第二話
中央ビル――血の匂いに噎せ返る雨に佇んでいた長い塔。
進軍距離の代価に人間は血を流し、命を落とし、随分数が減ってしまったけれど。遂に辿り着いたのだ。広いフロア。
そこは異様な光景だった。
先ず上げるならば、外装から考えると有り得ない広さ。スマイリー・ジョーの魔法影響か。空間が歪められているのか。
異常な点はそれだけではない。滅茶苦茶だった。遊園地、中華街、美術館、博物館、工場、ゲームセンター、そういったあらゆるモノが暴力的なまでにゴチャゴチャと合体させられた様相。倒福の赤いボンボリ、メルヘンな音と共にグロテスクなオブジェが回るメリーゴーランド、謎の化石標本、ひしめくパイプからは水蒸気が溢れ、音楽ゲームからは気の狂いそうな騒音が垂れ流されている。
暗く陰湿だと言うのに、ケバケバしく踊り狂う極彩のネオン。真っ赤な彩り。
破綻しきった悪趣味である。視覚と聴覚への暴力。そこにいるだけで不快感に正気を失いそうだ。
「魔法って何でもありですね。一生懸命科学やってる私達人間がアホらしくなってきます」
顔をしかめているのだろう和束が毒突いた。
「それにしても、塔の上の魔物かぁ。なんだかゲームみたいですね。よくあるじゃないですか。魔王の城攻略。ラスボスダンジョン」
「……奴からしたらゲームなんだろうよ、何もかも」
見渡す限り悪魔の存在は感じられない。答えつつシロは用心深く、特殊部隊の生き残り達と歩を進める。
「知ってますかシロさん、こういう所って要所要所に中ボスがいたりするんですよ。それか、今まで倒してきたボスが総復活」
「ぶっ殺す。何が来ようとぶっ殺す。それで解決だ」
「応援してますよ。というか、応援しか出来ませんが」
などと軽口めいた物言いで和束は苦笑した。今、彼女に出来る事はただただ祈るだけ。しおらしく。まるで、塔の上で勇者を待つお姫様みたいじゃないか。そう思うとちょっと気が晴れた。勇者は白馬に跨った王子様どころか顔面崩壊した殺意満タンの髑髏男だけれども。
しかし不気味極まりない所である。ひたすら広い。道らしい道はない。大量の釘が打ちつけられた鳥居の列の中を進んでいる。
「これが悪魔の力って奴かよ……」
その中の一人、美崎もまた顔をしかめていた。中央ビル。いつの間にか出来ていた大きな建物を、この町暮らしである彼が訪れるのは初めてであったのだが。こんな事になっているなんて。
美崎はどこにでもいる様な凡夫である。しがないチンピラである。ただ人と比べて優れている点と言えば覚醒している事ぐらい。というよりそれがなかったらもっと底辺の生活を送っていただろう。
いつものようにこの町で燻っていた、そんな時に、ある日突然届いたメッセージ。「うちで働いてくれたら生活はガッチリ保障するよ、君だけでなく君の家族分もね」――そんな言葉に、目先の利欲に釣られて。美崎は思い返す。自分はとんでもないものの傘下にいたのかもしれない。いや、『かもしれない』ではなく『そう』なのだ。
(ホントに信じらんねぇぜ……)
何もかもが夢のようだ。悪い意味で。美崎は舌打ちを噛み殺す。外の惨劇も、妙チクリンに改造された少女達も、それまでは仕事らしい仕事をしてこなかった特殊部隊が急に反旗を翻した事も。
そうだ、あの天使をとっ捕まえてから。この変な髑髏の覆面男が町に来てから。
Disは変わるのか。変わるのだろうか。
黙し、美崎は周囲を見渡した。誰もの顔に緊張があった。特に特殊部隊の者に顕著である。彼等の隊列に、隊長である蓮寺がいないからだ。
「蓮寺さん、大丈夫ですかね」
丁度同じ頃に、和束が独り言つ。答えるのはシロ。
「知らん。だが、アイツは俺をパンチ一発で黙らせた女だ」
「……その言い方にな~んか嫉妬しちゃうです! あの泥棒猫! 女狐! 女豹! 肉食系女子! むきぃ! ユルセナイワー!!」
「アホかお前は……」
「冗談ですよ、じょーだん――あ、シロさんシロさん」
「今度は何だ」
「足元。見て下さいよ」
