――ロナの祈り
「――ロナ」
静かに語りかけてくるカインの声に、すぐに振り返りたい思いを抑えこんで、まっすぐに誰もいない正面を見据える。
決意したのに。私が望むことは、ただ一つのはずなのに。
それなのに、彼の声を聞くだけで揺らぐ。結局は私も、そこらにいる女でしかないのだろうか。
――幸せになってほしかった。
カインと縁付くことが出来れば、彼女は文字通り、この村の一員となる。多少の摩擦は起こるだろうけれど、私という存在と、カインの立場とを合わせれば、この村で生きるためには充分な後ろ盾になる、はずだった。
それが最良だと、私は信じた。私は願った。
――ほんとうに?
私が願うのは、彼女の幸せ。
それだけの、はず、なのに。
「ロナ」
ぐ、と、肩に手を置かれて力づくで振り返らせられる。
驚いてみれば、どこか怒ったような、今までみたことないほどに真剣な表情のカインが、いて。
「……なによ、ミーオを行かせてしまったくせに」
唇からこぼれるのは、どこか弱々しい憎まれ口でしか、なくて。
視線も合わせられず、そっと、そらすことしか出来なかった。
「ああ、それが彼女の幸せだと思ったからな」
淡々と紡がれる言葉に、カッと頭に血が上る。幸せ? あの森でひとりで生きることが? この閉鎖的な場所で、ひとりで生きることが、周囲に組み込まれないことがどれほど大変なことか、カインにだってわかるはず。それなのにそれを幸せだというの?
「――そんなわけ、ないじゃない!」
肩に触れていた手を振り払う。そんなわけがない。村の一員として、ひとりの女性として幸せになってほしかった。それが、そう、それが最善だと思っていた。
「そんなわけ、あるだろう。彼女は、この村では、生きられない。彼女自身が、それを望まない。彼女は、俺の妻となっても幸せになれない。彼女にはレイルがいて、そして――」
まっすぐな、カインの視線。熱を伴う、その視線を、今まで、これまで、どれほどに求めただろう。諦めた途端に向けられて、けれどそれでもどこか心の奥で嬉しいと思う自分の愚かさに、苦しくなる。
いつも彼をみていた。
けれど、彼は私に優しかったけれど、私を見てはくれなかった。
だから、諦めた。諦めなければならない、と、そう思ったのに。
聞いてはいけない。
聞きたい。
聞きたくない。
聞かせて。
聞かせないで。
その先の言葉への期待と、けれどそれを聞きたくないと思うこころと、その両方が胸の中で渦巻く。
真っ直ぐな視線。逃れようとすれば、逃さないとばかりに引き寄せられ、視線を合わせられる。
「ロナ。俺は、君を愛してる」
まっすぐに向けられたその言葉を、素直に信じることができたならば。
喜びに打ち震える胸の中に、けれど彼のいままでの行動や、振り向いてもらえなかった時に流した涙が、浮かんでは消える。
「……信じられないの」
ぽつり、と、こぼした言葉に、カインは切なそうにけれど、柔らかに笑った。
「信じてもらえるように、頑張るだけだ」
「――バカ。カインは、本当は、馬鹿なんでしょうっ」
たまらなくて、そう小さく叫ぶ。振り払おうとした体は、更に強く抱きしめられて。
低く笑う、カインの声が、触れ合った体を通して、伝わってくる。
「ああ、そうだな。俺は、ほんとに馬鹿だ」
ずっと、そばにいてくれたのに、と。
囁かれた言葉は、かすれていて。僅かに震える彼の体に気づいてしまえば、もう逃れようなんて思えなくて。
――それでも、すぐには信じられないから。
――ずっと、見ていただけの相手。求めて決められていても、そばにいても手が届かないと思っていた相手。
大きく息を吸う。そして、そっと、カインの体をおして隙間を作る。
そして、見上げる。切なく眉を寄せ、どこかへたりと眉をたれさせた、情けない顔のカインに、微笑む。そう、私の出来る、最大限の笑顔を浮かべて、挑戦的に彼をみつめる。
「――信じて欲しいのなら、結果を出して頂戴。私は、ひとりでも生きていけるようにやっていってみせるわ。ミーオに負けられないから」
驚いたようなカインの表情が、やがて、困ったようなけれど優しい笑顔に変わる。
「ああ。――必ず」
それは決められたことだと思ってた。
幼い頃から近くにいて、一緒になるのだと言い聞かされて。
私はそれを、何も疑わず、まっすぐに彼を思い慕い続けてきた。
ひとりの娘として。
彼の妻となる人間として。
だけど、そう、けれど。
私はその前に、ひとりの人間で、この村の長の娘で、私に出来ること、私にしか出来ることがあるのだと、知ってしまったから。
ただ、彼の愛を待つだけの存在に、彼に愛されることだけを望む存在では、居られないから。
私は、祈る。ただひたすらに、祈る。
――どうか、ミーオが幸せでありますように。
私に、私であることを教えてくれた彼女が、誰よりも幸せであるように、と、ただひたすらに祈る。
祈ることしか出来ない、けれど。
窓の外、遠く広がる青空のすみに、穏やかに光る森が見えて。
私はそっと、まぶたを閉じる。
――素直になって、と。
彼女にかけたその言葉が、自らに返って来ている現状に小さく笑みが浮かぶ。
「カイン」
そっと名を呼ぶ。
視線を上げれば、穏やかな彼の顔。
小さく告げた言葉は、彼の耳にの見届いて。
ふわりと笑む彼の顔に、私は、幸せな気持ちを覚えるのだった。