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リルシャの森に住む人  作者: 喜多彌耶子
断 章 逢阪美桜
31/47

――そして


大きな森のはずれに、小さな家がありました。

その大きな森は、妖精の森とも迷いの森とも呼ばれ、人が入ると迷い易いことで有名でした。


そこに、一人の老人が住んでいました。


えらい賢者様が世を儚んで忍び暮らしているのだとか、流れ者が住み付いているのだとか、近くの村の人達は噂します。

けれど、その老人の作る薬は、効き目がよく、薬草の知識もすばらしかったため、村のひとたちは細々と交流をしていました。



ある日のこと、老人が、庭にでると、ふと日が翳り、あたりが薄闇に包まれました。

驚いて周囲を眺めていると、その闇の一番濃い、中の見えない所から、するりと、なにかが零れ落ちてきたのです。


老人は驚きました。


それは、人でした。真っ黒い髪に、ほとんど黒くみえるような服をきた、女の子でした。


恐る恐る近づいた老人は、気を失っているらしい少女に、どうしたものかと途方にくれました。


けれど、そのままにしておくわけにもいかず、彼は少女を、家へと連れ帰ったのです。


やがて目覚めた少女は、濃い茶の瞳をもっていました。今までにみたことのない色の組み合わせに、老人は驚きつつ、優しく声をかけました。


しかし、少女は亡羊とうつろな視線を彷徨わせるばかりで、応える様子がありません。


老人は、そっと手を伸ばして少女に触れようとしました。


しかしその瞬間、今までの亡羊とした状態が嘘だったかのように、少女はびくりと震え、身を護るように手を体に回しながら震え始めました。


――うつろな目に、滲むのは怯えの色。


老人は、まるで傷ついた獣のような少女のようすに、小さく笑って、そっと安心させるように食べ物を差し出しました。


びくびくと警戒を続けていた少女は、やがて空服に耐えられなかったか、与えられた食べ物を貪るように食べました。


――こうして、少女は、老人に拾われ、暮すようになったのです。




少女の名前は、ミオというようでした。

言葉が通じないため、身振り手ぶりで老人は少女と交流をはかりました。


最初は怯えていた少女も、少しずつ少しずつ、なんども諦めずに声をかけ手ぶりでしめしてくれる老人に安心し始めたのか、やがて老人の言葉を真似るようになりました。


たどたどしく繰り返される言葉に、老人は顔が綻ぶのを隠せぬまま、言葉を教え続けました。


少女は、いい所の娘だったのか、とても綺麗な手をしていました。いえ、全くあれていないわけではないのですが、酷くない状態だったので、裕福な庶民だったのだろうと、老人は推察していました。


老人が家のことをひとつひとつ、少女に理解できるよう、ゆっくりとした言葉で教えると、最初は全くわからないようすで戸惑っていましたが、やがてそつなくこなすようになりました。なるほど、家事をおこなっていたことがあるのかと、それで老人は理解しました。


ひとりの生活は、二人になり、老人と少女は、ひっそりと森の中で暮らしていました。


狭い狭い空間での、密やかな生活。それが少女にとってどう影響するのか、老人にはわかりません。――けれど、少女は、少しずつ表情がでるようになりました。うつろだった瞳に、光が宿るようになりました。そして――次第に、うっすらとですが微笑むようになりました。


それは、ほんのささやかな変化でした。


けれど、少女にとっては大きな――心の修復という意味で、大きな、変化でもありました。



静かに静かに、森の中で二人の生活は続きました。

段々と言葉を覚え、拙いながらも会話を交わせるようになったことで、老人は夜、少女と語り合う楽しみを覚えました。

穏やかな火の灯りの照らす中、交わす会話は他愛もないことで。

最初はあまり、言葉数の多くなかった少女も、次第に少しずつ会話を楽しむようになっていきました。


交わす会話は、薬草のこと、森のこと、この国のこと。


――そう、この少女は、この国のことも、森のことも、何も知らなかったのです。


彼女がどこからきたのか、なにがあったのか、老人にはわかりません。

わかりませんでしたが、ただ、それを少女に聞こうとは、微塵にも思いませんでした。


それは、もしかすると、夜会話を交わすときに浮かぶ、どこか幸せそうな笑顔のせいだったのかもしれませんし、また、夜半、小さく聞こえるすすり泣きの声のせいだったのかもしれません。


