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補給官は楽をしたい  作者: 螺旋


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第1話

 ラドゥーン補給局の朝は、朝らしい爽やかさと無縁だった。


 人を気持ちよく働かせる気のない色をしている。帳簿の山は薄茶、封蝋の欠片は赤黒く、倉庫から持ち込まれた麻袋の繊維は灰色で、窓の外には白く濁った寒気が張りついている。王都の役所なら、朝一番に飲む茶の香りくらいはした。ここでは乾いた革と古い油と、誰かが徹夜でめくった書類の匂いがする。


 レオン・アークリットは、机に肘をつかない程度の品位は守っていたが、気分としてはとっくに机へ突っ伏していた。線の細い顔立ちと、王都仕込みで妙に崩れない身だしなみのせいで、彼は何もしていない時ほど勝手に有能そうに見える損な男だった。しかも腹立たしいことに、突っ伏したいほど面倒でも、机の上の書類の角が揃っていないのは見過ごせなかった。


 辺境勤務はもっと楽なはずだった。


 それがラドゥーン着任以来、彼の中で最も繰り返された文章である。中央の官吏養成院を優秀な成績で出て、競争に満ちた本省の細い椅子取りゲームに参加するよりは、辺境の事務方でそこそこ有能そうに見えつつ、危険な責任から一歩引いた位置にいられる。それが彼の見立てだった。


 見立ては見事に外れた。


 辺境は暇ではない。辺境は雑だった。


 軍は軍の理屈で急ぎ、神殿は神殿の理屈で止め、監査は監査の理屈で印を要求し、行政は行政の理屈で後回しにする。その全部が補給局の机の上に落ちてくる。誰も怠けているわけではないのが、なおさらたちが悪い。全員が自分の持ち場では真面目だから、全体としては見事に詰まるのだ。


「レオンさん、第三倉庫の出庫台帳、昨日の夜警分と今朝の巡回分で数字が合ってません」


 隣の机から、顔を上げるより先に声が飛んできた。ミーナ・フェルドだ。きちんとした事務服なのに袖口だけが紙粉でわずかに白く、書類束を片腕で抱えたまま、もう片方の手で次の帳票をめくっている。忙しそうというより、忙しい状態が通常運転の人間だった。目の動きが早い。


「どっちが間違ってる?」

「両方の可能性があります」

「最悪だな」


 口ではそう言いながら、レオンは手を出した。紙を受け取り、数字を二列眺める。夜警向け火薬灯の補充数、予備弦、携行食。視線を二往復させたところで、書式の癖から転記元が違うとわかった。


「夜警分が古い台帳だ。今朝の方が修正後」

「ですよね」

「『ですよね』で済ませないで、済んだなら直しておいてくれ」

「もう直しました」

「優秀だな」

「でしょう」


 明るく言って、ミーナはまた別の紙束に飛びついていった。ああいう人材は組織に必要だ。できれば、自分の机のすぐ隣でなければなお良かった。


 レオンは修正済みの台帳を重ね直し、次の書類に手を伸ばしたところで嫌な単語を見つけた。


 夜間巡回。


 しかも白裂回廊外縁、第五結界杭から第七結界杭までの点検。


 視線が一瞬だけ固まる。


 夜間。回廊外縁。結界杭点検。


 つまり寒い。暗い。白靄が出る。霜狼が寄る。しかも帳簿上の確認担当として、補給局から書記官が一人同行して現地受領を見届ける慣例になっている。


 嫌だ。


 ものすごく嫌だった。


 レオンは自分の良心に照らして、卑怯な人間ではないと信じている。危険な仕事を他人に押しつけて平然としている種類ではない。だがそれはそれとして、自分が行かずに済むなら行きたくない。行く必要がないならなおさら行きたくない。必要もないのに寒い夜道で白靄と霜狼に挟まれるのは、勤労精神ではなく判断ミスだ。


「……なんで書記官同行確認がまだ残ってるんだ」


 小さく呟くと、向かいの席の年かさ事務官が顔も上げずに答えた。


「昔からそうだからだよ」

「最悪の理由だな」

「そういう顔しても消えないぞ」


 慣例はだいたい、誰かが痛い目を見た名残である。そこは理解している。だが理解していることと従いたいことは別だ。


 レオンは夜間巡回の一式書類を引き寄せた。補給台帳、前回の損耗報告、班編成、巡回目的、結界杭補修の予定箇所。書類が多いのは嫌いだが、目的がはっきりしている仕事はそこまで嫌いではない。むしろ、面倒を減らせる類のものなら好きですらあった。


