に『能力が高いだけ』。連携や技能は決して高いとは言えなかった。
ならば人間はそこを突く他に無く。
おおおおおおおッ、と力強い雄叫びが響き渡る。
その最中。氷の杭を打ち出しながら、今だ精神攻撃の所為で頭痛が残っている美崎は苦い表情であった。
(あれが俺達のボスだったのかよ……)
少女達の奥、ノンビリしている不気味な悪魔。さっき、意識が滅茶苦茶になって昏倒してしまったのもアイツの所為か。まさか、まさかこうして直に会って、更に戦う事になるとは夢にも思わなかった。まさか夢なんじゃなかろうか。全部全部、本当は全部全部夢で、自分は今ボロっちくも温かくて平和極まりないお布団の中じゃあなかろうか。
だといいのになァ――少女が放った魔法弾に頬と耳を切り裂かれ、その痛みで現実だと分かり切った事を知りながら。
「しっかし、女の子に攻撃すんのは気が引けんなぁ……」
美崎は誰とはなしにボヤいた。このどこまでもイカれた町で、空間で、状況で、ある種美崎ほど『マトモな』精神状態な者はいなかっただろう。ある意味彼は幸福な人間と言えた。
「少女悪魔は我々に任せて――貴方はあの悪魔を!!」
構えた小銃で掃射を繰り出す特殊部隊の者がシロへと叫んだ。
「了解した」
短く答え、シロは人間達が血を以て切り開いた道を行く。ある者はその身を呈して少女の行動を阻害し、ある者は吹っ飛ばすように槌を振るい、ある者は足止めの為の魔法を唱えて。
シロは駆けた。細い、一本道。悪魔少女の射撃を掠め、その黒い衣服に新たに赤を滲ませながら。
「……」
悪魔と目が合った。正確には『そんな気がした』。それから、奴が笑った気がした。いや、笑っているのは常時なのかもしれない。
「やぁヒーロー。殺しに来たのかい」
「よう糞悪魔。殺しに来たぞ」
寸劇のやり取り。
髑髏の男が一気に飛び出す。赤い赤いカッターナイフを振りかざして。
一直線に突き下ろされた。それは悪魔が構えた三叉とぶつかり合う。堅い者同士が激突する鋭い音が響く。
「殺すって簡単に言うけど、命ってホントは尊いし重いんだぞ~?」
「私はそうは思いませんけど? だってこの世界は不平等ですから」
飛び退いたスマイリー・ジョーの言葉に対し、しれっと答えたのは和束であった。彼女は戦闘中はいつも黙し見守り偶にシロを応援する事ぐらいしかしない為に、珍しい出来事である。
「だって貴方の命って、何億個集まろうとシロさんの命に釣り合いもしませんから。ハッハーざまぁ!! ねぇいまどんなきもち? ねぇどんなきもち?」
渾身の悪口だと和束はせせら笑う。彼女が和束だからこそできる業。普通の人間ならば悪魔に文句を言う前にミンチである。言ってもミンチである。だが和束は電脳少女。ミンチにされる肉体は、そこに無い。
それに――『この世界は不平等』だとは本当に思っているのだ。平等ならば、自分は、覚醒者として、シロの隣にいるだろうから。
「さっシロさん、あとは愛と勇気と友情と希望と努力の力でコイツをコテンパンにするだけです。貴方なら、きっと。絶対に。出来ますよ」
だって貴方は私のヒーローですから。彼に出来ない事なんて無いのだから。
和束のその言葉に、当の本人はと言えば「はいはい」と相変わらずの口調で答えて。猛攻を仕掛ける。展開された魔法陣の防壁を切り裂かんと強打を繰り出す。
「良い相棒さんですねぇ」
「まぁな。死ね」
悪魔に対しシロが吐くのはあくまでも呪詛。赤い気を込めた剣閃が魔法陣を鋭く切り裂き、その奥に控えていたスマイリー・ジョーの服もわずかに切り裂いた。
ならばこちらの番だと、スマイリー・ジョーは軽やかに三叉を回した。
「赤くて赤い、腐った実! 落ちて潰れて爛れてしまえ!」
呪文詠唱。悪魔の頭上に造り出された魔法の火球が轟と発射される。
飛び躱すシロであったが、床に着弾した火球が小さな火の玉となって四方八方に爆ぜ散った。その一つは爆風と共にシロを焼き、吹き飛ばす。
「ぐッ……」
部屋をぐるりと取り囲んでいた硝子に大きなヒビが入った。転がりながらも体勢を立て直し、シロは駆け出す。相手が魔法を得意とする以上、距離を開けるのはこちらに不利だ。悪魔が放った魔法の散弾を腕を構えて最低限の防御をしつつ、男は踏み込む。
突き出す刃がスマイリー・ジョーの肩口に突き立てられた。
だが同時、悪魔の掌がシロの顔を鷲掴む。ギリッ、と突き刺さる指先が頭蓋骨にめり込んだ。
「もっかい『整形』してやろうかい? そーれドッカーン!」
口走った擬音と共に大爆発。衝撃に大きく上半身を仰け反らせた人間がそのまま背中から倒れてしまう。
「シロさん!」
「生きてる」
和束の声に、咳き込む声。ボロボロになった覆面の間から破けた皮膚が露出し、真っ赤な血を滴らせている。それでも彼の命を終わらせるには足りず、喉笛目掛けて突き下ろされた三叉を地面に倒れたまま転がって回避してはよろめきながらも立ち上がる。カウンターに一閃。また一枚、漂白された人間の皮が裂けた。
武器を構える。
交差する視線。
攻防。刃と魔法。
滲んだ血。