ホラすぐそこに、と和束が言う。それに促されるままシロが下方を注視してみれば、赤黒い矢印が一本。よく見てみればその先にも一本。その先身も。等間隔で設置されている。
「……来い、ってか?」
「罠かもしれませんよ」
「上等だ」
一つ。そう吐き捨ててシロ達は敢えて矢印を踏み付け歩く。
斯くしてそれはその果てにあった。
『Welcome、そして死ね!』
赤い赤い――ペンキだろうか。否、血だ。血で禍々しく書き殴られた文字が一同を出迎える。
「エレベーター……のようですね」
和束が訝しむ様な声で言う。成程、確かにエレベーターの様だ。異常に広い空間に見合う大きなエレベーター。キッチリここにいる全員が乗れる位の。
と。響き渡る『チーーーン』という到着音。誰もボタンは押していない。けたたましい音と共にドアが開く。さぁ乗れ。今すぐ乗れ。そう急かしているかのように。
一同は顔を見合わせる。それから、警戒しながらエレベーターの中へと進んだ。頼りない蛍光灯が照らしている箱の中。最後の一人が乗り込むや否や、やはりボタンを操作していないのにドアが乱暴に閉まる。動き出す。
誰も物言わず、あるいは息を飲み。感覚的に上へと向かっているらしい。上へ。かかる負荷。
「おい、髑髏の」
美崎がシロに苦い声をかける。
「……これ本当に大丈夫なのか?」
「駄目だったらその時に考える」
「おま……」
「これだけいるんだ、そうそう全滅はすまい。例え全滅しようがスマイリー・ジョーを討てれば俺達の勝ちだ」
「ちょ、人の命を何だと思ってんだアンタは」
「尊い物だと認識している」
「さっすがシロさん、カッチョイー」
「……」
至極冷静で無表情そのものの髑髏と、全く態度の変わらない電子人間。コイツ等滅茶苦茶だ、と美崎は改めてそう思った。
そんな中、それまでエレベーター内をどんより照らしていた蛍光灯が明滅し始める。唐突に古くなったかのように。どよめき、人間達は天井を仰いだ。明滅は滅寄りに激しくなる。
そして遂に――暗転。
『チーーーン』。
●
はぁ、はぁ、と荒く弾む己の息が耳にわずらわしかった。
雨の降る中、中央ビルが見下ろす最中、
「……ふん」
たった一人の人間は赤い髪を靡かせ、血と汗と雨水が伝う顔を上げた。不敵に笑っていた。
「どうした、その程度で私を殺すつもりなのか? 意気込んでた割には、まだまだ足りないな」
強がりを、蓮寺は言う。視線の先には一人の少女。人間ではない。悪魔に改造された存在。
広い路地に二人だけ。向かい合った二人。搗ち合う視線。
時は少し遡る。
それは人間勢力が中央ビルを目前にした時の出来事であった。
あと少しだと。
そう意気込んだ人間達へ突如として襲い掛かったのは、赤い稲妻の嵐。
「ッ……!」
蓮寺はガントレットで武装した両腕を交差させて強襲を耐え凌いだ。余波の風が吹き荒ぶ中、細めた眼で敵を探す。
そこにいたのは一人の少女。先程から襲い来る魔改造少女達と同様にセーラー服を身に纏い、悪魔の特徴を持ち、幸せそうなニヤニヤ笑いを浮かべている、両腕をガントレット状に改造された少女だ。
「ははははははははははははははははははははは」
彼女は片手を掲げ、楽しそうに振り下ろす。衝撃波が鉄槌の如く、落ちる。叩き潰す。傍にいた他の改造少女や悪魔ごと、人間を。
圧倒的だった。強敵だ。誰もが思う。強い。厄介だ。
されど。蓮寺が彼女に抱く気持ちは、それらとはいずれも異なるものであった。
ある種の安堵。
それから絶望。
それは何故か。理由は単純明快。
その改造少女こそ、蓮寺の血を分けた娘――エミだったのだから。
生きていて良かった。心からそう思った。同時に。どうしてこんな事に。まさか見間違いでは、他人の空似では。そんな甘い期待もことごとくが砕かれる。なんせ、あの子を産んだのは他でもないこの自分なのだ。嫌でも分かってしまう。あれはあの子だ、自分の娘だ、悪魔に人質に取られていた愛しい子だ、と。
(あぁ、クソ、神様……!)
