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補給官は楽をしたい  作者: 螺旋


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第5話

倉庫の中は冬の冷気に満ちていた。西側通路には、濡れた革と穀の粉が混じった湿気が溜まっている。


兵糧庫の西側通路へ入った瞬間、鼻の奥に燻ったような臭いが刺さる。火薬灯の明かりは梁の下でぼやけ、袋の積み山の影を長く引いていた。


西側通路脇の三区画だけ、人の動きが固まっている。


穀袋の口が二つ裂け、床に落ちた粒の上に白く薄い殻が散っていた。革袋の脇には、削れたような灰色の残滓が帯のように続いている。近くの返納袋の山まで湿りを吸って膨らみ、通路が半ば塞がれていた。


氷殻蟲。穀と湿った革の匂いに寄る冬の虫害で、見えている分だけ潰しても意味がない。袋を開けば散り、積み替えれば別の列に潜る。


「……最悪だな」


レオンは小さく言った。


最悪なのは虫害そのものではない。監査の最中だということだ。セレスがいる。ダリオもいる。補給局の連中も、倉庫番も、誰がどこで何をしたかを後から辿れる顔ぶれが揃っている。


ここで手間取れば、兵糧庫の動線が悪いと以前口にした自分の発言まで掘り返される。しかも夜警と巡回の携行食が止まれば、その説明まで飛んでくる。


やるしかない。やるしかないが、できるだけ自分の責任線は細くしたい。


「その袋、開けるな」


一人の倉庫番が裂け目を覗こうとしていたのを、レオンはすぐ止めた。


「でも、中の――」

「見なくていい。散る。裂けた袋はそのまま札を掛けろ。口を縛るな、押すな、積み替えるな」


倉庫番の手が止まる。


レオンは足元の白い殻を見て、通路の幅と袋の積み方を一目で追った。西側通路脇。返納袋の仮置き位置が食い込んでいる。そのせいで奥の穀袋を出すたび、人が横に擦って通る。湿気のこもる革袋が隣。しかも入庫が重なって古い袋と新しい袋の列が崩れている。


起点は一つでも、広がり方が悪い。


「ミーナ」


呼ぶと、すぐ横から返事が飛んだ。


「います」

「仕分け札、あるだけ持ってきて。赤と白。あと炭筆」

「何枚」

「足りないより多い方がまし」

「はいはい、そういう言い方のとき、だいたい面倒な枚数なんですよね」

「急げ」


ミーナはもう走っていた。


ダリオが裂けた穀袋の前に屈み、床の殻を指先で払った。短く言う。


「どこまで生きてる」

「まだ分からないです。だから広げない」

「止めるか」

「止める場所を絞ります」


レオンは近くの棚柱に掛かっていた倉庫配置図を引き寄せた。板に貼られた古い紙は端が反っている。西側通路、三区画、返納袋置き場、革袋の棚、北側の空き区画。頭の中で動線を引く。