 今回の巡回は長距離遠征ではない。夕刻に出て、外縁の結界杭を三本確認し、補修が必要ならその場で補修、夜更けが深くなる前には帰還する想定だ。主敵は白靄と霜狼。長居はしない。夜営前提ではない。


 にもかかわらず、積載品には大型鍋二つ、折り畳み式の三脚竈、長弓用矢束四組、防寒布束八、携帯封蝋箱、現地確認帳、予備の炊事具一式と、あまりにも“いつもの巡回セット”がそのまま載っている。


 レオンは眉を寄せた。


「誰だこれ組んだの」

「昨月の書式そのままじゃないですか?」とミーナが言った。

「素晴らしいな。考えることを捨てると仕事は速い」

「褒めてませんね」

「褒めてない」


 前回の損耗報告を重ねて見る。白靄濃度高、視界不良、霜狼小群れ接近一回。消費されたのは火薬灯の替芯が多く、聖油は前衛班と結界補修班で偏りが大きい。長弓矢はほとんど余っている。逆に短弩矢の方が不足気味だ。炊具は未使用。


 だったら答えは単純だった。


 不要なものを切る。


 今回必要なものに寄せる。


 確認工程を減らす。


 結果として自分が現地まで行かなくて済めば、なお良い。


 レオンは羽根ペンを持ち替えた。


「ミーナ、荷付け表の予備、もう一枚」

「はい。何を削るんです?」

「削る前提で聞くな」

「削る顔してるので」

「よく見てるな、きみは」


 新しい用紙を広げる。まず大型鍋と三脚竈を外す。今回の巡回距離で夜営前提の炊事具は過剰だ。どうしても食うなら携行食でいい。次に長弓矢束を二組減らし、短弩矢をその分増やす。狭い回廊縁で霜狼相手なら即応性が高いのは短弩だ。防寒布も班ごとの定数を見直せるが、そこは現場がうるさいので今回は据え置く。その代わり火薬灯を増やす。白靄で視界を削られる方が面倒だ。


 聖油は一括支給からやめる。先導する前衛班と結界杭を触る補修班に寄せる方が理にかなう。全班均等は綺麗だが、綺麗なだけだ。


 問題は封蝋箱と現地確認帳だった。


 これがあるから書記官同行が発生する。


 レオンは少し考え、唇の端を上げた。今回の補修箇所と受領物資は事前に確定している。なら倉庫側で先に確認印を済ませ、現地では補修班長の署名札だけで足りる。封蝋箱ごと持っていく必要はない。


 つまり、自分が行かなくていい。


 素晴らしい。


「何を笑ってるんですか」

「仕事に希望が見えた」

「怖い言い方やめてください」


 ミーナが覗き込んできたので、レオンは用紙を少し寄せた。隠すほどではないが、説明が面倒だからでもある。


「今回、外す。鍋二つと竈」

「えっ」

「長弓矢束も二組減らす。短弩矢に振る。聖油は均等支給やめて前衛と補修班に寄せる。火薬灯を増やす。封蝋箱は持ち出し不要」

「……え、かなり変えますね」

「かなり無駄だからな」

「それは、まあ」

「あと荷馬車一台やめて、軽量橇二台に分ける」

「雪面の狭路用ですか?」

「それもある。荷馬一台が怯えて止まると全部止まる」

「なるほど……」

「でも、書記官同行確認を抜くのは、あとで倉庫が嫌がりますよ」

「嫌がるだろうな」

「じゃあ通りませんよね」

「通すんだよ。嫌がることと、必要なことは別だ」


 ミーナが少しだけ口を閉じる。そこへ、低い声が頭上から落ちてきた。


「誰が許可出すんだよ」


 レオンが顔を上げると、灰色の軍用外套を肩に引っ掛けた男が立っていた。裾には乾いた泥がこびりつき、手甲の革には擦れた白筋がいくつも走っている。書類仕事を嫌っている顔ではない。書類が遅れたせいで現場が死ぬのを知っている顔だった。顔立ちそのものは鋭いというより削れていて、黙って立っているだけで補給局の空気が一段締まる。


