第3話
レオン・アークリットは、最近では聖油という二文字を見るだけで肩が重くなるようになっていた。
補給局の机に積まれた資料束の一番上には、昨夜のまま神殿印と軍印が並んでいる。普通、印は一つで十分なのだ。二つ並ぶ時は、関与している側が二つあり、責任の境目だけが曖昧な時である。
ろくな案件ではない。
朝一番の補給局は、昨日にも増して面白くなさそうな空気をしていた。正確には、一部だけが面白がっていた。
「で、先に怒り出したのはどっちですか?」
ミーナが書類束を抱えたまま聞いてきた。質問の内容がひどい。
「怒ってる前提で話すな」
「でも怒ってるんですよね」
「怒ってるだろうな」
「どっちも」
「だから最悪なんだよ」
レオンはため息をつき、資料束を開いた。神殿側の出庫規則、軍側の受領申請、巡回隊の実消費報告、補修班からの不足申告、夜警隊からの追加請求、仮出庫の簡略票。文字の量だけで人を消耗させる種類の束だった。
しかも束の端には、辺境伯家から回された付箋がついている。
――早急に整理されたし。
されたし、ではない。するのはこっちだ。
「レオンさん」
「何だ」
「昨日のレオンさん、すごかったですよ。ものすごく嫌そうなのに、あの場でいちばん話が先に進む人の顔してました」
「どういう顔だ、それは」
「嫌がってるのに、周りが止まらない顔です」
「まったく嬉しくないな」
「でも、似合ってました」
「やめろ」
ミーナは楽しそうに笑った。レオンは笑えなかった。
昨日の会議で押しつけられた「臨時業務改善補佐」という曖昧きわまりない立場は、一晩寝ても軽くなっていなかった。むしろ朝になって、書類と一緒に現実味だけ増している。補給局の下級書記官が、神殿と軍の間で聖油配分を整理する。言葉の上だけ見ても、役職と責任の釣り合いが悪い。
だが逃げ道はない。
物理的な逃げ道ならある。扉も窓もある。だが社会的な逃げ道がない。
「とりあえず、怒鳴り合いになる前に帳簿から見る」
「先に人じゃなくて?」
「人から入ると、人の話になるだろ」
「はい」
「今ほしいのは人の話じゃなくて、詰まりの場所だ」
レオンは資料を三つに分けた。神殿票、軍受領票、実消費報告。こういう時、まず嫌なのは、全員がそれぞれ正しいことを言っている可能性が高いことだ。誰か一人の判断ミスで済む話なら、まだ整理は簡単だった。だが辺境の厄介な仕事は、全員が自分の持ち場では正しい。
神殿票を見る。用途区分あり。巡回用、補修用、夜警用、浄化用。受領責任者あり。印も問題ない。形式上はきれいだ。
軍受領票を見る。こっちは、大雑把すぎる。「第三区分巡回関連」「外縁任務用一括受領」みたいな大きなくくりで持っていこうとしている。現場で融通しやすい代わりに、後から見ると何に使う前提だったのかが曖昧だ。
実消費報告を見る。ここが一番まずい。
補修班の使用量が申請より多い。夜警班の消費が帳簿上より少ない。前衛班の返納記録が曖昧。しかも簡略票で出た緊急分が、どの班へ流れたか途中で途切れている。
「……なるほど」
「足りない?」
ミーナがすぐ反応した。
「量だけの話じゃない」
「じゃあ何です?」
「流れ方が悪い」
そう言ってから、レオンは自分で紙の上を指で追った。
神殿側は用途区分を細かくしたい。理由はわかる。祝別物資である以上、どこへ流れたか分からなくなるのは嫌だし、帳簿不整合が起きれば責任も残る。
軍は一括受領したい。これもわかる。現場では白靄の濃さも、霜狼の出方も、補修箇所の傷みも固定ではない。班ごとに持たせた量をきっちり守るより、必要なところへ流せた方が生存率は上がる。
補給局だけが、その間で後始末を引き受けることになる。これもよくわかる。
「総量が全然足りないわけじゃない」
「えっ、でも不足申告が出てますよ」
「余っている班もある。だが全体としては、流れ方が崩れてる」
「うわ」
「うわ、で済まないのが仕事だ」