思わず祈った。神なんてこの世にはいない――いたとしても人類の敵である天使を率いる敵の大将なのだと知りながらも、思わず。人のサガか。
蓮寺の娘は覚醒者であった。撃退士や特殊部隊でこそないものの、日頃から彼女が鍛えていた。親だからこその贔屓も認めねばならないが、エミは相当の才能を持っている少女である。いずれは有名な撃退士か、自分の後釜か。そう、蓮寺が誇らしく思う程に。
そうだ。あの少女が嵐の様な強さを見せつけるのは、そうだからだ。自分の娘だ。認めねばならなかった。
そして。悪魔となった人間が元に戻る術は、無い。
ならば。だと言うのなら。
「総員、聴け」
荒れ狂う戦場だというのに、蓮寺の声は凛と澄み通り人間達の耳に届く。
「アレは私が片を付ける」
娘の事は、母である自分がケリをつける。エミの顔を、そして部隊のほとんどの者が彼女が蓮寺の娘である事を知っていた。だからこそ、危険を承知で止める事はせず。頷いた。
「どうか御武運を」
「隊長、先は我らにお任せ下さい」
短い敬礼とやり取り、されど鋼より堅い信頼。
歩き出す。
蓮寺は武装した拳同士を搗ち合わせた。
「さて――」
脚部に込める魔力。燃焼させる力。それは爆発的な速力を生み、弾丸の様なスピードで蓮寺は一気に宙を飛ぶエミへと躍り掛かった。
一瞬、交差する視線。
刹那、両手を構えた悪魔少女が魔法陣を展開し、衝撃波で蓮寺を叩き落とす。
されど――エミが蓮寺に気を取られた、その時間は人間達が一直線に中央ビルへと向かってゆくには十二分であった。行軍してゆく。その中の、髑髏が振り返った。地面に叩きつけられ起き上がった蓮寺は視界の端でそれを見とめる。
が、両者が特に言葉を発したり仕草をする事はなかった。言わずとも。「やるからにはちゃんとやりやがれよ」と。「んな事ァ分かってるわボケ」と。
「あんた、魔法は苦手だったのになぁ。いつの間に覚えたんだ、こんな魔法?」
両の脚で踏ん張って、蓮寺は正面を見澄ました。空中から軽やかに降り立った改造少女がケラケラ笑う。首をユラユラ。尻尾をフラフラ。されど、はち切れんばかりに溢れているのは殺意。
「私に似て美人なんだからさ。あんた。そんな下品な笑い方するんじゃあないよ」
苦笑をして、蓮寺は拳を構えた。エミも同時に身構える。同じ構え。どうやらエミは蓮寺をターゲットにする事にしたようだ。特殊部隊の隊長にとっては好都合だった。
「しばらく会えなかったから、心配してたんだよ。ちゃんと好き嫌いせずご飯食べてたか? 17にもなってニンジン嫌いじゃ笑われるぞ」
口調こそは朗らか。暴風の様な勢いで繰り出された拳を往なし、蓮寺はエミの目をじっと見る。
「っとにお転婆なんだから。誰に似たのかしらね?」
猛攻を防ぎ、弾き、あるいは掠り、喰らいながら。
「甘いな。ちっともさっぱり効かん」
蓮寺は自分からは一切攻撃をせず、ただただ防御し続ける。
「その技、私が教えたやつだな? タイミングが遅いぞ。いい加減覚えろ」
余裕のある物言いだけれども、蓮寺の身体には一つまた一つと傷が作られてゆく。
「ほれ、いつも『いつか絶対に母さんを倒す』って手合わせの度に言ってたじゃないか」
振り抜かれた爪が蓮寺の頬を切り裂いた。赤い線、赤い血、立て続けにエミの蹴りが蓮寺の腹を捉る。
「ッ……踏み込みが甘いな。60点」
だが、蓮寺は倒れない。毅然と。憮然と。そして優しく。
「どんどん来い。気の済むまでやればいい。思いっ切りぶっかませ」
眼差しを、声をかけ続ける。傷付きながら。痛みに耐えながら。
しかし改造少女は尚も笑い、ずっと笑い、攻撃をしてこない人間を全力でいたぶり続ける。
鈍い殴打音が響き、雨の跳ねる水たまりに血の玉が飛び、よろめく脚が水溜りを踏み締める。
げほ。げほ。蓮寺が咳き込む音が湿っているのは血反吐を吐いているから。
「……ふん」
息を弾ませ、血と汗と雨水が伝う顔で、しかし蓮寺はそれでも不敵に笑う。
「どうした、その程度で私を殺すつもりなのか? 意気込んでた割には、まだまだ足りないな」
強がりに過ぎない事は蓮寺自身が一番分かっていた。強い。元から強かったが、悪魔に改造された事で怖ろしい程になっている。