全部封鎖すると供給が死ぬ。

封鎖しないと倉庫全体が死ぬ。


なら、殺すのは西だけだ。


「西三区画を閉じます。通路も止める。北側に逃がせる無被害袋だけ出す」

「判定は」

「目視と触りで十分です。今は精査じゃなくて分離が先です」


セレスが一歩前に出た。火薬灯の光が、監査官補佐の冷えた横顔を照らす。


「十分、の基準は」

「破袋、残滓、湿り、周辺接触。四つです。どれか一つでも掛かったら被害側」

「かなり広く取るのですね」

「後で狭めればいいです。今狭く取ると後で全部止まる」


セレスは返事をしない。だが目はレオンの手元ではなく、西側通路の先、革袋の棚、その奥の入庫票の箱に流れていた。


監査の目だな、とレオンは思った。面倒だが、今はそれでいい。変な英雄視よりはましだ。


もっとも、横を見るとミーナが仕分け札を抱えて戻ってきた顔で、すでに半分くらい感心している。まったくよくない。


「赤が被害、白が未確認。確定した無被害だけ札なしで北へ。分かったな」

「分かりました。札を貼る位置は」

「袋口の縄。見える位置。重ねても隠れないように」

「はい」


レオンは札を奪うように受け取り、最初の裂けた穀袋に赤札を掛けた。その動きで周囲の躊躇がほどける。


誰かが最初に線を引けば、人は動く。


そういう意味では、嫌な役目だが、今は自分でやるしかない。


「倉庫番、名前」

「オルグです」

「オルグ、入庫票はどこまで残ってる」

「今月分は箱の中です。返納記録は机に」

「西三区画の入庫票と返納記録を今すぐ分けろ。新しい順に上へ。濡れてる紙は先に避けて」

「え、今ですか」

「今です。後で踏まれる」


オルグは一瞬だけ迷ったが、ダリオが横から低く言った。


「動け」


それで十分だった。倉庫番は跳ねるように走る。


軍の声は便利だ。自分が言うより、責任の方向が散る。


レオンは心の中でその事実だけ丁寧に拾い、配置図の端に炭筆を走らせた。西三区画を斜線で潰し、北側区画へ矢印を引く。さらに、通路脇の返納袋置き場を東へ移す線を書く。


「燻蒸剤はどこだ」

「こっちです!」


補助員が木箱を二つ抱えてきた。封印紐の蝋が半分割れている。倉庫用の粗い燻蒸剤だ。強いが、入れ方を間違えると無駄に広がる。


レオンは箱の中身を見て、舌打ちしたくなるのをこらえた。


量はある。だが、撒けばいいと思っている顔が周りに多い。


「撒かない。置く」

「え?」

「通路口二か所、革袋棚の下、一番奥の柱際。被害袋の上には置かない」

「上に置いた方が効くんじゃ」

「袋を動かすなと言っただろ」


燻蒸剤は蒸気で効く。散らした虫を追うより、動線を塞いで籠らせた方が早い。被害袋をいじるのは最後だ。


レオンは自分の言葉がきつくなっているのを自覚したが、取り繕っている余裕はない。


「火薬灯をもう二つ。西の入口と北側区画。影があると見落とす」

「持ってきます!」


補助員たちが動き始める。


床板が軋み、袋の麻が擦れる音が連続する。倉庫の空気が、さっきまでの「何が起きた」に留まる沈黙から、「何をすればいい」に変わっていく。


その変化を感じた瞬間、レオンは少しだけ息を吐いた。


ここまで来れば、たぶん崩れない。


いや、崩れても全部は自分のせいになりにくい形にはなる。


大事なのはそこだ。


「優先供給先、決めるぞ」


レオンは近くの机を引き寄せ、白紙に三本線を引いた。巡回、夜警、補修班。


ミーナが横から覗き込む。


「そこ、悩むんですか」

「悩むに決まってるだろ。全部守れたら苦労しない」

「でもレオンさん、もう決めてる顔ですよね」

「顔を読むな」


巡回は外へ出る。夜警は今夜いる。補修班は結界杭と防壁の維持を抱えている。


外から見れば全部重要だ。だが今この時点で切れたときに、一番まずいのは夜警だ。今夜穴が開く。次が巡回。補修班は半日ずらせる班がある。


だから、腹の中では答えは出ている。


問題は、それをどう書くかだ。誰を後回しにしたかは、後でそのまま責任線になる。


レオンは紙の端に時刻を書いた。夕刻前。まだ配り直しが間に合う。


「夜警を先。次に巡回。補修班は今夜分だけ棚卸しして、明朝受け取りに寄せる」

「補修班が文句を言います」

「言わせろ。結界杭の交換予定が今夜ない班だけ後ろだ。全部じゃない」

「巡回は」

「出立が夜半以降なら間に合う。北側区画から無被害の携行食袋だけ先に回す」


ダリオがうなずく。


「夜警先でいい」

「軍が言ってくれるなら助かります」

「助かると思って言った」


ありがたい。非常にありがたい。


レオンはその一言に救われながら、優先供給先の手書き振り分け表をまとめた。夜警班番号、巡回班番号、補修班のうち今夜必須でないものを後ろに回す。受領印は後回しでいい。今必要なのは、誰にどの袋が動いたかだけ残すことだ。


「緊急搬出記録、簡略で切る」


そう言って、別紙を三枚裂くように分ける。日付、時刻、搬出元区画、搬出先区画、袋数、搬出者、受取先。項目はそれだけにした。


セレスが紙を見た。


「通常書式を使わないのですね」

「通常書式だと品目細分と検印欄で止まります。今は倉庫内移送です。後で統合できます」

「その後で、抜けませんか」

「抜けます。だから搬出者と受取先だけは書かせます」

「……なるほど」


なるほど、で済ませる顔ではない。検証する気の顔だ。


レオンはそれに気づきつつ、今はありがたく思った。監査官補佐がその場で否定しないだけで流れは守れる。後で面倒が増えるとしても、今この場の停滞よりは安い。


「オルグ、記録係を一人つけろ。字がまともなやつ」

「サナなら書けます!」

「じゃあサナ。搬出記録はこっち、振り分け表はこっち。書けないところは空けていい、空けたまま渡すな」

「は、はい!」


若い倉庫補助の女が、指先を強張らせたまま紙を受け取った。


レオンは北側区画へ歩き、未被害の携行食袋を一つ持ち上げる。麻の張り、口縄の乾き、底の粉漏れなし。問題ない。隣の袋も。三つ目は側面に湿り。これは白札。四つ目は無傷。