背景で聞こえる激戦の音は人間と元人間とが奏でる戦闘音楽だった。『だった』なのは、その勢いも次第に無くなっていったのは、人間も改造少女も一人一人と床に伏しているからだ。
今や、罅が入り割れた硝子に囲まれたこの空間に立っているのはシロとスマイリー・ジョーのみ。
血の散った硝子の裏側では、雨が滴る。雨は止まない。夜は更けない。
シンと静かだった。
「絶対正義と絶対悪。最後に勝つのは正義の味方か? やっぱり死ぬのは悪い奴か?」
くるり、悪魔が構えた三叉が回る。繰り出された魔法の刃が唸りを上げる
「勝つから正義なのか? 正義だから勝つのか? 負けるから悪なのか? 悪だから負けるのか?」
漂白された人皮に滲んでいるのは赤い色。それに対し、フン、と鼻を鳴らすのはボロボロの髑髏顔。言葉は紡がぬ。刃が答え。力の限り、命の限り、人間は戦う事を止めはしない。
最中――シロが思い返すのは昔の事。顔があった頃。顔が無くなった時。自分が壊れた日。赤く燃え尽きたあの日。何もかもが。
男は夢見た。こいねがった。憧れた。救済者に。ヒーローに。そうあろうとしてきた。その為に『顔』を被り、武器を握り、明日の希望の為に命を賭ける事を決めた。
正義。例え幾ら罵られようと。
正義だから。正義である。故に、敵を、悪を、討ち滅ぼす。
そこに理由や御託はない。そうなのだから、そうなのだ。
そうなのだから、そうせねばならぬのだ。
そうせねばならぬから、そうするのだ。
悪魔の放った閃光が、衝撃波が、一面を薙ぎ払う。
ぱーーーん、と、硝子が砕け散る高い音が響いた。
「……」
シロの耳に届くのは、荒く弾んだ己の呼吸音。死に抗う心臓の音。
倒れない。二つの脚は、まだ千切れない。ごほりと覆面の奥で血を吐こうとも、失血で意識がぼやけようとも、まだ。まだだ。まだだ。
シロさん、と和束が呼ぶ声がする。酷くノイズが走っているのは、何度も魔法を被弾した結果、その衝撃に通信機に異常が出たからだ。
俺は生きている。その声に何度も、何度も、自己確認するように答えた。
「おい、美崎。死んだふりしてんじゃねぇよ」
その中で唐突にシロは倒れていた美崎に声をかける。言葉通り倒れていた美崎が怪訝な顔をする。「悪いがズタボロで加勢は無理だ」と、そう美崎が返事をする前に。
「残った特殊部隊の奴らと一緒に逃げろ」
「……は?」
一体全体。上体を起こした美崎の目に映ったのは、スマイリー・ジョーへ猛然と吶喊をしかけたシロだった。
シロの脚は止まらず。撃ち出された魔法の闇に腹を抉られながらも――悪魔へと、突進し、掴み、そのまま、そのまま、
割れた窓から、雨の降る外の世界へ。
「……おやまぁ」
重力。落下。スマイリー・ジョーは感嘆の声を上げる。その腹にはカッターが突き刺さっている。至近距離に髑髏の顔があった。
「身投げのつもりかい。でも我輩には羽がある」
「知っているさ」
平然とシロは答えた。
「ただ、俺はお前を絶対に殺したいだけだ」
落下する。落下する。雨の中。雨。暗い町。電気が疎らに灯った町。物言わぬ最底辺の町。逆様の景色。
「シロさん」
「あぁ和束。すまんな」
「貴方を一人にはしませんよ」
「物好きだな、本当に」
短い会話の後だった。
シロが手にしたカッターナイフが燦然と輝き始める。それを媒体に、魔力と生命力を注ぎこんで増幅させているのだ。
嗚呼。成程ね。悪魔は、笑った。成程。嗚呼。
「流石だねヒーロー」
拍手を、した。
瞬間。
一段とカッターナイフが光り、凄まじい大爆発が――光の渦が――あらゆるものを、消し飛ばした。
真っ白に、真っ白に。
●
一陣の風が轟と吹き抜け、ようやっと目覚めたばかりのマリエルの髪を大きく揺らした。
「……っ!?」
思わず目を閉じる。彼女の周囲にいたベルンフリート、蓮寺、エミもまた驚いた様子をしていた。
「あれは……!?」
中央ビルに向かわんとしていた彼等の目に映ったのは白い煌めきだった。それは中央ビルの外、雨の中。
「……シロ君?」
ふと、マリエルは我知らずその名を口にしていた。妙な確信があった。自分でも、分からないのだけれども。
斯くしてその確信は現実に変わる。
「スマイリー・ジョーの討伐が完了した」
部下より通信を受けた蓮寺が静かに告げた。全てを。あの光の正体を。
「……」
天使は俯き、雨の足元をただ、見る。
嘘だ。
嘘だ。
彼が死んだ?
そんな――嘘だ。
(どうして)
思った事を言葉にする事はなかった。分かっているからだ。彼が『シロ』だから、やったのだ。
「どうして……」
それでも、口を突いた。
距離が縮まったと、思ったのに。徹底して厳しくも優しい彼。もっと仲良くなれると思っていたのに。
嗚呼。
「ああ」
嗚呼。
「あああぁ」
生きていて欲しかった。
自分が行けば助かったのだろうか。もっと急げば助かったのだろうか。何か方法はなかったのだろうか。
溢れる涙が止まらない。膝を突く。マリエルは手で顔を覆った。寄り添うベルンフリートが慰める様に鼻先を擦り寄せてくる。蓮寺は目を閉ざし、エミも沈黙していた。
天使の泣き声が響く中。それ以外の音はしない町の中。
雨脚は少しずつ弱まってゆき――やがて、音も無く、雨は止まった。