 ダリオ・ヴァンセル。辺境防衛軍の副官。現場叩き上げの実務屋で、補給局の人間には概ね礼儀正しいが、信用はしていない。特に中央から来た若い文官を見る目はだいぶ辛い。


 彼の視線は、レオンの手元の新しい荷付け表に落ちている。


「おはようございます、副官殿」

「挨拶で薄めるな。今、何を変えた」


 レオンは一瞬だけ考えた。ここで怯むと余計に面倒だ。堂々と正論を言っておけば、案外通ることは多い。


「今回の巡回条件に合わせて、不要物資と確認工程を整理しています」

「整理」

「はい」

「鍋を外すのが整理か」

「今回、夜営前提ではありませんので」


 ダリオの眉が動く。怒る前の動きか、興味を持った時の動きかはまだわからない。


「長弓矢も減ってるな」

「回廊外縁での霜狼即応なら、短弩の方が扱いやすいでしょう。前回の消費実績もそうです」

「聖油の配分が偏ってる」

「均等支給に意味がある場面ではそうします。今回は前衛と補修班が使う量の方が多い」


 レオンはなるべく自然に、当然のことを言っている顔をした。内心では、納得して帰ってくれと祈っている。


 ダリオは新旧の荷付け表を見比べた。鍋。竈。矢束。火薬灯。聖油。封蝋箱。軽量橇。


「……封蝋箱まで外すのか」

「倉庫側で事前確認印を済ませれば、現地確認は補修班長の署名札で足ります」

「書記官同行は」

「不要です」

「お前が行きたくないだけでは」

「私の希望と効率が一致しただけです」


 しまった、とレオンは思った。少し本音が出た。


 だがダリオは怒らなかった。むしろ黙った。


 彼はレオンを、いやレオンの書いた表を、もう一度見た。今度は最初より長く。そこにあるのが若い文官の思いつきなのか、それとも何か別のものなのかを測るように。


「今回の第五から第七まで、地形は知ってるのか」

「報告書では」

「現地は報告書ほど親切じゃないぞ」

「だと思います」

「霜狼は荷の匂いを追う」

「だから軽くして、止まる時間も減らします」

「白靄が濃くなると灯りが命になる」

「なので火薬灯を増やします」

「結界杭の補修は手が汚れる。補修班の聖油消費が偏る」

「ええ」


 会話が妙な方向へ転がっているのがわかった。レオンにとっては確認だ。ダリオにとっては検証だった。


 前線を知らない若造の思いつきなら、どこかに軽さが出る。だが目の前の書き換えには、軽さの代わりに省き方の筋があった。現場で死ぬものと、死ななくていいものの線を、紙の上で先に引いたような筋だった。


「無駄を省いただけです」とレオンは穏やかに言った。

 言いながら、これ以上深読みするなと思った。


 ダリオは無言のまま表を机に戻した。


「荷付けはそれで通す」

「ありがとうございます」

「だが帰還後、俺に説明しろ」

「……説明、ですか」

「お前の頭の中身をな」


 それだけ言って、彼は踵を返した。


 去っていく背中を見送りながら、ミーナが小さく息を吸った。


「今の、怒られなかったですね」

「理屈が通っていれば怒られない人なんだろう」

「いえ、そうじゃなくて」

「何だ」

「ダリオ副官、途中からちょっと怖い顔してませんでした?」

「もともと怖い顔だろう」

「そういう意味じゃなくて……なんていうか、ぞっとしたみたいな」

「考えすぎだ」


 そうであってほしい。


 その後の数時間、補給局はいつも通り慌ただしかった。第三倉庫の銀釘束に欠数が出て、夜警から火薬灯の替芯が足りないと文句が入り、神殿からは聖油の出庫記録の書式が違うと差し戻しが来る。


 その全部の間に、レオンは巡回隊の荷付けが実際に変更されたのを横目で確認した。大型鍋は外され、短弩矢の箱が増え、火薬灯の木箱が二つ追加され、荷馬車の代わりに軽量橇が準備される。封蝋箱は倉庫の棚に置かれたままだ。


 良い。非常に良い。


 書記官同行の欄に、自分の名前は入っていない。


 世界はまだ捨てたものではないな、とレオンは思った。ほんの少しだけ。


 夕刻、巡回隊は出ていった。ダリオが率い、補修班と前衛班を含む小規模編成。霜狼が出れば厄介だが、最悪ではない。白靄が濃くなりすぎる前に帰ってくればいい。


 レオンは隊が見えなくなったのを確認し、心の底から安堵した。


「今日は、深夜まで引っ張られずに済みそうだな……」


 思わず漏れた本音に、ミーナが顔を上げた。


「そんなに嫌だったんですか」

「嫌だろう。寒いし暗いし狼は来るし」

「文官らしからぬ率直さですね」

「文官は寒くないとでも?」

「そこまでは言ってません」


 彼女は笑った。レオンも机の上を片づけ始める。


 その後もしばらく補給局は細かな差し戻しと確認で騒がしかったが、レオンにとっては珍しく、自分が直接火消しに回る案件は少なかった。帳簿を二冊片づけ、夜警分の火薬灯記録を見直したあたりで、思っていたより早く外が騒がしくなった。


