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補給官は楽をしたい  作者: 螺旋


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第2話

 辺境伯家の会議室というものは、もう少し遠い場所にあるべきだとレオンは思った。


 少なくとも、補給局の自分の机から歩いて行ける距離にあってはいけない。歩いて行けるせいで他人事にならず、その分だけ逃げ場がない。


 廊下を進みながら、レオンは三回くらい真剣に考えた。今からでも熱が出たことにならないだろうか。あるいは途中の階段で足を滑らせたことにして、軽く捻挫くらいなら演出できないだろうか。


 できなかった。


 なにしろ伝令が妙に丁寧で、しかも二人ついている。片方は案内役、もう片方は礼儀上の付き添いなのだろう。だがレオンには、どちらも逃亡防止要員にしか見えなかった。


 隣を歩くミーナは歩幅まで弾んでいた。昨日より少しだけ髪が乱れているのに、本人は気にしていないらしい。停滞より動きを優先する人間の雑さがそのまま出ている。


「すごいですねえ」

「何がだ」

「辺境伯家ですよ? しかも臨時会議ですよ? 普通、補給局の下級書記官なんて、書類の端に名前が載る側でしょう」

「だからこそ、今この状況が嫌なんだよ」

「嫌がっても格好いいの、ずるいですね」

「ずるいの意味がわからない」


 会議室の前には、すでに何人か集まっていた。軍服の肩章、神殿の白布、行政官のくすんだ外套。どれも補給局とは違う種類の疲れ方をしている顔だが、共通していたのは、レオンを見た時の一瞬の沈黙だった。


 その沈黙が解ける前に、軍の古参らしい男がダリオへ低く聞いた。


「昨夜の報告、あれをそのまま上へ?」

 ダリオは短く答えた。

「事実だけだ」


 その一言で十分だった。少なくとも、この会議に若い書記官が呼ばれる程度には。


 会議室の扉が開く。


 案内された先には、中央よりずっと質実だが、それでも辺境で最も高価な家具が並んでいた。大きな地図卓。傷の少ない長机。無駄に太い蝋燭。壁には白裂回廊周辺の地図と、最近の巡回経路を示す木札が掛けられている。


 その上座にいたのが、ハルトム辺境伯だった。


 老年に差しかかっているはずだが、老いたというより、長年の判断で角を削られてきた印象の男だった。辺境にしては質の良い上着を着ているのに、華美さより長い寝不足の気配が先に立つ。表情は穏やかで、声も荒げるタイプには見えない。それなのに、机の上の書類ではなく、入ってきた人間のどこで言い淀むかを先に見ている感じがあった。


「来たか。レオン・アークリット」

「お招きいただき、恐悦至極に」

「そこまで硬くならなくていい。硬くなっても内容が増えるわけではない」


 嫌な人だ、とレオンは思った。柔らかく言うのに逃げ道を塞ぐのがうまい。


「では座れ。君の巡回改善について聞きたい」

「改善というほどでは」

「その『改善というほどでは』も含めてだ」


 ダリオがすでに席についていた。壁側に腕を組んで座り、口を開くつもりはない顔をしている。だが、昨日までの「中央の若造をとりあえず見ておく」顔ではない。完全な信頼ではなくても、少なくとも“報告に値する現場の事実”として上へ通した重みがそこにあった。


