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補給官は楽をしたい  作者: 螺旋


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第4話

 監査という言葉には、不思議な力がある。


 それが机の向こうから来る話でも、帳簿の上に乗ってくる話でも、人は一様に少しだけ姿勢を正す。ラドゥーン補給局も例外ではなかった。朝から聞こえていた紙のめくれる音と木箱の軋みはそのままなのに、空気だけが一段薄く張っている。


 原因は明白だった。


 セレス・グランディアが来ている。


 監査官補佐という肩書きそのものより、彼女が持ち込む整合性の方が人を緊張させる。書類を丁寧に積んでいる人間ほど、ああいう相手は苦手だ。丁寧に積んだ書類の、どの隙間に人間の言い訳が挟まっているか見抜かれるからである。


 レオン・アークリットは、朝から机の上をいつもよりきっちり整えながら、今日の面倒そのものはどうにもならないと諦めていた。


 監査は嫌いだ。


 正確には、監査そのものより、監査の前に「いや、これは偶然で」「大したことではなくて」と言い訳したくなる自分が嫌だった。しかも、その言い訳は途中で理屈に変わる。質問に答えているうちに、なぜそうしたか、どこに効いたか、どこから先は効かないかまで説明してしまうのだ。あれはよろしくない。実務屋としては正しい。だが身の安全としては明らかに間違っている。


「顔が暗いですね」

 隣でミーナが言った。

「明るい理由があるなら教えてほしい」

「監査ですよ」

「それのどこが」

「ちゃんと効いてたって、数字で出るかもしれないじゃないですか」

「その数字がいらないんだよ」

「珍しい人ですねえ」

「普通の感覚だと思うが」


 ミーナは笑って、抱えていた帳票の束を机に置いた。今日は袖口に紙粉だけでなく、薄くインクの汚れまでついている。朝から補給台帳を三冊も引っ張り出したせいだろう。


「これ、副官殿からです。巡回記録の原本。あと神殿側の出庫票写しも」

「早いな」

「セレスさんが来るって分かった瞬間、みんな急に仕事が速くなりました」

「それはよくない兆候だな」

「分かります」

「分かるのか」

「普段からその速さでやれって話ですよね」

「本当にそうだな」


 そう言いながら、レオンは資料を受け取った。


 机の上に並んだ紙だけで十分だった。第五から第七結界杭巡回の記録。損耗報告。聖油の出庫票。用途別に切り直した区分台帳。セレス相手に「うまくいきました」で済むはずがない。時刻、消費量、返納、遅延、そういう欄の埋まり方まで見られる。


 最悪だった。


「レオン・アークリット」

 低く平たい声が飛んできた。呼ばれた先を見ると、補給局の奥の作業机にセレスが立っていた。飾り気のない服に、無駄のない姿勢。机の上にはすでに、巡回記録、補給台帳、損耗報告、聖油出庫票が整然と並んでいる。人の机をここまで整然と使う人間は珍しい。

「時間を取れますか」

「逃げたら追いますか」

「必要なら」

「では取れます」


 ミーナが横で吹き出しそうになったが、セレスは笑わなかった。

「よろしい。副官殿と神殿記録官見習いも同席します」

「それは、よろしいんでしょうか」

「あなた一人で済ませるには、関係者が多すぎます」


 嫌な言い方だったが、間違ってはいない。


 奥の机には、ダリオとフィアナもすでにいた。ダリオは相変わらず、壁際に立つだけで場の空気ごと現場へ寄せる人間だった。外套を脱いでいてもそう見える。フィアナは白布をきっちり整えたまま、机上の帳票を静かに見ていた。その視線は、紙の上の欄外まで落とさない。