老人と少女、二人だけの生活は、穏やかで緩やかで、とても暖かいものでした。


それはとても、この上なく老人にとって幸せな時間でした。



一年を過ぎ、二年目も半ばを過ぎた頃、老人は体に不調を覚えました。

そのとき、自分になにかあれば、少女が森に一人になってしまう事実を、改めて悟ったのです。


このままでは、いけない。

閉鎖された森だけでの生活は、もしかすると少女にとって幸せなものかもしれないけれど――老人は思ったのです。


外の世界へと、もっと他の人達へと、関心を、心を、開いていってほしい、と。


あくまでもそれは、老人の勝手な願いだとは、理解していました。


少女が望むものであるかは、わかりませんでした。


けれど、もし少女が外の世界に飛びだしたときに困らないよう、また、ひとりになってしまってもいきていけるように、と、老人は、今までよりも丁寧に知識を分け与え、本を与え、そして――村へと連れだしたのです。


村へ行く、と、告げたとき、少女は激しく震えました。

顔は強張り、目は怯えに揺れていました。


いくのをやめるかい、と、老人が静かに問いかけたとき、しかし少女は、一度強く、眉間に皺が寄るほどに強く瞼を閉ざし、首をふりました。


そとに、いきます。


瞼を開いたとき、そこには決意の色がありました。

強い意志の色が、ありました。


――最初であったときの、うつろな目は、もうどこにもありません。

――亡羊と虚脱したように座りこんでいた少女は、もう、どこにもいません。


だいじょうぶかい、と、問いかければ、少女は、どこか強張りながらも笑顔を浮かべて。


――わからない、けれど、がんばりたいの。


そう、言葉を返したのでした。



村へ出かけた老人は、少女を取り巻く現実の厳しさを、改めて知りました。


黒髪、濃茶の目など、この世界ではほとんど、いえ、皆無に等しい色合いなのです。


聞こえる言葉に、僅かに震える少女の背にそっと手をあて、用事をすませてゆきます。


その途中、世話になっている食堂の奥方に、少女の服装のことで叱られてしまったり、また、商家において少女に穏やかに話しかける主人の姿をみました。


少女は、どこか怯えた風情を抱えながらも、かけられる言葉に、優しさに、僅かに顔を綻ばせて、たどたどしくはありましたが、言葉を返していました。



森への帰り道。

どうだった、と、問いかけた老人に、少女は、こたえました。


――どこも、かわらないのですね、と。


その言葉の意味を、老人は理解することが出来ませんでしたが、けれど、そのときの少女の表情が、あまりにも切なくて、悲しそうで――けれど、とても穏やかなものだったので、ただ、頷くだけにとどめたのでした。



それから半年、月に1度の訪問の度に、少女を伴い村を訪れました。

また、少女に教えたさまざまな知識の中から、少女が作りだした香草を詰め合わせ熟成させた小物も、商家に下ろすようになりました。

そして――数少ないながらも、数名の村人と交流をもつように、なったのです。


老人は、安心しました。


これで、彼女は生きていける。

これで、彼女のことはもう、心配ないだろう。


家のことも、森のことも、教えられることはできる限り教えてきました。


もちろん、まだまだ教えるべきことはあるでしょうが、老人は気づいていました。


もう、彼に残された時間はほとんどないのだ、と。



寒い冬。

厳しい寒さの中、老人はとうとう、病にたおれました。

必死になって看病する少女に、老人は静かに語ります。


――ミオ。覚えておいで。この森は、厳しくも優しい。


ほろほろと涙をこぼし、何度も首を振る少女に、もうあまり力の入らない手を伸ばして、そっとその黒髪を撫でました。


さらさらと流れる黒髪は、来た時よりも長くなりました。黒い色は確かに珍しいものですが、老人はそれがとても美しいものだと、少女と暮すうちに思うようになりました。


――願わくば。


その美しさに気づいてくれる人が、いつかあらわれますように。


少女が、自然と笑顔になれるときが、訪れますように。


心の中で、老人は願います。


ミオ、覚えておいで。世界はとても広いけれど、とても狭いものでもあるんだ。

いつか、そう、いつか。今はたとえこの狭い森の世界だけでいきていたとしても――君に幸多からんことを。


――幸せにおなり。愛しい子よ。


老人は、そう、少女に告げると、瞼を閉ざしました。

幸せに、幸せに。そう、心から願いながら。


――少女の涙声に送られて、老人はやがて、息を引き取ったのでした。





この、出会いが、少女に何をもたらしたのか。

そして、老人にとって何をもたらしたのか。


それは、本人達にしかわからない、けれど。


小さな森の中で、二人で暮らした温もりは、暖かな思い出として、確かに、少女の中に残ったのでした。




――少女と、老人の、小さな辺境の森での物語。





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