第五、 雪の郷、胡原の香(こげんのか)
北の果て、寒州に左遷された玲衡は、
氷のような地で“民を救う理”をもう一度探そうとしていた。
そこに現れたのは、胡原――アラビアの理を伝える商人サヒル。
彼が持ち込んだ砂の香りは、玲衡の心の氷を少しずつ溶かしていく。
「砂の上に書く理は、消えても残る。」
「ならば、私の理も風に乗せましょう。」
――冷たい雪原に、理の花がひとつ咲く。
寒州――璃国の北端、白い風が吹き荒れる地。
玲衡は、薄氷を踏みながら新しい任地へ向かっていた。
庁舎と呼ぶにはあまりに粗末な木屋。
机も筆もなく、あるのは冷たい石と凍った井戸だけ。
「ここが……理を封じた国の果て、ですか。」
玲衡は空を見上げ、息を吐いた。
吐いた息が白く昇り、光の粒になって消える。
庁の者はほとんど逃げ出し、残るのは数人の村民のみ。
そのうちの一人、若い娘が近づいた。
「お役人様? ……手、冷たいでしょ」
「構いません。氷が溶けるには、熱が要りますから。」
玲衡は寝ずに働いた。
井戸を掘り直し、古い管に鉄を通して温泉を導き、
夜には火炉を改良して蒸気で部屋を暖める。
「理とは、民を救うためにある」
その言葉だけが、夜ごと灯の代わりだった。
ある日、吹雪の中を誰かが叩いた。
雪の中に、サヒル(薩緋琉)の姿があった。
「……どうしてここに。」
「香を売りに来たと言えば、通してもらえました。」
懐から取り出した小さな壺。
中には胡原の砂が少し入っていた。
「砂?」
「アラビアの地では、砂は時間の器です。
風が通るたび、音もなく過ぎる。
だから私たちは、砂の上に理を書くんです。」
「……書いても、すぐに消えるのでは?」
「ええ。だからこそ、何度でも書ける。」
玲衡は静かに笑った。
「あなた方の理は、潔いのですね。」
「あなたの理は、強すぎる。
でも、それもまた、美しい。」
二人の間に、炉の炎が揺れた。
サヒルが壺を置く。
「この砂を火炉に混ぜると、煙が柔らかくなる。
香りが、風を遠くまで運ぶ。」
玲衡は頷き、壺の砂を火に投じた。
ふわりと白煙が立ち、花のような香りが広がる。
寒州の氷が、ほんの少し溶けた気がした。
「玲衡殿。風はあなたを捨ててはいませんよ。」
「……風が戻るなら、理も息を吹き返しますね。」
夜。
雪原の上に、蒸気が立ちのぼる。
村の子どもたちがその中で笑っていた。
玲衡は筆を取り、紙に書く。
『理は、冷たきものにあらず。
冷たきものを溶かすものなり。』
その筆跡を、サヒルは静かに見つめていた。