ミーナは少しだけ口をすぼめたが、目は面白がっていた。面白がられて助かる仕事ではない。少なくとも、レオンはそう思っていた。
その時、補給局の戸口で短い足音が止まった。
「レオン・アークリット」
顔を上げると、ダリオが立っていた。今日も灰色の外套の裾には乾いた泥が残り、手甲の擦れは増えているように見えた。この人は、寝ている間にも現場の匂いが抜けない類の人間に見える。
「副官殿」
「神殿側の人間が来る」
「もうですか」
「もうだ」
「昼までくらいは猶予があると思っていました」
「その発想がもう文官寄りだな」
「私は文官です」
「残念ながら今は半分違う」
まったく残念である。
「場所は?」
「補給局の奥会議室。神殿は帳簿も見るそうだ」
「見たがるでしょうね」
「軍も来る」
「見たくないなあ」
「見ろ。お前の案件だ」
ダリオは平然と言った。昨日までなら「お前ごとき」と切ってもおかしくなかった相手が、もう自然に案件を渡してくる。少なくともレオンにとって、評価は面倒の前触れだった。
「副官殿、一つだけ確認を」
「何だ」
「今回、本当に足りないんですか」
「足りない時もある」
「今回は?」
「補修班は足りないと言ってる。夜警は余らせてる。前衛は足りなくなる前提で多めを欲しがる」
「つまり」
「現場では全部正しい」
最悪の返答だった。
だが、だからこそ話が見える。
「分かりました」
「早いな」
「分かったのは、量だけで揉めてるわけじゃないということです」
「それを神殿の前でそのまま言えるなら大したもんだ」
「言いたくはないですね」
「だろうな」
ダリオは口元だけで少し笑い、会議室の方を顎で示した。
奥会議室は、辺境伯家のものに比べればずっと小さい。だが、揉め事の密度はむしろこういう部屋の方が高い。
すでに神殿側の人間が二人来ていた。一人は年配の実務官らしい男で、白布の縁をきっちり折り返し、机に置かれた帳簿を嫌そうに見ている。もう一人は、その半歩後ろに控えていた。
若い女だった。神殿付きの記録官見習いらしい白布は簡素だが、着崩れがない。じっと見つめてくるわけではないのに、目に入ったものを取りこぼさない視線をしていた。
フィアナ・ルークス、とダリオが紹介した。
「神殿記録官補佐見習いです。今回の帳簿照合に同席します」
女は静かに一礼した。
「フィアナ・ルークスです」
「レオン・アークリットです」
「存じています」
「……それは、どうも」
どういう意味で、とは聞かない方がいい気がした。
神殿側の年配男が、早速机を指で叩いた。
「こちらとしては単純な話です。用途別に出している聖油が、現場で用途不明になるのは困る」
軍側から来ていた古参の兵士がすぐ返す。
「単純ならこちらも助かる。だが現場は単純じゃない。白靄は巡回札を見て出るわけじゃない」
「だからといって、巡回用を夜警へ、夜警用を補修へ、補修用を浄化へ流されたら記録が追えなくなる」
「記録が追えないのと現場で死ぬの、どっちが困る」
よくある形の会話だった。
つまり、始まった瞬間に終わっている。
レオンは席につきながら、静かに資料を並べた。神殿票、軍受領票、実消費報告。順番を間違えると、そのまま言い分のぶつけ合いになる。
「お前が整理役か」
神殿側の男が言う。
「役目だけなら、そのようです」
「若いな」
「よく言われます」
「辺境伯は何を考えている」
「私が一番知りたいですね」
軍側の古参が鼻で笑った。補給局が後始末を被る、という愚痴だけは現場にも通じたらしい。神殿側は笑わなかった。フィアナだけが、わずかに目線を上げた。
今の返し、失点にはならないが加点もない。レオンはそう判断した。最初に必要なのは、気の利いたことを言うことではない。まずこの場を、言い分のぶつけ合いから帳簿の話へ落とすことだ。
レオンは帳簿を指で押さえた。
「今回の問題は、総量不足が主ですか。それとも出庫遅延と用途崩れが主ですか」
神殿側の男が眉を寄せた。
「両方だ」
軍側の古参も同じように答える。
「両方だな」