「始めましょう」

 セレスが言った。

「まずは巡回の件から。荷付け変更前の二回と、変更後の一回を比べます」

「逃げ道のない言い方ですね」

「監査ですから」


 逃げ道のなさに装飾がない。


 セレスは三枚の記録を並べた。第五から第七結界杭巡回。変更前二回と変更後一回。出発時刻、帰還時刻、白靄遭遇記録、霜狼接触回数、補修完了時刻、損耗内訳。


「変更前。前々回の出発遅延は四十三分。前回は三十七分」

 セレスの指先が時刻欄をなぞる。

「変更後は十二分。前回よりかなり短いですね。確認印の整理が大きいと見てよいですか」

「主にそこです」

 レオンは答えた。

「封蝋箱を現地へ持ち込まず、倉庫側の事前確認印へ切り替えたので、書記官同行確認が不要になりました。現地確認を減らした分だけ、出発が早くなっています」

「主に、ということは他にもありますね」

「荷馬車一台を軽量橇二台に分けたので、積み直しも早かった。荷馬が怯えて止まる前提も消えています」

「前提」

「辺境では、荷馬は怯えます」

「そうですね」とダリオが短く言った。


 それだけで現場側の裏づけになってしまうのだから困る。


 セレスは次の記録に目を落とした。

「白靄遭遇は変更前も変更後も一回。ただし変更後は視界不良の継続時間が短い」

「火薬灯を増やしたからです」

「増やせばよい、と?」

「増やせばよい場面では、です」

 レオンはすぐ言い直した。

「開けた場所で風が強いなら替芯だけ増やしても意味が薄いですし、昼巡回なら過剰です。今回は夜間で、白裂回廊外縁で、白靄の遭遇記録もあった。だから増やした」


 言いながら、自分で嫌になった。こういう答え方が一番よくない。条件を添えて正しさを切り出すと、聞いている側は安心して次も使えると思う。


 セレスの細い指が次の欄へ動く。

「長弓矢を減らし、短弩矢を増やした。結果として帰路の霜狼接触時、前回より応答が早かった。ここは?」

「回廊外縁の狭路で、夜間で、相手が霜狼なら短弩の方が早いです。長弓が悪いわけではなく、条件が違う」

「つまり使い分け」

「ええ」

「聖油の集中配分も同じですか」

「同じです。均等に配ると見た目はきれいです。でも、前衛と補修班が使う量が偏るなら、そこへ寄せた方が早い」

「補修完了時刻は前回より二十一分早いですね」

「そこは聖油だけではありません。火薬灯で視界が保てたことも効いてます」


 ダリオが腕を組んだまま言った。

「現場だと、そこを一緒に言える文官は少ない」

「褒めていただいても何も出ませんよ」

「褒めてはいない」

「それもそれで困りますね」


 ミーナが遠巻きに聞き耳を立てているのが見える。あれは後で余計な意味を一つ足す顔だ。やめてほしい。


 フィアナが静かに口を開いた。

「前回の神殿票では、聖油は巡回用一括でした。実際には前衛班と補修班へ寄っています。神殿側から見れば、用途区分を崩したとも取れます」

「はい」

 レオンはうなずいた。

「なので本来は、最初から班別に寄せて切るべきです。今はそうしています」

「自分の前回の処理も、そのままでよいとは言わないのですね」

「よくないところはあります」

「それでも、あの時点ではそう切った」

「現場で死ぬよりはましです」


 言い切ってから、レオンは少しだけ後悔した。

 だがフィアナは目を細めただけだった。

「順番の話ですね」

「そうです」

「規則の話ではなく」

「規則も大事です。ただ、あの巡回では先に戻る方が大事だった」

「なるほど」


 彼女は納得したのではない。理解した上で、そのまま記録に落とす目をしていた。甘い理解者の目ではない。だから厄介で、その分だけ少し楽だった。


「次」

 セレスが言った。

「聖油配分の件です。こちらは運用変更から日が浅い。ですから、結果より先に台帳の組み方を見ます」

「組み方」

「その台帳が、現場で本当に回る形になっているかどうかです」


 嫌な言い方だ。最初から逃がす気がない。


 セレスは区分台帳を広げた。巡回、補修、夜警。予定量、緊急追加枠、事後融通欄、返納欄。まだ試運転の台帳だが、紙の上で見ると余計に恥ずかしい。


「あなたは、神殿側の用途別管理と軍側の一括受領を、どちらも潰していません」

「潰すと余計に揉めるので」

「揉めないためだけですか」

「それ以上の高尚な理由を期待されると困ります」

「困るでしょうね」

 セレスはあっさり言った。

「ですが結果として、神殿側は用途枠を保持できる。軍側は現場融通を完全には失わない。補給局は事後記録欄を得る。帳簿上の責任所在も前より明確です」

「そうなれば助かります」

「助かるように作ったのでは」

「面倒が減るようには作りました」

「同じです」

「私には違います」

「あなたには、ですね」


 セレスの言い方は平坦だ。だが、その平坦さのせいで一つ一つが逃げ場を失う。


 レオンは机の上の台帳を指先で軽く押さえた。

「聖油の件は、量だけの不足じゃなかった。用途別に切ること自体は間違っていない。でも、切り方が現場の必要量と合っていない。承認順も遅い。一括受領後の移動も帳簿に残っていない」

