第22話
灯里とセイジュは、薄い膜のようなものが自身を通り抜けていったのを感じた。歪みは本来ならば、境内には入れない。だから、彼女が入ることができる道を開き、空間を作り出していた。その空間が閉じていき、銀色の箱を覆う。しばらく呆けていた二人の足元に、小さな小鬼が来る。
『なんて無茶をする。本殿の奥に予備の布地があるはずだ。それで止血したまえ。灯里君、次の段階だ。村人の休止状態のために、本殿奥のトグルスイッチをOFFにしてほしい』
言われてはじめて、左手からジンジンと痛みを感じた灯里は、自分の左掌を見た。心配そうに見上げてくる小鬼に頷く。
「セイジュさん。そうね、拝殿の階段にでも座って待っていて。この先は私の仕事だから」
「いや、でも手当を。それに何か手伝えることはないですか」
少しよろめいた灯里を支え、セイジュは言葉をかける。
「平気よ。軽く切っただけだから。一人でも止血できるから。大した時間はかからない。あなたはここで待っていて。そうね、上手くいくように祈っていて」
朗らかにそう言って、彼を階段に腰掛けさせる。休止状態をかけた時にどういう状態になるか分からなかったから、下手に本殿内に入れるわけにはいかない。
(ユウナをもとに戻すためにはできるだけ早く対処しないと)
マルウェアに侵食されたユウナは女官によって封印されている。だが、いつまでもそのままで大丈夫なわけではない。
「元に戻すのは、早い方が良い。一応進行は止める形にはなっているが、このままだとユウナという存在があやふやになる」
ここに来る前に、そうヌシ様に言われているのだ。それにもう一つ言われたことがある。
「村への一斉デプロイについてだが、申し訳ないが今の状況だと全トラフィックが君を経由することになる。通り道としての帯域を君の神経系で確保することになってしまう。そのため想像を絶する負荷がかかる。一応補助として、中継器を作ったが、パッチを配るための回路という役割の中心は君になる」
村人全員分のデータが流れ込むために、精神的にも肉体的にも負荷が凄まじいと聞いているのだ。だが、それでも躊躇う気なんて灯里にはなかった。というよりも、どのようなものか実感が無かったという方が正しいだろう。
(平気、平気。美味しいご飯を毎日食べていたし、こっちに来てからの仕事だって余裕をもってしていたから、体も心も万全よ)
ケホッと咳が出た。予備の布地を見つけるとそれで左手を巻く。ジンジンと痛む左手だが、布を巻いただけでも落ち着いてきた気がする。すぐ脇では小鬼が見張っていて、そのままにしておくのを許さなかったからだ。それから前もって教えてもらった本殿奥に御神体として金属製の四角い箱があるところへ移動する。
深呼吸を一つ。
「ヌシ様。これが終わったらお寿司が食べたいです。打ち上げはお寿司とビールでお願いします」
突然、真面目な声で灯里がそんな事を言いだしたので、小鬼は少しびっくりしたように一歩下がってしまった。
「灯里君……。分かった。食事番にとびきりのネタで用意させる。俺も随分長い間、寿司を食べてないから楽しみだ」
少し間があって、ヌシ様からの返答が返ってきた。
「はい。美味しいネタを期待してますよ。絶対に忘れませんからね」
小鬼が灯里に近づき、小さな体でその足元にぎゅっとしがみついた。まるで僕がいるから、問題ないだと励ましているかのようだ。灯里はそんな小鬼の頭を撫でた。
眼の前にある四角い箱をずらして、その床板を外すと掌大の黒いスイッチが現れる。
「これが、そのトグルスイッチってやつなんですよね」
小鬼に確認してからスイッチを思いっきり押す。何か空間が歪んだような重圧が身体にかかり、キィンっと空気が軋んだ気がした。
『支障はないか? 一斉デプロイについては多少の時間を置いても問題はないぞ』
小鬼は灯里の傷を心配そうに見ている。少し、布に血が滲んでいるからだろう。
「準備完了です。掌の傷は浅いですから。では箱を戻して私はそこに腰掛けていますから、ヌシ様は次の手順をお願いします。早くお寿司が食べたいですし」
元気だというようにサムズアップをしてみせる。御神体を元に戻してその上に座る。
