真実の思い
村の出口まで、二人で歩いた。そう大きな村じゃない。暫く歩くうちに、民家が少なくなり、やがて、出口へとたどり着く。出口といっても、わずかに目印になる大きな石がおいてあるだけの場所だけれど、ここから、街へ行く道と、そして、それを少しそれて森への道がある。
出口で足をとめる。まっすぐにはいくばくかの馬車の後の残る、街への道。そこから視線をずらせば、少し離れたところから向こうに、遠く森が見える。
私は森へ帰る。そのためにいまここにいるのだけれど、彼はどうするのか。
「ねえ、あなたはこれからどうするの?」
足を止めた私に、同じように足を止めたレイルに、そう問いかけた。
じ、と、こちらを見る視線を感じる。なんだろう、と、みれば、ふっ、と、彼はわずかに笑い、何も言わずに歩き始めた。
え、と、思いながらも、荷物を持っているのはレイルだ。慌てて後を追う。
数歩小走りに走れば、彼へと追いつく。
歩幅が違う。彼が本気で歩けば、追いつけないほどの、速度のはず。けれど、彼は、私の歩調にあわせてくれている。
――その道は、森への道。
どういうことなのか、と、思いながらも、先を歩く彼の背をみつめる。そして、無意識に手で、そっと胸を抑えた。
心臓がうるさい。もしかして、と、思ってしまう自分がいて、それもなんだか複雑で、混乱する。
ぎゅ、と、ワンピースの胸元を握る。
そう。期待してしまう自分を、戒めながら。
――素直になって。
ロナの声が、聞こえた、気がした。
森の家まで、森の中を半日は歩く。用意した水を飲みながら、道無き道を歩く。――道無き道、に、見えるけれど、本当は少しだけ道らしきものがあるのを知っているのは、ごくわずかだろう。
閉鎖された場所、だったこの森が、何故迷いの森と言われるのか、未だにハッキリとしたことは誰も知らない。ただ、微妙に入り組んだ木々や立ち込める霧などで、惑わされやすいなど、様々な要因が入り組んでいるんだろうな、と、想う。
いくつか、ところどころに印がある。これは、カインの事件があったあとに、つけたものだ。――閉ざされていた森を、ひらく。そんな大げさなことではないけれど、少しだけ、ほんの少しだけ、人々とかかわることを決意した証。――この印があったから、否、この印をつけようと思えたからこそ、私はあの時、村を救おうと思えたのだ。そうでなければきっと、関係ないと切り捨てることもしただろう。
――この場所が、私の現実。
それをやっと、今になって、認識できたのかもしれない。
ふ、と、唇に笑みが浮かぶ。どこか苦いその笑みは、諦めを含んでいて。漏らしたため息は、すぅと、森に溶けて消えていった。
――思考の中に逃げたところで、何も変わらないのだと、そんなことはわかっているのだけれど。
それでも。
レイルに、どうして、と、問うことすら出来ない予想以上の臆病さに、そのあまりにもな不甲斐なさに、自分でも呆れるより他はなくて。
森の家までの道。
半日と少しのあいだ。
ただ、無言で足を進めた。
――ふたり、並んで。
「……あわせてくれなくても、いいのに」
森の家が見えてきて、なにか言わなければ、と、妙に焦った口からこぼれたのは、そんな憎まれ口で。違う、ありがとうっていいたいんだ、あわせてくれてるんだね、余計きついんじゃないだろうか、とか、ぐるぐる、ぐるぐると思考が回りまわって、感謝のつもりの言葉は、裏返ってしまった。
「気にするな」
ぽん、と、頭に彼の手が伸びる。大きな手。男の人の手。今までだって、わかってたはずだ。彼が男で、自分より強くて、大きい存在だ、と。その力強さと長身に、家の中のさまざまな場面で助けられてきたんだから。だというのに、だと、いうのに。何故、今あらためて、そのことを私は、レイルが男であるという事実を、ここまで実感しているのだろう。――たかが、頭を撫でられたくらいで。
「――うん」
憎まれ口の裏側の感謝すら、受け止めたかのような彼の返事と。そして、頭に触れる手の温もり――それはすぐに離れてしまったけれど――に、わずかにうつむいて、頷く。
鼓動が早い。顔が熱い。――どうか、バレませんよに、と、ひっそりと心の中で、祈ってみた。
「あー……やっぱり、荒れてるなぁ」
畑を見てつぶやく。かろうじていくつか作物は生き残ってる。飼っていた動物も、扉を開いておいたおかげか、森のものを食べてかろうじて生き延びてる。――数が減ったのは仕方がない。ここは守られている場所ではあるけれど、それでも、何もかもが平和な場所でもないのだから。
畑を横目に、家の閂を開いて、扉を開ける。
埃っぽい。眉を寄せつつ入り口を完全に開け放ち、中にはいって窓を開けていく。
うっすらと積もったほこりが、風で舞う。光にすけてキラキラと光るそれは、子供の頃にほこりと知らずに見惚れたことを思い出させて、ふ、と、笑みが浮かぶ。何はともあれ、掃除をしなければ。そして、一応食べ物は村から買ってきたものがあるけれど、また、ここで生きていくために整えなければ。