「だから事後融通欄を作った」

「はい」

「緊急枠を初めから置いた」

「はい」

「班長札で仮移管を切る前提にした」

「はい」

「つまり、現場で融通が起きる前提で作っているわけですね」

「起きますから」

「起きると知っていた」

「辺境ですから」

「では、それはその場の思いつきではありませんね」

「そこまでの話になります?」

「なります」


 静かに言い切られて、レオンは本気で嫌になった。せめてもっと雑に作っておくべきだった。だが雑に作れば、そのあと自分が困る。そこが最悪なのだ。


 ダリオが書類の端を指で叩いた。

「監査としては、どこまで見てる」

「再現条件です」

 セレスは即答した。

「何を削れば早くなるのか。何を足せば安全になるのか。どこまでが今回だけで、どこから先は別条件か。その境目を話せるなら、運よく当たっただけとは言えません」

「そういう言い方をされると、今後の仕事が増えるんですが」

「それは監査の管轄外です」


 フィアナがそこで、小さく息を吐いた。

「補給局では、いつもこうなのですか」

「何がです」

「あなたは必要なことしか言っていないのに、周囲はそこにもっと大きな意味を見ますね」


 机の向こうで、ミーナが「最近は――」と口を開きかけた。

 セレスがそちらを見たので、ミーナは背筋を伸ばした。

「補足しなくて結構です」

「はい」

 少しもはいではない返事だった。


 レオンは話を戻した。

「今回の聖油台帳も、万能ではありません」

「どういう条件で崩れますか」

 セレスがすぐ聞く。

「夜警と補修が同時に緊急化した時。あと、白靄対応と浄化対応が同じ便に乗る時。用途枠の切り方が細かすぎると、今度は現場で動けなくなる」

「そこはどうする」

「切りすぎない。巡回と夜警を一緒にしない代わりに、巡回内の前衛班と後衛班まで分けない。粒度はそこで止める」

「なぜそこです」

「そこから先は現場の動きの方が速いからです。帳簿が追いつかない」

「つまり、追える単位で切る」

「そうです」


 自分で説明していて、やめたくなった。


 これではまるで、考えて仕事をしている人間ではないか。実際そうなのだが、周囲に知られる必要はない。


 セレスはしばらく黙って紙を眺めていた。否定する時の止まり方ではない。頭の中で並べ替えている沈黙だった。整理されると困る。


 ようやく彼女は顔を上げた。

「少なくとも、改善前後で結果が変わっている理由は説明できています」

「偶然でも、説明がつくことはありますよ」

「あります」

「なら」

「あなたは、どこまでが偶然で、どこからが条件設定かを区別して話している」

 そこで切られた。

「監査では、そこが重要です」

「重要じゃなくてもいいんですが」

「それはあなたの都合です」


 まったくその通りで、反論の余地がない。


 ダリオが低く言った。

「現場から見れば助かってる。それで十分だ」

「監査から見ると十分ではありません」

 セレスは視線を動かさず答えた。

「助かった結果が偶然なのか、再現可能なのかで、次の運用が変わる」

「じゃあ、今の段階での結論は」

 レオンは聞いた。少しでも早く終わらせたかった。


 セレスは一拍置いた。

「あなたは万能ではない」

「良かった」

「ですが、偶然だけで動いているわけでもない」

「そこはぼかせませんか」

「監査ですので」


 やはり、逃がす気はまったくない。


 そこへ、補給局の奥から乾いた音が響いた。木箱を落とした音ではない。もっと薄くて、軽くて、嫌な音だ。乾いた革袋が一斉に擦れたような、紙の束の下で何かが走るような音。


 ダリオが真っ先に顔を上げた。

「何の音だ」

 奥から、倉庫番の怒鳴り声が飛んだ。

「待て、開けるな! その袋触るな!」


 次に来たのは悲鳴ではなかった。嫌そうな罵声と、木箱を引きずる音、それから誰かが「燻しだ、早く!」と叫ぶ声だった。


 レオンの背筋が冷えた。


 セレスも立ち上がる。フィアナは白布の裾を押さえて扉の方を向いた。ミーナはもう半歩外へ出ている。速すぎる。


 補給局の奥、兵糧庫に近い側から、今度ははっきり声が飛んだ。


「氷殻蟲だ! 兵糧袋がやられてる!」


 最悪だった。


 レオンは立ち上がりながら、反射的にどの区画かを考えた。今朝の入庫、昨夜の返納、革袋の山、燻蒸剤の位置。頭が動くのが嫌だった。こういう時に限って、頭は勝手に動く。


 そして次の瞬間、もっと嫌な言葉が飛んできた。


「西側の通路脇です! 動線が悪いって言ってた区画です!」


 ああ、本当に最悪だ。


 レオンは一瞬だけ目を閉じた。


 言った。確かに言った。あそこは袋の積み替えが重なって、湿気と残滓が溜まりやすいから良くないと。言ったが、言っただけだ。まだ直していない。だから今この瞬間、その言葉はただの愚痴ではなくなった。


 やめてほしい。


 だが兵糧庫は待ってくれない。


「副官殿、燻蒸剤は第三棚です! 無被害袋は北側へ寄せてください!」

 口が先に動いていた。

「補給局は西通路を閉じる! 革袋と穀袋を分けろ、まだ開けるな!」


 言い終わったところで、セレスと目が合った。


 彼女は何も言わなかった。


 ただ、その目があまりにも静かで、レオンは心の底から嫌な予感がした。

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