第三、算木と筆のあいだで
翌朝の文理庁は、空気が張り詰めていた。
玲衡が提出した「市場均定法案」が、議題に上がる。
この法案は、胡原の“量る理”を取り入れた新しい税制だった。
天文盤で測った季節の推移、算木で計算した人口と収穫。
それらを基に課税を調整し、民の飢えを防ぐ――
理に裏打ちされた政策。だが、文徳派には「冷たい算術」と映った。
「民の腹は数字で満たされぬ!」
老宰輔・霜遼が、木杖を叩く。
「理を立てれば、情が死ぬ。民は理ではなく、恩で生きるのだ。」
玲衡は静かに立ち上がった。
「理と情は対ではありません。
理のない恩は、気まぐれです。
情のない理は、虐げです。
——両方あってこそ、国が呼吸します。」
ざわめきが走る。
霜遼は目を細めた。
「理に情を混ぜるとは、危うい娘だ。」
「ならば、私はその危うさで国を温めます。」
会議後、玲衡は庁舎の裏庭で一人座っていた。
石畳の上に散る木の葉。
指先に残る墨の匂いが、まだ冷たい。
「火と氷で、国を造ろうとしている顔ですね。」
背後から聞き慣れた声。サヒルがいた。
庁舎の護衛が怪訝そうに睨むが、玲衡が手で制した。
「どうしてここに?」
「商談です。庁舎に香を納めたいと。」
「香を……?」
「香りは記憶を操る。理を学ぶ場には向いています。」
玲衡は小さく笑った。
「あなたの理は、風のように入り込むのですね。」
「風は、閉め出されても入り込むものです。
壁があるほど、吹きたくなる。」
二人のあいだに、風が通り抜ける。
玲衡の袖が揺れ、サヒルの瞳に映る。
その瞳は、砂漠の夜のように深い。
「……あなたの国では、法は誰が定めるのです?」
玲衡が尋ねた。
「神です。」
「神? 人ではなく?」
「人が神を真似て定めるのです。
だからこそ、理が要る。神は沈黙するから。」
玲衡は筆を握りしめた。
「沈黙の神に代わって、人が理を書く……。」
「そう。あなたがしていることは、祈りに近い。」
庁の鐘が鳴った。
呼び戻される玲衡を、サヒルは目で追う。
「風がまた変わりますよ。気をつけて。」
玲衡は振り返らずに答えた。
「変わらなければ、腐るだけです。」
その夜。
玲衡の机に置かれた一枚の匿名書簡。
封を切ると、そこには一行。
「胡原の商人と癒着。女官の理は、風に乗って国を売る。」
墨がにじむほど、彼女はその紙を見つめた。
心の奥に、冷たいものが沈む。
理と風、その間にあるはずの筆が、少しだけ震えた。