 足音が近づいてきた。扉が開く。夜気と一緒に、泥と獣臭の薄い混じった空気が流れ込む。


 巡回隊が帰ってきたのだ。


 思ったより早い。


 補給局の中が少しざわつく。レオンも顔を上げた。前衛の兵士たちの外套に白い霜がついている。軽量橇の片方は泥を跳ね上げていたが、荷崩れはしていない。負傷者らしい者も見えない。


 先に入ってきたダリオが、こちらへ真っ直ぐ歩いてきた。


 嫌な予感がした。


「副官殿。お戻りで」

「戻った」

「早かったですね」

「おかげでな」


 そこでやめてくれればよかったのに、ダリオはさらに続けた。


「第六杭の手前で白靄が濃くなった。火薬灯を増やしてなければ視界が死んでいた」

「はあ」

「帰路で霜狼が出た。長弓を構えるより短弩が速かった」

「それは何よりです」

「補修班に聖油を寄せていたから、杭の補修も予定より早く終わった」

「良かったですね」


 他人事みたいな返事しか出なかったが、そのまま他人事で済ませたかった。


 ダリオは数拍、黙ってレオンを見た。


「お前、現地を見ていたことでもあるのか」

「ありません」

「ならどうしてあれが組める」

「今回の目的に対して、要らないものを外しただけです」

「だけ、か」


 その「だけ」の言い方がいけなかったのかもしれない。


 ダリオの目が、今朝とは違っていた。若い文官を値踏みする目ではなかった。理解しきれないものを前にした人間の、妙に真面目な顔だった。


 レオンはやや背筋を寒くした。外気のせいではない。


「副官殿、報告書を先に」

 別の兵士が声をかけると、ダリオはようやく視線を外した。


「後で来い、レオン・アークリット」

「……補給局ですので、たいていここにいます」

「知ってる」


 そう言って去っていく。


 残された沈黙を最初に破ったのは、やはりミーナだった。


「すごくないですか、今の」

「何が」

「何がじゃないでしょう。あのダリオ副官ですよ? あの人があんな顔するの、初めて見ました」

「偶然、今回の条件に合っただけだ」

「でも合ったんですよね」

「そうだな」

「しかもちゃんと被害軽微で帰ってきた」

「そうだな」

「……もしかして、最初からそこまで」

「違う」


 間髪入れずに否定したのだが、ミーナはなぜか目を輝かせた。


「そういうところですよね」

「どういうところだ」

「多くを語らないところです」

「語るほどのことがないだけだ」

「またまた」


 何がまたまたなのか。


 レオンは本格的に嫌な予感がしてきた。噂というのは、事実と無関係なところから生えるのではない。事実のそばにある、ちょっと収まりのいい解釈から生えるのだ。そして今、目の前でその芽が育ち始めている。


 その夜は、結局いつもより少し遅いくらいで済んだ。済んだのだが、補給局の奥で交わされる妙に抑えた声や、ミーナが何度もこちらを見ては何か言いたそうにする様子のせいで、レオンは最後まで落ち着かなかった。


 嫌な予感だけを連れて帰り、翌朝、補給局へ入った瞬間だった。


「レオンさん」


 本人より先に声が飛んできた。ミーナだ。今日は朝から妙に機嫌がいい。


「辺境伯家から伝令、来てます」


 その一言で、レオンは踵を返したくなった。


 だが当然、できなかった。


 戸口には黒い外套の端に家紋刺繍をつけた伝令が立っていた。補給局には似合わないほどきちんとした姿勢の男だった。


「ラドゥーン補給局、下級書記官レオン・アークリット殿」

「……はい」

「辺境伯家より、臨時会議へのご出頭を願います」

「本日、ですか」

「ただちに」


 補給局の空気が、一斉にこちらを見る空気に変わった。


 ミーナが口元を押さえ、年かさ事務官が「おお」とだけ言い、レオンは一瞬、本気で自分の背後を振り返りそうになった。自分以外に同名の誰かが立っていてほしかった。


「理由をうかがっても?」

「昨夜の巡回任務に関するご説明を、とのことです」


 ああ、最悪だ。


 レオンは、今しがた置いた帳簿と、やっと始まったはずの朝と、これから確実に悪化していく一日を見た。


 それから静かに息を吐いた。


「……承知しました」


 感じよく答えるのも、よくなかった。だが今さら無愛想にして状況が軽くなるとも思えない。


 伝令はもう一度だけ丁寧に頭を下げた。


 その背後で、ミーナが小さな、しかし致命的に弾んだ声で呟いた。


「やっぱり……」


 何がやっぱりなのか、聞き返す元気はなかった。


 レオンは心の底から思った。


 辺境勤務は、もっと楽なはずだった。

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