「北へ回せるのはこの列から先だ。西側に触れた袋は白札。札なしだけ動かせ」

「はい!」

「袋を抱えるな。肩に乗せるな。下を擦るな」

「はい!」


声がいくつも重なる。


倉庫の中に、火薬灯が追加される。明かりが増えると、見えていなかった湿りや粉の筋が露わになる。西側通路の床は、思っていたより粒が散っている。誰かが既に何度か出入りした跡だ。


そこへ、フィアナが静かに立っていた。


神殿付き記録官見習いの薄い灰青の衣は、倉庫の埃の色と妙に馴染む。彼女は騒がず、ただ誰も最初に触りたがらなかった被害袋と、レオンが通路を開けさせたあとの人の流れを見ていた。


「何ですか」

「いえ」


フィアナはいつものように、言葉を少し置いてから続けた。


「あなたは、守る順を先に決めるのですね」

「全部守れないなら、先に切るしかないでしょう」

「嫌われますよ」

「知ってます」


本心から答えると、フィアナの目が少しだけ柔らいだ。


「それでも切るのですね」

「切らないと、後で全部止まるので」

「ご自分を守るためにも」

「もちろんです」


そこで笑うべきか迷ったが、笑うと変に見える気がしてやめた。


フィアナは小さくうなずく。


「そういう人の方が、記録はしやすいです」

「褒めてないですよね」

「ええ」


その短いやり取りの横で、ミーナがなぜか嬉しそうな顔をしていた。やめてほしい。


「レオンさん、北側の搬出、十五袋までいけます」

「夜警に七、巡回に五、補修に三」

「補修少なくないですか」

「明朝回しの分を別に書く」

「なるほど、切ってるようで切ってないやつですね」

「そう見せるやつだ」

「うわあ」


感心するな。これはただの火消しだ。誰にも恨まれず、後で説明可能な線を選んでいるだけだ。


だがそのとき、ダリオがレオンの肩越しに振り分け表を見て、低く言った。


「前線止めない形だな」

「止まると面倒なので」

「そういう言い方でここまで揃えるやつは少ない」


やめてくれ。そういうのが一番広がる。


レオンは答えず、北側区画の空き棚に向かった。元は封蝋箱の仮置きに使っていた場所だ。今は空いている。携行食袋を並べるにはちょうどいい。ただし、その手前に長弓矢の空箱が積まれている。


「それ、東へ寄せろ。通路をまっすぐにする」

「今ですか?」

「今だからだ」


通路が曲がると搬出で詰まる。詰まると袋が触れ合う。触れ合うと白札が増える。


レオンは箱を二つ自分でも押した。軽い。木が乾ききって軋む。背後で誰かが息を呑んだ気配がしたが、無視する。下級書記官が自分で箱を動かしたくらいで驚くなら勝手に驚いていろ。


その一方で、頭の片隅は別のことを計算していた。


もしこの被害が広がっていた場合、誰が最初に西側通路へ入ったか。

返納袋はなぜここまで積み上がっていたか。

革袋の湿りは昨日からか、今朝からか。

入庫票の重なりはどうなっているか。


氷殻蟲は出る。出るが、出やすい場所と出にくい場所はある。西側通路脇は、確かに悪い場所だ。悪い場所だが、悪すぎるほど条件が揃っている。


しかも、よりによって監査の最中だ。


レオンはそこまで考えたところで、考えるのをやめた。今それに踏み込むと、本当に余計な面倒が増える。


まずは目の前だ。


「燻蒸剤、置けました!」

「封鎖縄を張れ。西通路、誰も入れるな。札のない袋だけ北へ」

「はい!」


火薬灯の火が揺れた。燻蒸剤の刺激臭が少しずつ広がる。西側通路の入口に縄が渡され、赤札の揺れが見える。


被害区画と無被害区画が、ようやく見た目にも分かれた。


そこから先は速かった。


北側区画へ袋が移る。サナが緊急搬出記録に炭筆を走らせる。ミーナが振り分け表を読み上げ、夜警班の受け取り順を変える。ダリオは倉庫外にいる兵へ一声かけ、夜警への先渡しを通す。セレスは邪魔をせず、だが一つ一つの指示の根拠を拾うように視線を動かしている。フィアナは静かに、札の掛かった位置と、人の流れが変わった場所を見ていた。


全員がそれぞれ有能だ。だから回る。


そして、全員が別のものを見ている。だから面倒だ。


一刻ほどで、西側通路は完全に閉じた。北側区画には夜警と巡回分の携行食袋が整列し、補修班向けは別棚へ寄せられた。緊急搬出記録は三枚目まで埋まり、振り分け表には受け取り予定の印が並び始めている。