水を汲もうと桶を持ち上げると、すっと、それが横から奪われる。視線を向ければ、レイルがいて。無言でそのまま外に出ていく彼に、あ、と、声をかけようとして、そのまま口をつぐむ。
――どうするんだろう。どうなるんだろう。
願いはひとつだけ。
それを告げれば、すべてはっきりとするというのに。
小さく苦笑して、首を数度ふる。気持ちを切り替えると、掃除へと取り掛かった。
すべてが一日で終わるわけはない。今日はとりあえず、台所と居間のような場所、それに寝室だけ。シーツは入れ物の中に別の新しいのをしまっておいたのが、何とか使えそうだったから、ベッドの上のものはさっくりはがして、洗った。ふわりと洗い終わったシーツは、敢えて紐に釣るさず、香草が群生しているところの上にかぶせる。お日様を浴びてそして香草の香りを吸い込んだシーツは、この上ない幸せな気持ちを、寝るときに与えてくれるから大好き。あとは、台所を片付け、買ってきた食材を整理し、スープを煮込みながらいまの片付けをした。
外も気になるな、と、思ってると、水汲みから戻ったあとまたふらりと外に出ていたレイルが戻ってきていた。
「小屋の修繕をある程度しておいた。戻していいのか」
鶏モドキたちのことだろう。わずかに額に汗をにじませた彼に頷く。
「ええ、お願い」
分かった、と、答えて去っていく彼の背をみて、ため息をつく。
――なにやってるんだろう、私。
頭を振り払い、とにかく目の前の片づけに専念する。
何にせよ、この家を片付けなければ、落ち着かないに違いないのだから。
とりあえずここまで、と、目処を付け、スープの他に肉の香草焼きやサラダ等を作り終えて、パンは村で買ってきたものを揃えて並べていれば、レイルが戻ってきた。
作業の合間に窓から伺えば、彼が庭の整備をあれこれとしてくれていたことがわかる。――何も言わないのに、何もいっていないのに、ごく当たり前の様に、それらをしてくれた彼の行動の意味を、私はどう受け取ればいいのだろう。
――考えすぎよ、と、小さく心の内で誰かがささやく。
並べた料理をみて、僅かに表情を緩めたレイルは、大きな歩幅のどこかゆったりとした足取りで、テーブルまでやってきた。
向い合っていままでの様に座る。いただきます、と、私が手を合わせるのに、彼は何も言わず、静かに瞑目する。それが彼らの食前の祈りだと、私は知っている。――そして、おじいさんも、レイルも、私が全く異なる仕草をしているにもかかわらず、今までなにもいわなかった、という事実も。
ゆっくりと、静かに時は流れる。
僅かに木でできた食器の触れ合う音がするばかり。そう、粗雑な音を立てない食事の様子も、少し考えればいいところの人間だと判断する材料になっただろうに、私は本当に、うかつすぎる。
思わず小さく笑えば、不思議そうなレイルの視線とぶつかる。軽く首を振って、食事を済ませた。
「――また、旅に出る」
静かにそう切りだされたのは、食後の事だった。
片付けを終え、香草茶を手にゆったりと床に敷いたラグのような物の上手くつろいでいた時、ぽつり、と、レイルが呟いた。
蝋燭の灯がゆらゆらと揺れる中、視線をそちらに向ければ、じっと私を見つめるレイルの目。
「そう」
短くそれだけ答えれば、僅かに彼の眉間にしわが寄る。
「――それだけか?」
それだけ? 彼は何を求めているのか。私に何をいわせたいのか。
戸惑いと、不安のままに、じっと彼を見つめ返せば、一度深く、ため息をついた彼が、ゆっくりとこちらへと手を伸ばす。
ゆらり、と、ろうそくの明かりに、影が揺れた。
大きな手が、頬に触れる。そっと、辿るように、確かめるように触れて、するりと髪を撫でて離れる。
目を逸らせない。
ただ、見つめ合う視線の中、高鳴る心臓の音が聞こえないようにと祈ることしかできなくて。
「――ミオ、俺に何を望む?」
静かに、低い声が、柔らかに問いかける。
答えを。真実を。彼は知っている。――彼は求めている。ろうそくの明かりの中、常緑の瞳が、ゆらりと揺れる。そこに見える感情はなんなのか。確信、信頼、情熱――そして、不安。
私が望むもの。
私が望むこと。
それは、たった一つ。
この、見知らぬ誰も頼る人のいなかった、異なる世界で。
この、自分以外が全くの異邦人である、この世界の中で。
私が求めるものは、たった一つ。
――素直になって。
ロナの声が、静かに響く。
「私の、望むことは――」
そっとささやいた声は、薄闇の中に、溶けて消えた。
引き寄せ、抱きしめられる。
触れる熱。伝わる熱。確かにそこにある、生きている存在。
「――必ず」
短く返された言葉に、ほろり、と、涙が頬を伝う。
ほろり、ほろりとこぼれた涙は、次々に溢れて、頬をつたいレイルの胸を濡らす。
ゆっくりと、大きな手が、頭を、背中を、柔らかに撫でてゆく。
――こぼれ落ちた涙は、決別の涙。
そして。
私は、温もりの中、やっと安心する場所を得たような気がして、静かに微笑んだ。
深い深い森の中、小さな家の部屋の中、ふたりきりの空間が、とても愛しくて。
――幸せだと、心から思ったのだった。