 ミーナは後方の記録席で羽根ペンを構えていた。完全に観劇である。


 レオンは座った。座ったが、胃が楽になるわけではなかった。


「まず確認しよう」と辺境伯が言った。「第五から第七結界杭巡回の件、積載品と確認手順を変更したのは君だな」

「はい」

「理由は」

「今回の任務では、少し噛み合っていない部分がありましたので」

「少し、とは?」


 やはり来たか、とレオンは思った。


 ここで曖昧に流せる相手ではない。ならせめて、過度に大きく聞こえないように、小さく、具体で、事務的に話すしかない。


「今回の任務は長距離遠征ではなく、外縁の結界杭確認と補修が主目的でした。夜営前提ではありませんので、大型鍋と三脚竈は過剰です。携行食で足ります」

「ふむ」

「白靄と霜狼への即応性を優先するなら、長弓矢より短弩矢と火薬灯の方が実用的でした。前回損耗報告でも、長弓矢は余り、短弩矢と替芯が不足気味でしたので」

「聖油は」

「均等支給より、前衛班と補修班に寄せた方が使い切れます」

「封蝋箱はなぜ外した」

「倉庫側で事前確認印を済ませれば、現地確認のために書記官が同行する必要がありません」


 最後だけ少し早口になった。辺境伯はそこも見ていた。


「必要がない、と」

「今回に限っては、はい」

「つまり、慣例が任務条件と噛み合っていないと」

「……そういうことになります」


 会議室の空気がわずかに変わった。行政官らしい中年男が資料をめくり、神殿側の白布を肩に掛けた男が眉をひそめ、軍の古参らしい者がダリオの方を見る。


 嫌な変化だ、とレオンは思った。


 今の自分は単に「今回は鍋がいらない」と言っただけのはずなのに、その鍋一つで辺境の何か全部を語らされそうになっていた。


「任務別装備表はないのか」


 辺境伯の問いに、行政官が咳払いした。


「ありません。慣例装備を基準に、現場判断で増減を」

「そのせいで、巡回も補修も夜営も、一括運用になるわけだな」

「結果としては」

「確認印が三重なのは?」

「補給局、軍需倉、現場責任者で確認する流れです」

「そのせいで出発が遅れることは」

「あります」

「神殿印付き聖油の出庫は?」

 神殿側の男が少し固くなる。

「規則上、用途確認が必要です」

「結果として遅れることは」

「……あります」


 辺境伯はそこで、ようやく少しだけ笑った。面白がっている笑いではない。見えていたものが言語化されて確信に変わった時の笑いだった。


「つまり、だ。ラドゥーンでは、巡回・補修・夜営の違いが装備に反映されず、確認印は増える一方で、神殿の聖油出庫も任務優先になっていない。誰も怠けてはいないが、誰も全体を設計していないわけだ」


 いや、そこまで大きい話ではない、とレオンは言いたかった。


 だがここで「ただ鍋を外したかっただけです」と言ったら、さすがに終わる。社会的に。


「任務ごとに必要物資と確認工程を分けるだけです」


 レオンはなるべく小さく聞こえる言い方を選んだつもりだった。


 だが、その一言で、会議室の空気は完全に止まった。


 軍側の古参は押し黙り、行政官は資料の上で指を止め、神殿側の男は目を細めた。ダリオだけが無言のままだったが、その無言が肯定に近いことは誰にでも分かる。後方で走るミーナの羽根ペンの音が、途中から妙に速かった。記録というより脚色に近い速度だ。


「分けるだけ、か」


 辺境伯が繰り返す。


 その声音は感嘆でも嘲りでもなく、評価だった。


「はい」とレオンは答えるしかなかった。「任務条件が違うのに、装備表も確認経路も一括運用なのが詰まりの原因です。夜営前提の装備を短距離巡回にも持たせれば、積載も確認も増えます。神殿印付き聖油も、用途別の優先順がなければ毎回遅れます。ですので、その……分ければ」