レオンは机に手をついて、ようやく息を吐いた。


喉が乾いている。背中がじっとりしていた。倉庫が寒いせいで、それが余計に気持ち悪い。


「いったん、止まったな」


ダリオの言葉に、レオンは首だけでうなずいた。


「夜警は回る」

「巡回も」

「補修は」

「文句は来ます」

「来るな」

「来ますよ」


そこで初めて、ダリオが少しだけ笑った。


ミーナが帳票を抱えたまま口を挟む。


「でもすごいですね。普通こういうときって、全部止めるか、全部そのまま行くかじゃないですか」

「普通の話はしてない」

「いやあ、してることは普通っぽいのに、切り方が普通じゃないというか」

「褒め方が雑だな」

「結果がきれいならだいたい褒めです」


やめろ。そんな言い方はよくない。周囲の耳がある。


実際、倉庫番の何人かが、さっきより明らかにレオンを見る目を変えていた。さっきまでは「何を言うんだこの若い文官」だったのが、今は「この人が線を引いた」に寄っている。


嫌な変化だ。


セレスが机の上の搬出記録を一枚持ち上げた。


「簡略化したわりに、後から追える形にはしてありますね」

「追えないと僕が困るので」

「自分のために」

「当然です」


セレスは紙を戻した。


「それで現場が助かるなら、十分です」


それは思っていたより重い言葉だった。


監査官補佐がそう言うなら、後から「勝手な簡略化」と切られる可能性が少し下がる。ありがたい。非常にありがたい。


だが、その直後にセレスは目線を西側通路へ向けた。


「ただ」

「何です」

「被害の出方が妙です」


レオンは黙った。


セレスは続ける。


「革袋脇の湿りは理解できます。返納袋が積まれていたのも、倉庫運用が悪いので説明はつく。ですが、穀袋の破れ方が揃いすぎている」

「虫なら噛むでしょう」

「ええ。ですが、二袋とも同じ高さです」


レオンは西側の赤札を見た。


さっきから気になっていたことを、他人の口で言われるのは嫌なものだ。だが、気づいているのが自分だけでないのは、少し助かる。


ダリオが裂け目を見に行き、戻ってくる。


「横一文字だな」

「そう見えます」

「氷殻蟲だけでこうなるか」

「起こりえます」とセレス。「ですが、都合がいい」

「何に対して」

「監査に対して、です」


倉庫の空気が、一段冷えた気がした。


ミーナが息を呑む。サナの炭筆が止まる。オルグが顔を上げる。


レオンはそこで、反射的に余計なことを言いそうになったのを堪えた。たとえば「だから僕は最初から変だと思っていた」とか。そんなことを言えば、本当に深く巻き込まれる。


代わりに、机の上の入庫票の束へ手を伸ばした。


「西三区画の入庫票、見せてください」

「今か」

「今です。後で誰かが触ると分からなくなる」

「……そうだな」


オルグが慌てて紙束を差し出す。端に湿りのついた票が三枚。日付、品目、搬入先区画、搬入者印。さらに返納記録の紙片が混じっている。


レオンは一枚ずつめくった。


三日前の穀袋入庫。二区画。

二日前の革袋返納。一時置き、西通路脇。

今朝の携行食袋搬入。北側予定、だが仮置きで西に一時滞留。


そこで指が止まる。


仮置き。


しかも、北側へ入るはずだった携行食袋が、西側通路脇に一度落ちている。票の欄外に、急ぎで書き足した炭筆の線がある。字は雑だが、慣れた手だ。


「これ、誰が書いた」

「え……」


オルグが覗き込み、顔色を変えた。


「私じゃないです」

「搬入者印は」

「昨日の遅番の……いや、でもこの書き足しは……」


ダリオが票を受け取る。フィアナも少しだけ近づいた。セレスは何も言わない。


倉庫の外で、夜警班の受け取りの声がした。北側区画から携行食袋が搬出されていく。ひとまず供給は回っている。レオンの目的は達した。達したはずだ。


なのに、ここで紙を閉じて帰れそうな空気ではなくなっている。


最悪だ、ともう一度思った。


本当に最悪なのは、火消しがうまくいったせいで、次の火種まで自分の前に並び始めたことだ。


セレスが静かに言う。


「ただの虫害にしては、出来すぎていますね」


レオンは入庫票の欄外の炭筆線を見たまま、返事をしなかった。


その線は、急いで書いたにしては妙に迷いがなく、西側通路脇という最悪の仮置き先だけが、きれいに指定されていた。

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