第一、筆と算木の朝
朝靄の降りる都、環京。
青灰の瓦が霞を吸い、まだ目覚めきらぬ街が息をひそめていた。
鐘が三度鳴る。文理庁――璃国ではじめて文官と理官を一つに置く新庁――の門が、静かに開いた。
廊下の奥、墨と油の香りが混ざる部屋で、玲衡は筆を整えていた。
黒髪を結い上げた横顔は涼やかで、余計な飾りを許さない。
机の上には、筆と算木(そろばんの原型)が並ぶ。
それは彼女にとっての“理と文”の象徴だった。
「新しい庁舎の匂いですね。少し落ち着かないです」
隣で帳簿を運んでいた庶務官の汀が、肩をすくめた。
彼女は庶民出で、言葉が少しくだけている。
玲衡は小さく頷いた。
「理を扱う場所に、香の匂いは合わない気がします。けれど……綺麗ですね」
「珍しいですね。褒めるなんて」
「え?」
「いつも“効率的です”しか言わないじゃないですか」
玲衡は目を瞬かせて、ふっと笑った。
「香りにも理があります。人を和らげる効果は、計算できますから」
廊下の外では、他の文官たちの声が聞こえる。
「女官が理を扱うだと?」「異端者を庁に置くとは……」
玲衡の手は止まらない。筆先が静かに紙を走る。
「文も理も、選ぶものではなく、学ぶものです」
その声音は柔らかく、それでいて動じない。
汀は彼女を横目で見て、少しだけ笑った。
「玲衡様、ほんと変わってますね」
「そうでしょうか」
「普通は、あんなこと言われたら落ち込みますよ」
「……落ち込んでる暇があれば、理を磨きたいです」
文理庁は今日、正式に開庁する。
玲衡が任されたのは、その中の新部署――改正掛。
古い法や税を見直し、民の生活を安定させるのが目的だ。
しかし庁の上層部は保守的で、「理は人を冷やす」と警戒していた。
初会議が始まる。
文徳派の老宰輔・霜遼が壇上に立ち、言葉を放つ。
「理は数、文は情。我が国を支えるは文である。理に支配されれば、民の心は凍る。」
沈黙。
玲衡はゆっくりと立ち上がった。
「理は、人を冷やすためのものではありません。火を使えば手を温められるように、理も正しく使えば、人を救えます。」
ざわめきが広がる。
霜遼は目を細め、微笑とも冷笑ともつかぬ表情を浮かべた。
「ほう……火を使う女官か。燃えすぎぬよう、気をつけることだ。」
会議が終わると、汀が小声で言った。
「ちょっと怖かったですね」
「理は、時々怖がられるものです。見えないから」
「玲衡様は、見えてるんですか? 理ってやつが」
玲衡は少し考えて、窓の外を見た。
「……いいえ。まだ輪郭しか。けれど、見えないものほど、確かにあると思うんです」
午後、庁舎の庭を通る風が、帳を揺らした。
ふと、玲衡は南の空を見上げる。
遠くの市場で、異国の商人たちが天文盤を広げているのが見えた。
胡原――西の地から来た理器の民。
風に乗って、異国の香料の匂いが届く。
それが、この国の理に新しい息を吹き込むとは、まだ誰も知らない。
玲衡は胸の奥で、小さく呟いた。
「理は、風に似ている……閉じれば、淀むだけ。」
そして、筆を取った。
改正掛、第一報告書。題名――『理道開章』。
彼女の静かな闘いが、ここから始まった。