「停滞は減ると」

「減る、かもしれません」

「かもしれない」

「実際に全体へ広げるなら、例外条件も見ないと危険ですので」


 保険をかけた。つもりだった。


 だが辺境伯は、それすら気に入ったらしい。


「良いな」

「は」

「全部を分かっている者の言い方ではない。だが、分かっていない者の言い方でもない」


 褒められているのか、試されているのか、まったく分からない。分からないが、安全ではない。


 神殿側の男がそこで口を開いた。


「言うは易しです。用途別管理など、神殿では以前から求めています。しかし軍が一括受領を望む」

「現場で箱を分けると遅れる」と今度は軍側の古参が返す。「白靄は待ってくれませんので」

「だが現状では、その遅れと無駄が両方ある」と辺境伯。


 視線がまたレオンに集まる。


 やめてくれ。


 自分は仲裁役ではない。補給局の下級書記官であって、できればそのまま一生、地味に有能そうに見える位置で暮らしたいのだ。


「君ならどうする」


 辺境伯は、実に気軽にそう言った。


 レオンは心の中で天を仰いだ。


 どうするも何も、今すぐ解放してくれるのが一番ありがたい。


 だが答えないわけにはいかない。


「……用途別の区分台帳を作ります」

「ほう」

「巡回、補修、夜営で必要物資の基準を分ける。聖油は一括量ではなく任務別の必要量で先に枠を押さえる。その上で、印は用途確認の段階で付ける。現場で箱を開けて揉めるより、出庫前に線を引いた方が早いです」

「軍は?」

 ダリオが初めて口を挟んだ。

「軍は、毎回全部持つ前提をやめるべきです」

 自分で言ってから、少し言い過ぎたかと思った。

 だがダリオは怒らなかった。

「理由は」

「全部持つ前提だから、全部の確認が必要になる。全部の確認が必要だから出発が遅れる。今回みたいに主目的がはっきりしているなら、持つ理由の薄い物資を外した方が早いです」

「夜営になったら?」

「その時はその時のための予備を別で持たせる。全班一律で背負わせる必要はありません」


 会議室のどこかで、誰かが小さく息を呑んだ。


 まただ、とレオンは思う。


 別に、自分は何かすごいことを言っているつもりはない。ただ“今回必要なもの”と“念のため全部持つ”を分けただけだ。だが長く同じ形で詰まっている場所では、その程度の言葉でも妙に鋭く聞こえるのだろう。


