森に想う
――そして、今日もリルシャの森に朝日が昇る。
朝起きたら、さっと動きやすいワンピースに着換えて、裏庭に出る。井戸で顔を洗うと、そのまま庭の住みに作ってある小屋にいって、今日の分のたまごを、鶏に良く似た鳥からもらって、エサをあげて掃除をすませる。
いつもなら庭に、ヤギと羊のあいのこみたいな動物といっしょに出して、自由にさせてあげるのだけれど、今日はでかける用事があるから、小屋でお留守番。
なついてくる子達を、撫でて宥めながら、裏庭へ。
香草の中でも、普段使いやすいものを植えてある畑から、今日の朝食用にいくつかつんで、川から引いてある水場で洗ったら朝食の支度。
薪ストーブを起こして、火を焚いて、コンロのようになった部分に、フライパンのような浅い鍋をかけて、卵をオムレツ風にふんわりと焼き上げる。
焼いて保存してあるパンと、オムレツと、香草のサラダ。これにたまにチーズやミルクが付くのが、私の朝食の定番だったりする。
シンプルで、だけれども、自然の恵みがたっぷりで、そして滋養に溢れている。
あの世界のように、やたらに豪華だったりいろんな味だったりはしない、けれども、だからこそ、心のそこからほっとする味、というヤツなのだと、しみじみと想う。
「いただきます」
ほわりと湯気を立てるオムレツに、思わず頬を緩めながら、手を合わせる。
ひとりになっても、挨拶は欠かさない。欠かせない。
これはもう、癖のようなものでもあり。また、こちらに来て、改めて感じた「命をいただく」という言葉の意味の重さのせいでもあったりする。
この手で、育てて。この手で収穫して。この手で、料理していただく。
その過程の重さを知るからの、いただきますであり、だからこその、おいしさ、なのかもしれない。
朝の光が差し込む、静かな部屋の中で、ゆっくり、ゆっくり食事をすすめる。
穏やかなひと時。
そして――幸せな、ひととき。
聞こえるのは、遠くでなく鳥の声ばかり。
朝食を終えたら、食器を片付けて。それから、簡単に家の中を掃除して。
普段なら洗濯するのだけれど、今日はその日じゃない。
ただでさえ辺境らしきこのあたりの、さらに私の住む家は森の中。
出かけるとなると、ほぼ一日仕事となってしまうのだから、しょうがないことなのかもしれない。
昨日までに出来上がったポプリの小袋と、お茶用に小分けした香草と。
それから、久しぶりに焼いた香草入りのクッキー。
それを丁寧に、香りうつりに気を付けて、籠に詰めて。
洗いざらしの普段着のきなり色のワンピースから、少しだけ余所行きの、でも、シンプルな淡いグリーンのワンピースに着替えたら、準備は完了。
今日は、月に1度の、村へいく日。
2年前、おじいさんがなくなるまでは、ほとんど村にいくことはなかった。
半年の間に、1・2回、おじいさんのお供で出かけたくらいだ。
――けれど。
2年前に、おじいさんがなくなってからは、そういうわけにもいかなくて。
森の中で一人、自給自足でいきていけないわけじゃないけれど、小麦や布地、さまざまな道具なんかは、やっぱり不足してしまう。
――本当は。
森のなかから、一歩も出ないで生活したい、と、思わなくもない。
だって。
どうしても私は、この世界では異質なもの、だから。
私の持つ、この髪と目の色は、この世界ではあまりない――ほとんどの人が「今までみたことがない」色、だから。
人は、自分とは異なるものを、初めて目にするものを、恐れる。
どうしても、目を引いてしまうし――本能的な拒絶だって、受けないわけじゃ、ない。
たとえ、村の人達がどれだけ優しくとも――優しくしようとしていたとしても、どこか根っこにあり、そしてそこはかとなく感じる「拒絶」に近い空気を、私は無視することはできなくて。
優しい人達だからこそ、余計に、それを押さえ込んで接してくれる事実が、切なくて。
だから、できる限り、私は森から出ないで生活している。
それでも、服は着て洗えば擦り切れてしまうし、布地はさすがに森ではまかないきれない。裁縫の針や糸だって、森の中に生えてくるわけじゃない。
だから、月に1度は、必ず村へいく。
最低限の、月に一度だけ、村へと、でかけていくのだ。
作ったサシェや、香草茶や薬草を抱えて、村で買い取ってもらっては、必要な物を買い込むのだ。
ひとつ息をついて、気合いをいれる。
そして、ワンピースの上に羽織った上着のフードを目深に被ると、のんびりと村への道へと足を進めた。