(なんか、罰当たりな感じがしなくもないけれど、そういうものだから仕方がないわよね)
小鬼は灯里の様子を確認してから外へ出た。階段のところに座っていたはずのセイジュは、社に向って祈るような姿勢のままで静止している。彼の祈りは届くだろうか。今、この村で動いているのは灯里と小鬼だけだった。
小鬼はセイジュの方を一瞥すると、ヒョイッヒョイッと建物を手がかりに飛び上がり、本殿の大棟に上がっていく。屋根から周囲を見渡すと、頭上の角が鋭く光った。
奥座敷のさらに奥、春の野ではスクリーンを介して、小鬼の見ている光景をヌシ様が眺めていた。彼が築き上げている世界がそこには広がっている。ほんの僅かな間、それを見つめた。ユグドラシルの表面に浮かぶExecuteのスイッチに手をかけた。その瞬間、彼の脳裏に青白いモニターの前であと一打が届かなかった自分の姿が重なる。
「今度は……間に合わせる」
キーボードを叩くような、乾いた確信に満ちた音を立てて、彼はスイッチを押し込んだ。
灯里の身体が輝く。その体を通じて、村の歴史、村人たちの記憶、感情がログとなって濁流のごとく駆け抜けた。膨大な情報が彼女の神経系を通り抜けて、脳が焼き切れるかのような高負荷に意識が白濁する。
細胞の一つ一つがまるで電気信号になったかのように書き換えられていくような、自分自身の境界線が曖昧になるような感覚に陥った。体の末端部分の感覚が失われ、身体は小さなブロックの集合体のようだ。
音ともとれない音の共鳴、匂いとも感じられない匂いの集合体などがデータとして身体を駆け巡る。光がデジタル信号のように離散的に感じられる。通り抜ける村人たちの記憶によって、自分自身が上書きされるような圧力が体にかかる。
その濁流に混じり、灯里自身の記憶もフラッシュバックのように脳裏を掠めた。拓馬のために、ただ消費されるだけの資料作りに追われた空虚な日々。だが、そこに執着は感じられなかった。
ウギョウの家で食べた朝御飯、再会した時に抱きついてきたユウナの温もり、セイジュと取ったアケビの美しい紫色の実、最初に会った隈が濃いヌシ様の尊顔、アケビを嬉しそうに食べていたヌシ様、あのガゼボの紅茶の香り、白磁のティーカップをもつ大きな手。ユグドラシルを見つめるあの横顔……。
忘れたくない、忘れるものか。大切なものを、手放すなんてするものか。流れ込む膨大な記憶の激流の中で、灯里は、灯里という自分を繋ぎ止める記憶を奪われまいと、手放なすまいとかき集めて自分のフォルダーの中に仕舞い込んでいく。
子供の頃、必死に追ったオニヤンマを追いかけたように、大きな捕虫網を広げて離れていこうとする記憶を捕まえていく。ギンヤンマの如く素早く、何かが遠くに行った気もした。それは真っ白な光の流れの中に飛んでいって滲んで見えなくなった。今この瞬間、大切なものたちを手離さないためなら、その程度の代償など仕方がない。
灯里から発せられた光の束は、本殿の屋根に座す小鬼を中継点とし、七色の波紋となって村全域へと波及していった。虹色の光の粒が天気雨のように降り注ぎ、人々の精神に潜むノイズを次々と洗い流していく。
セイジュは祈りながら御扉が開くのを待っていた。小鬼と中に入ったまま、いまだ灯里は出てこない。ずいぶん時間が経った気がするが、御扉は閉ざされたままだ。彼は自分では停止していたことを認識はしていないが、世界が重くなった事、何か光の濁流がこの社から駆け抜けていったことを感覚的に覚えていた。なにかがあったのはわかる。だからこそ段々と心配が募る。すぐ終わると彼女は言っていなかったか。
「アカリさん、入りますよ」
そう断ってから御扉を開けると、本殿の中に灯里が倒れていた。顔色は真っ青だが息はある。左手の布地は血に濡れていた。慌てて室内を探し、左手に新たな布を巻きなおす。それから見つけた紐を帯代わりにして灯里を背負い、自身の体に結びつける。
村の空は青く晴れ渡り、穏やかな日差しがさしていた。さわやかな風がふうわりとそよぐ。その中を走る。
何があったのかは全くわからない。背中の灯里の体温の低さに不安は増すばかりだ。早く、灯里を届けなくてはならないという一心で、彼はヌシ様の社へ至る境界部へ向けて急ぐ。