それでも、だ。
「エミ――」
名を呼び、声をかけるのは。
衝撃波に吹っ飛ばされても、倒れる事なく立って向かい合い続けるのは。
「エミ。あんた、本当に強くなったねぇ……」
淡い期待。針穴ほどの希望。
「覚えてる? 学校で一番生意気だって言ってたガキ大将とケンカして勝ったって、あんた顔にでっかい青たんこさえて鼻血で真っ赤にしてさ……」
もしかしたら。ひょっとしたら。0%じゃないかもしれないから。
「いつか特殊部隊の隊長になるって。そう言ってくれた時、嬉しかったなぁ……」
悪魔になった人間を戻す方法が『今の所見付かっていない』だけかもしれないから。
「あんたは頑固で、前のめりで、ちょっと猪突猛進でお転婆な所もあるけどさ。私の最高の娘だよ」
愛しい娘が元に戻ってくれる可能性があるのなら。
「私はあんたの母さんで良かった。生まれてきてくれてありがとう、エミ」
この身体は裂けても良い。いくら血を流そうが構わない。どれほどの痛みがやってこようが知った事ではない。
「……なぁ」
希望。希望を抱くのは罪だろうか。無謀と罵られようとも。
「本当に、母さんの事、忘れちゃったの……?」
声を震わせ、足を引きずり、蓮寺は問うた。
「エミ。エミ。大事な、大事な、私の子供……」
その身体は立っているのが不思議な程に傷だらけの血だるまで。最早防御すらもままならず。
「ごめんね。守ってやれなくて……私がもっと強かったら、こんな事には……」
ふらつきながら、よろめきながら、尚もエミから猛撃を喰らおうが、それでも目は、エミから離さないのだ。
「辛かっただろうね。そんな姿にされて。怖かっただろう。ごめんね、ごめんね……」
ボタリボタリ、血が垂れる。蓮寺の足下が、赤い。その髪の色よりも。
「エミ、大好きだよ。世界で一番、あんたが大切」
蓮寺は項垂れる。だらりと垂れた手。垂れるままの血。視界が、意識が、覚束ない。
「だから」
拳を、握り直す。
全ての力をそこに込めて。
顔を上げる蓮寺の表情は――憤怒だった。
「――さっさと目ェ覚ませやコラァアアアアアアアアアアアッ!!!」
一喝。
この拳にありったけ。力を爆発させて一切の痛みを遮断し、無理矢理に踏み込んで。
叩き付けるは堅い堅い拳。エミの横っ面を強かに捉え、振り抜かれた。
凄まじい衝撃に少女の身体が勢い良くぶっ飛んでゆく。ビルにブチ当たって、壁をぶっ壊して、土煙を盛大に上げながら。
「……!?」
エミはシェイクされる意識の中で目を見開いた。
衝撃。
ショウゲキ。
脳を駆けた後に確かそうだあの時あの時悪魔に捕まった後に暗い暗い暗い何も無い分からない所に閉じ込められてたくさんの女の子がいたみんな楽しそうにしているどうしてわからない私は怖かった意味が分からないだれもかれも変だった嬉しそうにしていた帰りたかった助けて欲しかった泣いた怒鳴った叫んだ喚いた助けて欲しいでも何も無くて誰も居なくて真っ暗で真っ暗でなんにもわからなくなって嫌だ嫌だお家に帰りたい嫌だ嫌だ嫌だ悪魔になんかなりたくない改造なんかいやだどうして他の子は嬉しそうにしているの嫌がる私を変な目で見るの私がおかしいの嫌だおかしくなりたくない私は人間だ私は人間だ私は私は私は私は殺せって頭の中で声がする壊せ壊せ殺せ殺せって頭が痛い全部なくなっちゃえばいいって思う頭が痛いもう嫌だもう嫌だ私は私は私は
私は
私は
私は……
「……」
真っ暗だった。目蓋を閉じているからだと気付いた。
身体が痛い。痛み。痛みを感じるのは久々な気がする。
「……?」
エミはうっすらと目を開けた。ボヤけた感覚。瓦礫の中、仰向けに倒れていた。雨が。暗い空。無言のまま立ち上がる。
ズキリ。痛いのは、頬。手で触れた。熱を持っている。鼻血も垂れている。
『殺せ』
脳の中で声がした。ボンヤリとしたまま、それに逆らっては駄目だと、悪魔少女は歩を進める。うなだれた顔に雨が伝う。
殺せ。殺せ。全部を壊せ。殺す事は、壊す事は、楽しいだろう。自分の力を思う存分惜しみなく使いまくって。だって折角『強く』生まれたんだ。選ばれた存在なんだ。力を持っているんだ。ならばどうして、その力を使わない事を選ぶ必要があるのだろうか?
