――レイルの望み
願ったものがなんだったのか。
欲しかったものが何だったのか。
――その答えを理解する日は、そう遠くないうちに、いつか来るのだろうか。
じり、と、胸の中にせりあがる感情を押さえ込みながら、周囲に指示を飛ばす。
村を開けた日数を思えば、あまりといえばあまりの荒れように、離れねばよかったかと、悔いが胸に迫る。
けれど、動かなければどうしようもなかったのだ、と、苦い思いを抱えながら、指示を飛ばし終えてやっと、彼女がいるであろう場所へと向かうことができた。
そこでは、先行させた医師や薬師たちが中でもうすでに働いており、戻ったひとりから報告を受ける。
――予想よりも、被害が広がっていないと、収束に向かっているときいて、軽い驚きとともに安堵する。
失われたものがないわけではないけれど、それでも、現状は「良い方」であるといえた。
と、扉が開かれる。そこは、療養者たちの集まる場所。一番隔離されていた場所。
説明を受けながら、けれど、視線は左右にと求める人影を探して、走る。
そして、どこか馴染んだ黒が、目に飛び込んできた。
ともに暮らした日々は、どうやらその黒を暖かなものと認識させたらしい。
――どこから、なにから、彼女に話せばいいだろう。
説明を受け指示の追加をだしながらも、浮かんだのはそんな思いだった。
彼女は無事のようだ、と、視界の端で捉えて、微かに安堵を覚える。
しかし、彼女の傍らに立つ男の姿をみて、その安堵にわずかに苛立ちが交じる。
そう、彼女のそばにあろうとする男。少しばかり浅慮な、しかし若さから言えばごく普通の感性をもつ、かの男。
悪い男ではないのはわかってはいるが、それでも。
そこは、自分の場所だ、と、傲慢にも言い放ち奪い取りたくなるほどの感情が、湧き上がる。
ああ、認めよう。
認めざるを、得ないだろう。
――確かに、自分は、その黒に惑い囚われてしまっていたのだ、と。
駆け寄りたい気持ちをおさえてゆっくりと歩み寄る。
彼女のそばへ、と、心のみが逸る。
けれどここは隔離の場所。
近づこうとするのを、まだ危険であるからと、一瞬止められるが、それでもと断りを入れ、歩を進める。
この病は、流行病ではあるけれど。
一度でもかかったものは、二度とかからない。
――幼い頃、この病にかかったがゆえにまず勢力争いから外され、故に自由を得た。
そして、生き残ったがゆえに今ここにいる。
そんな自分の運命の皮肉さに、微かに苦笑が浮かんだ。
だんだんと、彼女へと近づく。
まだ、彼女が気づく気配はない。
あと、数歩、と、なったとき。
がくり、と、力尽きたように、彼女が倒れる。
まるで、世界が減速されたように、ゆっくりと、彼女の崩れ落ちる姿が目に映る。
――ああ。
倒れ行く彼女の姿を見て、安堵が一気に焦げ付くような焦燥に入れ替わる。
遅かったのか。間に合わなかったのか。
――それとも、選んだ道が間違っていたというのか。
ゆらぎ荒れる心のまま、体は彼女に向かって動いていた。
どうか、神よ。
無意識に心のうちで、そうつぶやいたのは何故だったのか。
今まで信じて来なかったことを詫びてもいいから、と。
らしくもなく祈ってしまった自分を、笑うことなど誰が出来るだろうか。
共に暮らした日々は、たとえるならば、ぬるま湯の中にいるような、陽だまりの中にいるような、そんなどこか曖昧で微かに焦りを覚えてしまうような、平穏な生活だった。
平和な生活、というのをしたことがないとは言わない。年中戦乱に明け暮れるほどの国でもなし、仕事が無いことも多いのだ。
そもそもからして、どちらかと言えば我が身のわがままで傭兵という立場にあるのだから、そうなる前の生活など、危険など殆ど無いものでしかなかった。
けれど、過去のそれが、平穏であったか、は、また別の話で。
こんな、暖かい、穏やかな、そんな生活を送ったのは、親元にいた、幼く平穏な時ですらなかったかもしれないと、そんな風にも思わせられた。
彼女との日々は、いつもいつも共にいるようで、けれど、何事も共にするわけではなかった。
隣にいながらも、同じ事をしているわけではなく、それぞれが自由にしていなから、その空気はいつも暖かかった。
何気ないその空気が、何気ないその距離が、何気なくかわされる視線が、言葉が、どうしようもなく愛しいのだと、気づくのにそう時間はかからなかった。
――けれど、それを言葉にすることなど、できなかった。
なぜなら、この場所にいる理由が理由であったからでもあり、言葉にすることでその空気が壊れてしまうのではないかと恐れていたからでもあった。
それが、正しかったのか間違いだったのかは、未だに分からない。
わからない、けれど。
倒れた彼女に周囲が慌ただしくなる。そばによろうとすれば止められる。振り払おうとするが、みれば親身に近寄って世話を焼く者たちがいて、真摯な様子で彼女の容態を伺っているのをみれば、それもためらわれた。視線を周囲に回らせれば、彼らだけではない。そこに横たわる人のうち少しは動ける者たちの数名すらも、どこか心配の色を浮かべて、彼女の方を見ていた。
――何かが、変わった。
自分のいない暫くの間に、彼女が辛い思いをしたのは、想像に難くない。
彼女に向けられるそのほとんどが、古い偏見に基づくものでしかなく、大きな街へ行けば、それらのことを言う人も殆ど少ないような、そんな古く凝り固まった迷信にすぎない。
それでも、だからこそ、この狭く小さな村では、彼女に向かう風当たりがどれほどのものだったのか、想像することなどたやすかった。
そばに居さえすれば支えもでいただろうが、それを選ばずに最善を求めたことは間違っていたとはおもわない。
けれど、居ない間に起こった変化は、小さいようで間違い無く、この村の人達の中に浸透していて、それが暖かくもどこか胸の奥を苦く焦がす。
――彼女に、思いを、すべてを、伝えていくべきだったのかどうか、は、答えなどわからない。
けれど。
離れていた時間の彼女の変化を、この目でみることができなかったことが。
彼女が辛い時にそばに居られなかったという事実が。
どこか悔しく思えるのは、あまりに情けない思いだろうか。
流行病にかかっていたわけではない様子で、どこかほっとした周囲の人間が、彼女を移す相談をしているのに、今度こそ、そばへ寄る。
そして、彼女を抱き起こそうとしていたカインを手で制し、そっと、彼女を抱き上げる。
視界の端で、カインが驚いたような表情を浮かべる。それを気づかぬふりで、しっかりと、彼女を落とさぬように力を込める。
――その、重みが。
以前感じたものよりも、かなり減ってしまったように思えて、それが切なくて。
どこか苦しげにまゆを寄せる彼女の頬に掛かる髪をそっと手で払って、慎重に歩き出す。
必ず、伝えよう。
自らの思いと、自らのことを。
たとえその選択肢が、彼女の望むものでなくとも、彼女に受け入れられなくとも。
魅入られたものに選べる道など、限られたものでしかないのだから。