最悪だった。もっとも、そうでなければここまで揉めていない。
「では順番に見ます」
レオンは神殿票を一枚置いた。
「神殿側は、用途区分がないまま出したくない。これは分かります。祝別物資ですし、帳簿不整合が起きれば責任も残る」
「当然だ」
「軍側は、一括で持っていきたい。これも分かります。現場で班ごとの不足は固定ではない」
「当然だ」
「補給局としては、その二つの当然の間で記録を追いかける羽目になる」
そこで少しだけ、軍側が笑った。神殿側は笑わない。
フィアナは記録していた。だが書く速さが一定だ。ミーナとは違う。意味を盛らない人間の筆の速さだった。
「問題は、用途別出庫そのものじゃありません」とレオンは続けた。
「用途別の粒度と、承認順と、一括受領した後の崩れ方です」
「言い換えだな」と神殿側。
「違います」
レオンは実消費報告を開いた。
「補修班は不足申告を出している。でも夜警班は同日分で余らせている。前衛班は返納記録が曖昧。つまり、出した量より、どの単位で出して、どこで崩れて、どう記録が追いついていないかが問題です」
軍側の古参が身を乗り出した。
「現場融通が悪いと言いたいのか」
「逆です。現場融通は起きます。起きるのは仕方ない。問題は、起きる前提の記録になっていないことです」
「……ほう」
「神殿側は用途別に出したい。軍側は一括で持ちたい。その間を帳簿が追えていない。だから毎回“足りない”“遅い”“どこへ消えた”になる」
神殿側の男は嫌そうな顔のまま黙った。嫌そうだが、完全否定の顔ではない。
レオンはそこで紙を引き寄せ、新しい表を書き始めた。縦に巡回、補修、夜警。横に予定量、緊急追加枠、事後融通欄、返納欄。
「何をしている」
「区分台帳です」
「今ここでか」
「今ここでです。後で書くと、後で揉めるので」
「すでに揉めている」と軍側。
「これ以上を減らしたいんです」
レオンは書きながら続けた。
「完全な一括受領はやめる。その代わり、神殿側は用途別に“枠”を押さえる。巡回、補修、夜警ごとに必要量を先に確定する。実物の受け渡しはまとめてもいいが、受領時点で用途枠だけは切る」
「形だけ分けるのか」と神殿側の男。
「形だけではありません。事後融通欄を最初から作る。補修班へ追加で流したなら、その場で欄を動かす。夜警へ回したなら夜警欄へ寄せる」
「現場でそんな細かいことができるか」
軍側の古参が言う。
「現場で全部書けとは言っていません。班長札で仮移管だけ切る。補給局で後追い転記する。今はその欄自体がないから、毎回“なかったこと”になる」
「神殿印は」
今度はフィアナが初めて口を開いた。声は柔らかい。だが、問いの芯は少しもぶれていなかった。
「用途変更のたびに取り直すべきだ、という話にはなりませんか」
良い問いだった。
レオンは女の方を見た。派手に責めてはいない。だが、どこで理屈が破綻するかを静かに見ている目だった。
「正規にはそうです」
「では?」
「緊急時は、もともと簡略票があるでしょう」
フィアナの目が少しだけ細くなる。
「あります」
「なら、用途変更そのものを全部“違反”にするんじゃなくて、緊急移管として仮記録させる方がまだ追えます。今は融通が起きるのに、起きない前提の帳簿だから記録が崩れる」
「緊急の濫用は?」
神殿側の男が言う。
「そこは嫌ですよね」
「嫌だ」
「軍も毎回緊急扱いはしたくないはずです。面倒なので」
軍側の古参が少し渋い顔をした。
「……したくないな」
「なら、緊急枠の上限を最初から決める。巡回ならここまで、補修ならここまで。それ以上は本当に例外扱いにする」
部屋が静かになった。
完全解決ではない。そんなことはレオンにも分かる。だが、少なくとも今この場では、誰もすぐには「無理だ」とは言えない形になっていた。
軍側にとっては、一括受領を完全否定していない。神殿側にとっては、用途別管理の面子を潰していない。補給局にとっては、後追いで帳簿を捏ねる地獄が少し減る。