強いなら強く振る舞えば良い。暴力的に。暴君的に。気に喰わないもの何もかもに鉄拳を喰らわせてやればいい。壊してしまえば良いのだ。その力があるのだから。
『コロセ』
殺せ。殺してしまえば良い。それで全ては解決する。
『……』
頬が痛い。
何で痛い?
殴られたから。
誰に?
誰に……。
ぽとり。ぽとり。垂れるのは血と、雨雫と。
何故だかとても悲しい気持ちになった。
何故だかとても泣きたい気持ちになった。
だって。
私を殴ったのは。
私が殴ってしまったのは。
「……母さん」
我知らず呟いた。よろめく足取りで、血を流しながらも凛然と立つ蓮寺を。
殺さないといけない。いいや、殺したくない。葛藤。それは奇跡と呼ぶべきものなのだろうか。悪魔に弄られた筈の、人間だった時の自我が無い筈の脳なのに。
「母さん」
それでも確かに、呼んだ。震える唇で。涙を一筋、殴られ赤くなった頬に伝わせながら。
「エミ」
嗚呼。蓮寺は思う。Dis――最底辺の名に漏れず、散々な出来事ばかりだったけれど。最後の最後で神様が微笑んでくれたのだろうか。刹那の夢でも構わない。裏切られようがどうだっていい。何だっていい。何だって。
「……おかえり」
微笑んで、手を広げた。いつだって娘の帰りを迎えるのが母と言うものだ。
ボロボロと涙を零す少女は泣き声を上げながらそこに飛び込んだ。しがみ付いた。顔を埋めた。嗚咽を上げて泣きじゃくる。それにただ、蓮寺は笑い。自分と同じ色をした娘の髪を優しく撫でて――その身体から、一切の力が抜けた。
「……!?」
彼女の身体を受け止めて、エミは目を見開く。蓮寺は生きているのもおかしい具合の重傷だった。その全身からは止め処なく血が流れ続け、見えていないだけで骨や臓器の損傷も致命的であろう。
そうだ――これは、自分がやったのだ。
「あ、」
エミは全身から血の気が抜ける様な、心臓が止まる様な、絶望を感じた。
自分がやったのだ。
冷たくなってゆく母の身体を抱きしめる。自分が。自分が。やったのか。やったのだ。
「……嫌だよぉ……」
シンと静かな周囲に響いた。辺りには悪魔の、少女の、人間の死骸。足場のアスファルトは様々な体液で赤黒く。
それが否応も無く、終焉を連想させて。人間だった悪魔は震えが止まらなかった。
「嫌だよ、嫌だよ、死なないで、もう一人にしないでよぉおお……!!」
泣いた。泣いている。蓮寺は閉じ逝く意識でその声を聴いた。ああ、泣くな。泣くな。良い子だから。良い子だから――……
――雨の中、少女の虚しい慟哭が響く。
それはいつまでも止まぬように思われた。
だが。
その間隙から確かに聞こえたのは、羽ばたきの音。
「……?」
降りしきる雨に目を細めながらエミは空を仰いだ。雲ばかりの暗い夜空。そこに、炎を纏う赤い竜。あれは何だと、そう疑問を抱く間も許さずに出来事は起こる。赤い竜から飛び降りた一つの影。それが、白い翼を翻し真っ直ぐこっちへやって来るのだ。
「無事か!?」
それは天使だった。少女の身形をした異質。落ちる雨より速いスピードでエミと蓮寺の傍に降り立つ天使の名は、マリエル。天使。悪魔として改造された脳が『ただちに殺せ』とエミの頭蓋骨で叫んだが、それを噛み殺し悪魔少女は涙を流す。
「助けて……助けて、母さんが死んじゃうよ……!!」
「元よりそのつもりだ。大丈夫、我は神聖魔法が得意なのだ」
酷い『傷のにおい』だと、マリエルは思う。死へ誘おうとしているにおいだ。続いて降り立ったベルンフリート――悪魔少女を前に警戒し鱗を逆立てている――に「大丈夫だ」と一言、天使は性急に掌をかざす。
相手が悪魔で、先程は大きく仲間へ大きな被害をもたらした存在だと言うのにマリエルの対応にはまるで警戒心の欠片が無かった。
彼女は戦いに来たのではない。癒し、治し、救う為に来たのだ。
