第1話 お別れは突然に
壁の時計は三時を示している。モニターから溢れ出す青白い光だけが、その一角を浮かび上がらせている。画面を埋め尽くす赤いエラーログは、男が三日間一睡もせずに、書き上げたロジックだ。ここだ。一文字、配列を間違えている。修正しようと伸ばした指が、キーボードに触れる直前で硬直した。
「完了、させな、きゃ……」
ふうっと口から息が漏れ、心臓の鼓動が途絶える。男の意識が喪せて、身体が支えを失う。サイドテーブルにあったマグカップが転がり、中にあったコーヒーが周囲を黒く染めた。その瞬間、誰も居ないはずの部屋で風が渦巻いた。
「どうしたの、急に。仕事の方は、部署が替わって忙しいって」
香り高いコーヒーの湯気越しに、灯里は問いかけた。
「ああ、悪い。話ときたいことがあって」
遅れてきた拓馬は灯里の向かいの席に腰掛けると、入れ替わるようにウエイトレスがやってきて注文を取っていく。
「あ、そうだ。先に頼んであった資料、もらえるかな」
思い出したように言われて、灯里は鞄の中から厚みのある封筒を取り出した。
「はい、これ」
拓馬はクラフト封筒内の書類を取り出し、パラパラと確認する。
「君のまとめ方は、僕の考え方を補強するのに合っている」
と安堵の笑みを漏らす。その笑顔に灯里の胸が温かくなる。徹夜で資料をまとめた甲斐があったというものだ。だが、書類を鞄に仕舞った拓馬は、ふいっと表情をなくして改めて向き直った。
「あのさ、きっと耳に入るから言っておく。俺、受付の橘さんと付き合う事になった。彼女に告白されたんだ」
「えっ」
橘さんといえば、社内一の美貌で有名な受付嬢だ。一瞬、頭の中が真っ白になる。
「ごめん、別れよう。君には俺より、もっとふさわしい人が現れると思う。あ、それからこの資料のデータ、あとでメールで送っておいて」
灯里が絶句している間に常套句を口にして、拓馬はそそくさと店を出ていってしまった。テーブルには、彼の注文した手付かずのコーヒーと伝票だけが残された。
冷めきったコーヒーを見つめる。油膜が浮き、泥のように黒く香りはすでに失せている。それを飲み干すと、底に苦い粉が沈殿したかのような苦みだけが口の中に残った。
「なにが『君にも相応しい人』、よ! 」
銀行で金を下ろし、回らない寿司屋に入り、飲み屋を数軒はしごした。彼はホープとして営業部から経営戦略部へと抜擢されたばかりだ。このところ「資料をまとめて欲しい」というメールばかりが届いていたが、忙しいのだと自分を納得させていた。それが、都合よく散々利用されていた挙げ句の別れ話。これが酔わずにいられようか、そんな気分だったのだ。
いささか酔いが回りすぎたのか、足元がふらついてなにかに躓いて転んだ。膝を打った痛みで声が出ず、じわりと涙が滲む。ぐっと奥歯を噛み締める。今まで積み上げていたものは一体何だったんだろう。自分の仕事に直接関係のないデータ解析や収集方法を覚えたのだって、彼のためだった。結婚という言葉に踊らされていただけの自分がたまらなく情けなかった。
妙な感覚に突然囚われた。それに引かれてふと顔を上げると、視界の端に空に巨大な真円が浮かんでいる。黒曜石のように暗いなかにどこか透き通った様な黒い穴。その縁には、紋様を描くかのような光が点滅している。円の奥には光の模様は、よくよく見ると0とか1の羅列が、熱に浮かされたように歪みながら蠢いていた。
「なに、これ」
暗い円の黒が蠢き、何本もの黒い索条のようなものが、まるで獲物を求めるヒルのようにゆらゆらと先端を揺らし、地を這ってくる。目の前の出来事に体がうまく反応できずに動けないでいると、それらはするりと伸びて灯里の体にまとわりついてくる。紐を通じて何かを読み取られていくような不快感が走り、同時に何かが書き込まれるような感覚に怖気が立つ。電源コードか加熱した基盤が焼け焦げたものに甘さが加わったかのような、奇妙な匂いが鼻を突いた。
気がつけば、あの黒円もまとわりつく紐も消失していた。酔って幻覚でもみたのだろうか。立ち上がって辺りを見回すが、公園かどこかに迷い込んだのか、周辺には木々が立ち並んでいるばかりだ。街灯はなく、月明かりだけが地面を照らしている。
「帰らなきゃ。でも、ここはどこだろう」
まだ酔いが回っているらしく少しぼうっとしながら、月明かりを頼りに林の中の一本道を歩く。現実的でない出来事だったけれど、先程のあれはきっと夢でも見ていのだろうと思わなくもない。
(こんなところ、近所にあったかしら。記憶が少し飛んでいる?)
言い知れぬ不安はあったが口にはしない。歩けばどこか街中に出るはずだと自分に言い聞かせながら歩く。ようやっと集落らしき場所に出た。家々は古めかしい日本民家のように見える。灯里は鞄の中を探ったが、スマートフォンがない。どうやらどこかで落としたようだ。
(困った。マップで現在地を調べようと思ったのに。どこにも連絡ができない)
周囲を見回しても駅らしき建物も見当たらない。酔いで気が大きくなっていたのか、彼女は手近な一軒の門を叩いた。
「すみません、夜分遅くに。どこか近所に泊まれるところをご存知ありませんか? 」
いつもの彼女だったらしなかったであろう不躾な真似だったが、得体の知れない不安から逃れるために、誰かと話したかったのかも知れない。
「はい」
玄関先に現れたのは、綺麗な若い女性だった。少し目が赤いのは、泣いていたのだろうか。
「あの、道に迷ってしまいまして…… 」
女性は灯里をじっと見つめ、やがて口を開いた。
「うちに泊まっていただいても結構ですよ。なんのお構いもできませんが」
灯里が目を覚ました時、見知らぬ天井が目に入った。
「え、ここ、どこ」
昨日の記憶が蘇り頭を抱えたところへ、障子戸を開けて昨夜の娘が声をかけてくれた。
案内された座敷には、娘の両親が待っていた。
「朝餉の用意ができていますから、どうぞ」
爽やかな笑顔の娘と、穏やかな夫婦。灯里はその場に平伏した。
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました!」
一瞬、静まり返ったが、父親が柔らかな声で応じた。
「なに、困った時はお互い様です。そんなに鯱張らずに。気にせんでいいですよ」
「たいしたものはありませんが、どうぞ召し上がって下さい」
温かいご飯とお味噌汁、卵焼きとお新香。彼女にとって人と一緒に食べる朝食は久しぶりだった。膳を囲み、畳敷きの和室で座布団に座って食べる。目の前の三人の装いは着物とは少し違うが、洋装でもない。父親が着ているのは作務衣ように見えた。灯里は食後のお茶を飲み、落ち着いたところで切り出した。
「あの、ここはどのあたりなのでしょうか。近くに駅はありますか?」
父親は不思議そうに首を傾げる。
「えき、とは何でしょうか」
「電車の駅です。バス停でもいいのですが」
三人は顔を見合わせた。
「……そう考えると、貴方は迷い人だと思われますな」
「迷い人……」
神隠しか、あるいは異世界転移か。魔法陣に呼ばれた記憶はないけれど。唖然とする灯里に、父親は静かに告げた。
「村長の所に届け出なければなりますまい」