「面白い」


 辺境伯はそう言った。


 その一言が、レオンにとっては面白くなかった。


「レオン・アークリット」

「はい」

「君は、補給局の下級書記官のままにしておくには惜しい」

「恐れ入ります」

「褒めているとは限らないぞ」

「なお怖いですね」

「率直でいい」


 やめてほしい。率直さは評価されると危険なのだ。


 辺境伯の目は、若者を評価しているというより、詰まった水路にちょうど入る細い棒でも見つけた時のそれに近かった。


「臨時の立場を与える。名目は業務改善補佐でよいだろう。補給局所属のまま、軍・行政・神殿の調整に出てもらう」

「お待ちください」

「待たない」

「今のは意見です」

「だから拾う」

「拾わないでいただけると」

「現場で結果を出し、会議で構造まで言語化した者に対して、それは難しいな」


 柔らかい断定だった。もっと強く否定された方が、まだ諦めがついたかもしれない。


 レオンはダリオの方を見た。せめて現場側から「いや、こいつはただの若造です」と切ってくれないかと思ったのだが、ダリオは静かに腕を組んだまま言った。


「少なくとも、巡回の件では役に立った」

「副官殿」

「それに、言ってることも筋は通ってる」


 最悪だった。


 辺境伯はそこで神殿側の男へ向き直った。


「ちょうど良い。次の案件をこの若者に渡そう」

「次の案件、ですか」

「軍と神殿で揉めている聖油配分の件だ。用途確認、出庫遅延、巡回優先順位。今まさに、彼の言った話そのものだからな」


 神殿側の男の表情がわずかに険しくなる。軍の古参も不満そうに口元を歪めた。


 その顔を見て、レオンは心の底から思った。


 これは嫌われる仕事だ。


 そして嫌われる仕事は、たいてい責任だけ重くて感謝が少ない。


 つまり最悪である。


「私は補給局の下級書記官ですが」

「知っている」

「神殿と軍の調整は、もう少し上の立場の方が」

「上の立場の者が今までできていれば、君はここに呼ばれていない」

「それは詭弁では」

「現実だ」


 辺境伯は穏やかにそう言い切った。


 会議室の誰も、それを否定しなかった。否定できないのだろう。誰も怠けていないのに、誰も全体を設計していない。その現実だけは、この部屋にいる全員が知っている。


 レオンは知りたくなかったが。


「決まりだ」と辺境伯が言う。「詳しい資料は補給局経由で渡す。三日以内に整理案を出せ」

「三日」

「長い方だぞ」

「短いです」

「そうか。では四日にしよう」

「増えたようで増えてない気がします」

「気のせいだ」


 会議室に小さな笑いが起きた。普通なら悪い空気ではないのだろうが、レオンには決定事項へ釘を打たれる音にしか聞こえなかった。


 結局、そのまま会議は終わった。


 終わった、というより、レオンにとって終わってほしくない形で閉じられた。自分の知らないところで肩書きが一つ増え、しかもそれが何をどこまで意味するのか誰も明確に説明しない。曖昧な肩書きほど危険だというのは、中央でも辺境でも変わらないらしい。


 会議室を出ると、廊下の冷たい空気が少しだけましに思えた。


 だがましだったのは三秒ほどだった。


「次は神殿相手ですね」


 案の定、ではなく、まっすぐそう来た。


「すごいです、そこまで見越してたんですね!」

「見越してない」

「でも聖油の話、会議の流れで自然に出しましたよね」

「流れで出たんだよ」

「しかも辺境伯様がそのまま次の案件に」

「それは俺のせいじゃない」

「そういうところですって」


 どういうところだ、本当に。


 廊下の先では、ダリオが軍の者に何か短く指示を出していた。その横顔は、もう昨日までの「とりあえず見張っておく若造」へのものではない。完全に味方でもないが、少なくとも“使えるかもしれない人材”を見る目になっている。


 レオンはその事実に、じわじわと胃が痛くなった。


「帰りたい……」

「今日は無理でしょうね」

「辺境って、もっと書類仕事だけで静かに死んでいく場所だと思ってた」

「今のところ静かではないですね」

「そういう意味じゃない」


 ミーナは楽しそうに笑った。


 その笑顔の向こうで、補給局から届けられたらしい資料束を抱えた使いがこちらへ近づいてくる。封には神殿印と軍印の両方が押されていた。嫌な予感しかしない組み合わせだ。


「レオン・アークリット殿」

「はい」

「辺境伯家より。聖油配分案件の関連書類です」

「もう来たのか」

「お急ぎとのことで」


 急がせているのは誰だ。知っているが、知らないふりをしたい。


 資料束を受け取る。ずっしり重い。重い資料は、たいてい面倒の質量である。


 しかも一番上の紙には、すでに問題の輪郭が見えていた。


 神殿印付き聖油の用途別出庫規則。

 軍側の一括受領慣例。

 巡回優先順位未整理。

 補修班からの不足申告。

 夜警隊からの横流し疑い。


 レオンは目を閉じたくなった。


「楽しみですね」とミーナが言う。

「どこがだ」

「神殿と軍、両方ですよ?」

「最悪の言い換えだな」

「でも、レオンさんなら」

「やめろ」

「まだ何も言ってません」

「その先が分かるからやめろ」


 ミーナは口元を押さえたが、目はまったく隠せていなかった。


 補給局へ戻る廊下を歩きながら、レオンは資料束を見下ろした。自分はただ、鍋を外して早く帰りたかっただけだ。それがどうして、神殿と軍の間に立つ話になるのか。理屈で説明しろと言われたら、辺境の停滞構造とか、任務別装備表の不在とか、そういうもっともらしい言葉で説明はできる。


 だが本音で言うなら、答えは一つしかなかった。


 運が悪い。


 あるいは、感じよく理屈を通してしまう自分の性質の方が、もっと悪い。


 補給局の扉が見えたところで、レオンは深く息を吐いた。


 するとミーナが、まるで思い出したように無邪気な声で言った。


「やっぱり、あそこで聖油の話を出したの、布石だったんですね」


 レオンは答えなかった。


 答えたら、また何か悪化する気がしたからだ。

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