例え悪魔であろうと、『助けて』と言われたのならば。目の前に命が消えんとしている者がいるならば。
「救ってみせる……我はその為に、ここにいるのだ!!」
『……引き返したい、だと?』
マリエルは数刻前のシロとのやりとりを思い返す。
それは丁度、蓮寺を残し正に中央ビル内へ侵入しようとしていた時であった。
「嫌な……嫌な心地がするのだ」
天使は自らの腕を抱き、顔をしかめる。嫌な心地――そう、あの時。土谷が悪魔に惨殺された時と同じ心地。死の予感。死のにおい。背骨を逆に舐め上げる不吉な感覚。
「蓮寺君は、きっと死ぬ気だ」
「あぁ、そうだろうな」
シロの返事はあっさりとしたものであった。腹が減ったら飯を食う。そのような感じで、至極当然だとでも言わんばかり。
「奴は娘が人質に取られていると言っていた。きっと、先程の改造少女がそうなのだろう。あの少女は俺の持っている『失踪者』のリストにいなかった」
「……見捨てるのか?」
「戯言をほざくな天使。……人間ってのはそういうモンなんだ」
「救えないのか?」
「少なくとも、俺には出来ん」
その言葉に、マリエルは視線を落とす。シロは『絶対に無理だ』と言わなかった。深呼吸一つ。顔を上げて真っ直ぐ、髑髏の男へ。
「もう一度言う。……蓮寺君の元へ向かっても良いか?」
その決断は危険かもしれない。だが、決然と。海色のした天使の目と、仄暗い灰色の人間の目が搗ち合う。男は少しの間を開け、言った。
「お前は、お前の進みたい道を進めばいい。決めたならとっとと行きやがれ」
言下にシロは視線を中央ビルへと向けた。その背中へ、「ありがとう」と。マリエルは抱きついて。何かを言われる前にすぐに離れて、白い翼を夜に広げた。
「いいんですか、シロさん?」
「何度も言ってるだろうが。小守は趣味じゃない。天使が目の前からいなくなって寧ろ清々する」
「またそんなこと言って」
「……あいつは俺には出来ない事が出来る」
そんなシロと和束のやり取りを、マリエルはベルンフリートの背の上で聞いた。
――必ず、成さねばならない。
横たえられた蓮寺へと、マリエルは全神経全魔力を極限にまで集中させる。
奇跡を、見よ。
徹底した現実の横っ腹に突き刺してやる。爪を立ててやる。抗ってやる。
「はぁあああああああああああッ!!」
ありったけの力を魔法に注ぎ込めば、一際眩く輝く光が周囲に満ち満ちた。白く白く塗り潰す。
傍で見守っていたエミは思わず目を塞いだ。目蓋を閉じても尚、目に強く光を残す輝き。それから、その残滓が残る目を緩やかに開けてみる。そこには先と変わらず、横に伏した母の姿。
「……母さん?」
エミはおそるおそる呼びかける。己の唇が震えるのを感じる。蓮寺の顔を覗き込む。
「母さ――」
もう一度。呼びかけようとした、その刹那。不意に伸ばされたのは腕。掴まれ、引き寄せられ、抱きしめられる。
「もう泣くな、目が腫れるぞ」
それは、紛れも無く蓮寺の声で。エミを抱きしめる腕も彼女のもので、少女を包む体温もまた、生きた者のそれであった。
「母さん、母さん母さん母さん、……うぅ、うわぁああああああああああん……!」
「はいはい。いいこいいこ」
泣きじゃくる娘の背中をぽんぽんと優しく叩き、蓮寺は静かに、静かに微笑んだ。
「ごめんなさい、痛かったよね?」嗚咽を漏らす少女が問う。それに「気にするな」と言い、蓮寺は続ける。
「元から覚悟の上さ。あんたを取り戻す為ならどうなっても構わなかった。それに」
ニッと母は口角を吊り上げる。
「あんな程度の傷、あんたを生んだ時の痛みに比べりゃ屁でもないね」
良かった。良かった。本当に良かった。抱きしめる手の中の温もりが身体に心にしみ入ってゆく。
蓮寺は傍にて魔力を使い果たし気絶しているマリエルへ目を向け、それからベルンフリートを見やった。
「……ありがとう。この天使さんが起きた時に、そう伝えておいてくれないか」