誰も完全には満足しない。だが、誰も今すぐ席を蹴る理由もない。そのくらいの形にはなっていた。
だが本人は、ただ早く終わらせたいだけだった。
「……お前」
軍側の古参が言った。
「神殿と組んでこっちを縛りにきたのかと思ったが、そうでもないんだな」
「縛りたくないですよ。後で面倒だから」
「面倒」
「神殿も軍も、どっちも後から補給局へ寄ってくるでしょう。足りないとか違うとか。あれを減らしたいだけです」
「言い方は腹立つが、理屈は通っているな」
神殿側の男が、今度は露骨にレオンを見た。
「軍に寄りすぎてもいない」
「軍寄りにしすぎると、神殿側の確認票が増えて、結局また遅くなります」
「……そこまで分かっているのか」
「分かりたくて分かったわけではありません」
神殿側の男は、一瞬だけ呆れたような顔をしたが、完全に怒る顔でもなかった。
フィアナはそこで初めて、わずかに口元を動かした。笑ったというほどではない。だが無表情のままでもない。
「面倒を減らしたい、という話ばかりされますね」
と彼女は言った。
「ええ」
「でも、減らし方は雑ではありません」
「雑にすると、後で余計に面倒ですから」
「それは実務家の言い分です」
「理想家よりは向いている気がします」
「理想家だと困る場面ですか」
「今は、そういう場面です」
フィアナはそれ以上言わなかった。だがその沈黙が、軽い否定ではないことは分かった。
神殿側の男が咳払いをした。
「試す価値はある」
軍側の古参も不承不承うなずく。
「現場で書く量が増えすぎるなら潰す」
「潰す前に、書く量は補給局側で減らします」
レオンは即座に言った。
「班長札の記号だけで済むようにします。後追い転記はこっちで持つ」
「それを最初から言え」
「今言いました」
軍側の古参が鼻で笑った。神殿側の男も、さっきよりは露骨に嫌そうではない。
部屋の空気が、ようやく「話ができる」温度まで下がった。
その瞬間、レオンは心の中で深く安堵した。勝ったとか負けたではない。単に、今日これ以上こじれたら面倒だと思っていた段階を越えたのである。立派な目標ではない。だが今日を終えるには、それで足りた。
ミーナが、いつの間にか会議室の外から覗いていた。なぜいる。いや、補給局なのだからいてもおかしくはないが、その顔は期待していたものがようやく動き出した時のそれだった。後で余計な意味を足す気満々である。
やめてほしい。
「では暫定運用として」とレオンは言った。
「次の巡回と補修分から、この台帳で回してみます。神殿側は用途枠を切る。軍側は受領時に枠を確認する。融通が起きた場合は班長札で仮移管。補給局で後追い転記」
「監査が入ったら?」
神殿側の男が言う。
「入るでしょうね」
「そうでしょうね」
その声は、会議室の入り口側から来た。
いつの間にか、一人の女が立っていた。細身で、無駄のない立ち姿。飾り気のない服装なのに、雑に置かれた紙の一枚まで許さない種類の雰囲気がある。
セレス・グランディア。監査官補佐。
初対面でも監査の人間だとすぐわかった。
「帳簿だけ見せてください」
セレスは淡々と言った。
誰も反対しなかった。反対すると余計に面倒になる顔だったからでもある。
彼女はレオンの書いた区分台帳、神殿票、軍受領票、実消費報告を順に見た。視線の動きが速い。だが流し読みではない。速いまま、必要なところだけ正確に止まる。
嫌な人だ、とレオンは思った。辺境にはこういう、頭の回る嫌な人が多すぎる。
「……なるほど」
セレスは紙から目を上げた。
その視線は感心でも称賛でもなく、確認の続きを求める類の冷たさだった。
「偶然にしては、筋が通りすぎていますね」
部屋が静かになった。
褒め言葉ではない。だが否定でもない。しかも言い方が最悪だ。最悪な言い方ほど、周囲の想像力を刺激する。
ミーナが会議室の外で、また目を輝かせているのが見えた。
レオンは何も言わなかった。
今ここで何か言えば、また面倒が増える気がしたからだ。




