第23話 幾久しく宜しくお願い申し上げます
ぬくぬくとした日だまりの中にいるような、穏やかな場所。目の前には一つの扉。
「ここは?」
扉の向こうで、なにか声がする。それは自分を呼ぶ、知っている人の声だ。その中に困っているかのような声音の、良く知っている男の声。
「あの、声は……」
不思議な事にその男の姿は、はっきりと思い浮かべられる。あのコーヒーの苦い味が口の中に蘇る。だが、名前が出てこない。
ふと後ろを振り返る。後ろにあるのは、あの美しい銀色の色と虹色に輝く葉をそよがせているユグドラシル。そこに立つヌシ様の後ろ姿。そして、村の風景。自分にとっては古民家のような家並み。金色の穂を靡かせる水田。アケビをとったあの村外れ。
ふわっと心が軽くなるのを感じ、自分が今、どこに立っているのかをしっかりと理解する。それならば、この先どうするのかは決まっている。唇を引き結びギュッと手を握ると、扉に背を向ける。
いいのか。
そんな言葉が聞こえた気がしたが、気にしなかった。自分でこの先は選択をするのだ。
目を開けると、いつの間にか見慣れた天井だった。
「あれ」
上半身を起こすと、与えられた自分の部屋にいていつもの布団で寝ていた。
「お気がつかれましたか」
女官が側にいて声をかけてきた。
「はい。あれ、私、村の社にいたはずですけれど」
「ご一緒に行動されていた男が、御内室をお連れくださいました」
「セイジュさんが」
そんな話をしながら、用意してもらった水を飲む。すっとお粥の入った器の乗ったお盆が差し出された。
「御内室は三日ほどお眠りになられたままでした。もし食欲があるようでしたらお召し上がりくださいませ」
廊下側からドタドタと誰かが走ってくる音がする。乱暴に襖が開けられた。灯里が目覚めたのを精霊が伝えに行き、すぐに駆け込んできたようだ。
「主様。お行儀が悪すぎまする」
女官にピシャリと言われて、一瞬ひるんだヌシ様だったが、起き上がっておかゆを食べている灯里を見て、ほっとした表情を浮かべた。その姿からは、おかしなところは見られない。一応身体のチェックは女官にさせてあり、表面上、問題はないと知ってはいた。それでも目を覚ましたと聞いて駆けつけてきたのだろう。
「体調はどうだ」
慮るように自分の顔色を伺うようなヌシ様を見て、この人はこういう人だなとしみじみと思った。でも、どんな時でも麗しきご尊顔だよな、とも。お粥が美味しい。
「どうも、ご心配おかけしました。もう大丈夫ですよ」
ヌシ様に、ヘラっと笑ってみせる。眉を寄せ、不安げなヌシ様の表情に、ちょっといたずらっぽく灯里は自分から言ってみた。
「お寿司とビールはちゃんと覚えています。用意してくださいね。あとは、ここに来てからのことは覚えていますよ。ちょっと忘れたこともあるみたいですけど、今のところ大したことはないと思います」
記憶に関しては、ここでの事を忘れていない限り、すぐにどうということはないとだろう。何を忘れているのかまだわからないが、この先もし困ったらその時に考えようと思うぐらいだ。あの男の名前ぐらい忘れていたって、問題はないじゃないか。そんな風に割り切れる事の不自然さを、灯里自身はまったく感じていない。だから取り敢えず様子見ですねと、サバサバしている。
「君は……」
その声は小さすぎたのだろう。何かヌシ様が言いかけたのに気づかずに、灯里は質問をしてしまう。
「そうだ、ヌシ様。ユウナは、村はどうなりました?」
彼女にとっては一番の気がかりだ。時間がかかればかかるほど、ユウナは侵食を受けた影響が強くなるという話だったから。ヌシ様はどかりとその場で胡座を組んだ。
「ああ。対処が早めに済んだからな。ユウナは機織り機を打ち壊した日以前、五日ほどの記憶がない。その程度ですんだようだ」
ムカデの毒に当てられて変質した部分を切り離した結果、そういうことになったのだという。この措置は一斉デプロイが済んだ後でなければできなかったのだ。すでに彼女はウギョウの家へ帰っているとも教えてくれた。
「そうですか。そのぐらいで済んで良かった」
下手をすれば、彼女はもう二度と機織りができなくなる可能性だってあったのだ。ほっと胸を撫で下ろす灯里を見て、ふっとヌシ様が愛おしげに見つめる。彼が何かを言おうとしたのだが、灯里の言葉で口を閉ざす。
「そうだ。あのですね。夢を見ました」
その言葉にヌシ様は笑顔から真剣な顔に戻る。
「君は。存在が曖昧になっていた時間があった。帰るチャンスがあったんじゃないのか……」
「はい、多分。そうだったんだと思います」
はあっと大きな息を吐いたヌシ様は、なんとも言えない顔をして視線をそらした。
「なぜ、戻ってきたんだ」
そう問うと、灯里は満面の笑みを浮かべる。
「いや、だって、仕事を中途半端なままで放り出すのは嫌ですもの」
その言葉に、ヌシ様は唖然として間が空いた。それから呆れたようにヌシ様が息を吐く。元の世界にだって取り残してきていることは沢山あるだろうに、なんて事を彼は口にしない。自分の中の押さえきれない感情を持て余して、ぐっと口を引き結ぶ。
「分かった。これからもよろしく頼む」
そう言って右手を差し出した。いつか彼女が元いた場所への手がかりを掴めるようになるかも知れない。だけど、そうなっても手放したくはないな、そんなことを思いながら。




