不穏な兆し
しるしをつけた。
村から森の家までの道の中に、小さなしるしをつけた。
わかる人だけにわかるように、こっそりひっそりと、小さなしるしをつけた。
迷子にならないように。
もう、迷うことのないように。
私はここにいるよ、と、囁くような気持ちで。
――それはささやかな変化。
けれど私にとっては、とてもとても、大きな変化。
窓を開くと、朝日が差し込んでいた。
――そろそろ雨季も終わり、暑い暑い季節がやってくる。
雨季のあけごろは、気温の変動やなにやらで、村では体の調子を崩す人が多い。
少し多めに薬草を用意した方がいいような気がして、次に下ろす日までに間に合わせるために準備をしよう、と、ひとつ頷いて朝の支度を始めた。
雨季あけごろの森は、薬草がすくすくと育つ。
雨の間蓄えていた力を、日の光の元で一気に解き放つように、太陽に向かって伸びてゆく。
命の力をこれでもかとみせつけるように、輝く日の光の下で力いっぱい伸びてゆく。
気のせいかもしれないけれど、この季節の薬草は、少しだけ効きがいいような気がしていた。
朝の仕事を一通り終えて、午前中の涼しいうちに、手にかごを持って森へと入る。
後ろからはレイルが、静かに付いてきていた。――これも、いつものこと。
私が森に入るとき、レイルは無言でついてくる。最初は疑問に思ったけれど、特にこちらになにか用があるわけでもなく、採取する傍らで姿を消したかと思うと獲物を捉えて戻ってきたり果物や木の実を手に入れてきたりと、彼なりの狩りの時間でもあるようだった。――時折、そんな彼の様子がまるでネコ科の動物のようにみえるということは、心のなかにしまっておいた。
今日も暑くなりそうだ、と、まぶしい太陽に目を細め、道に迷わぬよう木々と太陽の位置を確認しながら森の中へ進む。
目印となる大木を数えながらすすんだ先、少し開けた所に、薬草の群生地がある。木々の葉の折り重なる中に開けたそこは、日が差し込む部分とそう出ない部分にわかれ、それゆえに複数の種類の薬草がとれるので重宝している場所でもあった。
ひとつ、ふたつと、根つきで必要なものは丁寧に土を落として、そうでないものはナイフで根から切り離して、と、ある程度のまとまりになるように纏めながら採取してゆく。これらは乾燥させたほうがいいもの、そのままの方がいいもの、と、わかれるが、今日採取するものは乾燥させるものだ。丁寧に集めながら、乾燥させやすいように調整する。基本そのままの方がよい薬草でも、乾燥させてはならないというものはないようで、保存の為に少々効力が落ちても乾燥させることが多い。
じわりと滲みだした汗を掌で拭いながら、青く晴れた空を見上げる。――この世界でも、空は青く青くどこまでも高く、そしてお日様はひとつで世界を照らしだす。何も、そう、何も変わらない。日が昇り日が沈み、日々の生活の為に働いて、そして休む。ごくシンプルに考えば、生きるとはそういうことで。だから、どこにいっても、結局は、何も変わらないのだ。――かわるはずなど、なかったのだ。
小さく浮かぶ苦笑を、首を振り払う。さあ、余計な事を考えるのはあとでも出来る。今は、とりあえず、本格的に中天に日が昇り暑くなる前に、作業を終わらせてしまうことが最優先だ。ふうとひとつ息をついて、再び腰を屈め、薬草と香草を、まじらないよう工夫しつつ、根本をひもで纏めながら集めていくのだった。
それに気づいたのは偶然だった。いつもと変わらない森の風景、去年と変わらない薬草の群生地――の、はずだった。けれど。
「……多い?」
少なければすぐに気づいただろう。けれど、それは増えていた。ひっそりと、数を増やしていた。
思わず眉が寄る。この薬草の生態的に、なかなか数が増えないはずなのだ。そう――減ることがあっても増えることが、基本的に難しい個体。そう教わった薬草だ。
そう。なかなか増えることのない個体。全く増えることがないわけじゃない。増えるときは必ず原因があり、原因がある以上それに伴う影響も、ある。
増えたからといって必ず、影響が起こるわけじゃない。ないけれど、一つの可能性として、頭に入れておかなければならないこと。おじいさんが教えてくれた言葉が、脳裏をよぎる。
――大目に採取して、用意しておこう。
備えあれば憂いなし。そんなことわざを思い浮かべながら、丁寧に採取を始める。
じわりと湧き起こる焦燥に似た不安を振り払うように――備えのためだけ、と、心で言い訳をしながら。
暑くなり始める季節のはずなのに、なぜか気温の差が激しい。これでは体調を崩しかねない、と、意識して防衛する日々。元の世界にいた時のように、簡単に薬など入手できない。できる薬は薬草から作ったもののみで、効果はあるけれど、即効性があったり劇的な効果があるものなんて、滅多に存在しない。つまりは、体調を崩さないようにするのが最大の防衛で、私はこの世界で間違いなく、弱い部類に入る。むらの人々は、毎日の生活の中で鍛えられた体があるけれど、私にあるのはここ数年で鍛えられた体だけ。もちろん、以前より間違いなく向上しているとはわかるけれど、それでも、警戒するに越したことはなかった。
そういえば、あの薬草が聞く病はたしか、伝染性の病気で流感のような症状がでるんだっただろうか。風邪、という病気はないんだと、薬草を扱うようになってしみじみと思う。症状を総合して風邪、というのだな、と、思考をめぐらせつつ、手は作業を続ける。薬、というにはおこがましいレベルのものしか、私には作れない。トマソンの村は、規模としては小さく、専属で住み着いている薬師さんがいないから、私が届ける薬草でも重用してもらえているのだけれど、やはりきちんと勉強した薬師さんたちに私の付け焼刃な知識が叶うわけがない。私にできるのは、薬の前段階、加工しやすいよう調合しやすいように素材として完成させることだけ。それでも効き目はあるけれど、やはり調合された薬にはかなわない。――いつか、学んでみたいと思うけれども、大きなまちに行って学ぶのは難しいだろう。おじいさんが残してくれた本があるから、頑張れば独学である程度まではいけるかもしれない。やはり、今はそれが最善の方法か、と、ため息が漏れた。
――私にできること、って、なんだろう。
――私の居場所って、なんだろう。
単純作業を繰り返していれば、ふわりふわりと沸き起こるそんな、愚にもつかない思いを、ふるりと振り払う。考えても仕方がない。今出来る事をする、今やるべきことをする、それが道なのだ。その中できっと、きっと、答えが見つかるはずだと、自分に言い聞かせる。
――誰も助けてくれないと、嘆いて一人うちにこもることも、できるけれど。
ここでは、そうじゃない、今、自分ができることをやっていきたいと、そう、思うから。
刻んで瓶に詰めながら、ふと窓の外をみれば、次第に輝きを増すこの季節の太陽に、森の緑が深く輝いてみえた。
その時、保険のつもりでつんだ薬草が本当に役立つことになるなんて、この時は、これっぽっちも思っていなかった。
――薬草に影響を与える環境の変化は、人々へも等しく、影響を与えていたことを、村を訪れた時知ることになるのだった。